幕間あるいはインテルメディオ ―朔月
現世は天地を満たすあらゆるものにとって、
通り過ぎる仮初の寝床みたいなもの。
月日は永遠の旅人で、
儚い一生は良くも悪くも夢のよう。
喜びを味わう術なんてあったのか、
本人にも分からないほどに。
白露城址の一端に城山市の資料館がある。
白露城の従える『城山の杜』は桜こそ賑やかだが、まだどこか寒々しく芽吹きには少し早い。
「東風より参った災いの種が、西に根付いて今その芽を吹こうとしている」
窓から身を乗り出すように西の方を眺めていた女がつぶやくように言った。
書庫から資料を運びこんできた少年がそれを聞きとがめて、怪訝そうに眉をひそめた。
「ひどいことになりましょうか?」
「それはどうかしら。まだわからないわ。城山が無事ならそれでいい。宙。まだ、新しいお守りは決まっていないのだから、お前、墨をすりなさいな」
言われて少年はおとなしく墨を擦り始めた。
そのすべるような所作は、見た目の年のころと比べてどこか不釣合い。
「阿国衆の筆頭は、三輪から移って参った者ね」
「神門忠盛。出自はこの辺り。向こうに居て、場所替えで戻って参った次第です」
そう。
女は手元の扇子を所在投げに弄んでいる。
「十三参りのあの晩に、縁の糸を結んでやった者も、こちらに移ってきたことだし。あの童子は、また一からやり直さなくてはならなくなったけれど、きっとあきらめないことでしょう。たのもしいこと」
「介入なさるか?」
少年が墨をする手を止めた。あたりには深い芳香が満ちている。
「まさか」
あでやかな衣装のすそを払って女が振り返った。まっすぐに垂れた黒髪が房飾りのように揺れる。
「城山には城山の法があるように、あちらにはあちらの法があるという物。記しなさい、宙。哀しい橋姫の話を」
1)今は昔
その女は都から遠く離れた土地に生まれた。
父と母にそれまで子はなく、あらゆる神仏に祈り初めて生まれた子だった。
女は掌の上の玉のごとく大事に育てられた。
琴を習い、歌の道を習った。
香を焚き染め、鮮やかな衣を纏った。
そうして年月を重ね、年頃になると豪族に見初められた。
男の家は豊かで、豪族の妻としては豊かな暮らしが約束された。
けれど・・・否―女は言った。
神仏より授かったこの身、かような男の下で朽ちるはずがない。
玉の輿を望む少女を探し、身代わりに仕立て上げ、豪族の家に上らせ、自らは父母と都を目指した。
習い覚えた琴は生計の足しになり、また都人の目に留まる機会を与えた。
女は貴人の腰元となり、側女となった。
まばゆいばかりの丹。
美しく、また教養に恵まれた人々。
芳しい香り。
耳心地のよい音曲に、その身を賛美する人々の声。
寵が過ぎれば、足元を掬おうとする者が現れるのが世の常。
それこそが、人の、女の業。
―都に噂あり。
貴人何某の正妻が病の床に就き、あらゆる薬師を用いても平癒せぬはあやし。
陰陽、僧を用いて探れば、災禍の源、側女にあり。
側女の名、紅葉と申す。
正妻の座を狙わんとして呪いするなり。
女の心はどこか冷めていて、その身の申し開きさえしなかった。
この身が高みにあるときは、こぞって麗句を口にしたものたち。
彼らが今口にするのは、嘲りと乾いた笑い。
この場所は、色と香りに溢れ美しい。
けれど、ほら。
御簾の影、几帳の向こう側で交わされるのは嫉妬、羨望。罠と策略。
その卑しさや淫猥ささえも、ここでは甘い。
咲き誇り、熟れすぎた色をたたえて、腐り落ちるしかない、まるで婀娜花のように。
未練などなかった。
女は、都を追われた。
身重の体で流れ着いた場所は、水清く、木々の麗しい土地だった。
人の心根は穏やかで、女と父母を下にも置かぬほど大切にした。
子も生まれた。
故郷の豪族から、逃れてきた少女も呼び寄せ、はじめた暮らしは予想外に穏やかだった。
作付けの相談を持ちかけられれば、都より持参した書物を開いて、知恵を授けてやった。
野党が出たと言えば、都の警護について見聞きしたことを教えてやった。
琴を教え、歌を詠む。里の者は女の雅な姿をそっと見守る。
けれど、その暮らしも長くは続かなかった。
都より、討つ手が来たのだ。
『徒党を組んで都を攻めようとしてる』
富む里を妬んだ豪族たちの策略だった。
・・・女一人に、よってたかって醜いこと。
女はあわてなかった。
武人をもてなし、敵意のないことを知らせ、子が生まれた旨を文にしたためて都に返した。
美しい紅が里を染め上げたその季節に、再び武人は姿を現した。
白刃と悲鳴を聞いて、女は知った。
あの正妻は都から、わが身と子を追い出しただけでは足りなかったのだと。
2)羽化
乾いて、掠れた音。
ぱさり、ぱさりと。
ほら、また。
我に返って、両の瞼を硬く閉じていたことに気付いた。
ゆっくりと開いた眼が映したのは、濁りのない青。
秋の空は何処までも澄んで、遠く、高い。
そこに燃えるような紅葉が瞳を捕らえる。
色目のなんとはっきりとしたことか。
少しずつ厭わしくなる荒い呼吸の音が鼓膜を震わせる。
肘に力を入れて身を起こそうとするが、胸に何か重い物が載っている。
はたと思いあたってかきむしりたいほどの痛みが胸を貫いた。
無事でないことは分かっていた。
抱き起こしたわが子はゆらりと不自然な体制のまま、鮮やかな紅い落ち葉に埋もれるように倒れこんだ。
・・・冷たい。重く、鈍い柔らかさ。
一時にあの地獄絵図のような光景がよみがえって、女はうつろに辺りを見回した。
ぱさり。ぱさり。
あとから、あとから色づいた葉が天より落ちてくる。まるで、血のような紅い葉
その落下する音が、確かな静寂を刻む。
すべてが終わった。この身に許されたと信じていた喜びも希望も死に絶え、ここにはもはや骸のようなこの身以外に何もない。
鬼女。そう呼ばわれた。
鬼女。呼ばわれて、泣き叫んだ。
違う。私は人だ。
泣いて、笑って、怒り、楽しむ。短い命の火を燃やしながら、それにすがって生きるなんら他と変わらぬ人だ。
私が何をしたというのだ。
謂れのない咎も甘んじてうけた。
人の道をそれることも、この身を恥じることは何一つ、犯しては来なかった。
神仏に望んで、生まれた子だと?
ならばなぜ、かような生き筋を辿らねばならぬのか。
踏みにじられ、虐げられ、この生き筋の何に感謝をささげればいいのか?
ぱさり。ぱさり。掌はわが子の血で真っ赤に濡れていた。
すぐそばに、最後までそばにいた友の赤黒い頬が見えた。
そこから半歩も行かぬところに半ば落ち葉に埋もれているのは、見慣れた下女の着物の色。
ぱさり。ぱさり。
紅い、紅い色。
怒り・・・悲しみ。
否―そんな言葉など・・・言葉になどできはしない。
強いて言えば・・・そう、鬼。
くらくて、陰懺で、まがまがしくて、闇と血と吐き気と痛みと嘆きと、呻きと、憎しみと、どろどろとした私自身がとぐろを巻いて・・・そうだ。
思わずあげた声は、紛れもなく笑い声だった。
鬼だ。それが私の深いところを満たす。
鬼女。そう呼ばわれた。哀しかった?
鬼女。いいえ・・・ほら、もう馴染んできた。
鬼女。そうよ。掌の朱をそっと胸に押し当てた。
思い知るがいい。
その身に刻むといい。
蛹が割れて皮を落として、毒蛾が生まれ出でるように。
蜘蛛の子が親の遺骸を食い破ってその姿を現すように。
お前たちが示したのだ。わたしの進むべき道を。
お前たちが与えたのだ。わたしの新しい姿を。
さあ、味わうがいい。
私から、『人』を奪ったその罰を。お前たちの行いを。
子々孫々・・・末代まで。
いいや。激しくその考えを否定した。
足りぬ。その友、隣人、知人、敵。縁と縁を結ぶその細い糸をたどり、小さな虫が根を伝って大木をその根から腐らせ、食らい尽くすように。糸から糸、根から根。そう、根絶やしに。
女は立ち上がった。袴の裾が乱れたが、そんなことはもはや気にもならぬ。
額が裂けて角が生え、目が光、口から牙がのぞこうとも本望だ。
そうなればきっと千里を駆けて、思いを遂げにいくだろう。
取り出した鮮やかな錦の袋。
そこから滑り落ちた冷たい表面には、禍々しいほどに整った女の顔。
懐剣の切っ先をぴたりと身に添わせる。
蛹が羽化する時だ。
紅は血の色、炎の色。紅葉の色。
逃しはしない。
くつくつと女が笑った。
本物の鬼女になってやる。
最後の一葉まで、きっとむさぼり食ろうてやる。
これが・・・始まりだ。
ササガネです。何はともあれ、ネットの投票で票を入れてくださった貴方!(そう、スクロールの指が止まった貴方です!)厚く厚く御礼申し上げます。
しばらく多忙につき、更新が難しい状況だった(今も状況は続いてるんですが)のですが、ネットの投票をして頂いているのを見ると、俄然、書こうという気が沸いてきます。本当にありがとうございます。
では、本題に。
この章は初め次の話の頭についていたんですが、急遽切り離して、間に入れることにしました。鬼女誕生の章です。少し雰囲気変えて見ました。次回は通常営業です。
ササガネはお話を夜に書きます。(昼間は、昼の顔がありますんで)今も丑三つ時です。昨日次話を書きながら、だんだん怖くなってしまって。基本、幽霊ネタなんで。自分で書いて自分で怯えてたら世話ないですね。
けれど、よんでくださってる方々の中に物書きさんが居たら、分かってくれると思うんです!
次話はわらべ歌遊びを交えて書いています。
しかし、何であんなにあの歌(まだ、秘密)は怖いんでしょうかね。しかも、ササガネは一番すきな遊びでした。生きている何かを煮て食って、化けて出られている歌ではないですか。(お分かりになりまして?)
怖くなってきたので、撤収です。
次話でお会いしましょう!