弥生のこと。春日と修羅
初めてその女を見た時、右手に握り締めた刃が小さく鳴った。
怖いんじゃねえ。もちろん、寒いんでもねえ。
武者震いだ。
そして初めて狂気から覚めて、俺は返り血を浴びた自分の姿を恥じた。
俺は知った。
こいつは俺の運命を示す女だ。
俺には、もう何も残っちゃいない。
俺は俺自身が何者かすらもう分かっていない存在だったから。
斬って斬って斬りまくって、その返り血でどうにか自分の輪郭を刻むようなそんな存在。
守る者も欲しい物ももうないと思っていた。
そう信じていた俺に再び歩き出すための道を示してくれる女。
俺が何者で、何をし、何処へ行くのか、その答えを与えてくれる女。
それがお前だった。
ねえ、たまちゃん。
そう言って私の手をとったのは、5年前にいなくなった美しい叔母。
いつもこんなふうにきちんと着物を着てたっけ。
たまちゃん、本当はとっても目がいいの。
おばちゃんね、目隠ししてたの。耳もふさいでたのよ。
でも、もうこの手はずすね。
おばちゃん?なに言ってるの?
あの子達と仲良くしてね。
誰と仲良くすればいいの?ぼんやりとした意識で私は尋ねる。
大童子と春日。
叔母がそっと立ち上がる気配がした。
どこいくの?おばちゃん。
私は手を伸ばす。だけど、
鼻がつーんと冷たい。
あなたとあの子達が、手を伸ばしてくれたらその先にあたしはいる。
大童子の本当の姿を探してあげて。
おばちゃん?
去っていく気配がするけど、私の体はまだ眠っている。
何の音もしない。
何の匂いもしない。
ああ、そうだった。
寝返りをうつ。
引っ越してきたばかりの家で迎える朝は、匂いも音もどこかよそよそしい。
でも、昨日の疲れが抜けきらない。
そういえば、荷解きを手伝いに来ていた三つ年下のいとこが言ったっけ。
「こんなとこに住みたい気が知れないよ。僕なら眠れそうにないね。いろんな物がうようよ居過ぎて。」
別にムカデも、ゴキブリも出なかった。
ってか、今冬だし。怖がりな奴。
寒い。鼻先が冷たい。
もう一度、布団を鼻先まで引き上げて、寝返りを打つ。
そのとき、頭上で少女の声がした。
「で、どうするね。この餓鬼。」
「んー、まあ、俺達、見えてねえようだし?いいんじゃね?」
男の声。ん?男?男だと?
「それは、駄目だわね。私にもプライバシーってもんがあるわね。」
まだ幼さを残す少女の声が、少しとがった。しかも、出雲弁だし。
「へー、おめえみたいな餓鬼にもプライバシーってもんがあるんだー。おじさん、知らなかったなあ。」
いや、棒読みだし。
「当たり前だわね。そうでなければ、このあたりの家に祟って、片っ端から追い出したりしないわね。おっさん。」
いや、なんか。本当はこの家、私しかいないんですけど。その前に祟るって何?
「そんなことだから、この家、幽霊屋敷ってよばれんだよ。そこんとこ分かってる?」
「幽霊が主の家は、幽霊屋敷に決まってるわね。」
幽霊?幽霊ってなに?あれ?私、完全に目を開けるタイミングを失ってる?っていうか、この家の主は私なんですけど!
動揺するも目を閉じたままの私の頭上で少女の声は続く。
「大ちゃん、考えてもみろ。女は口やかましい生き物だわね。『どうして、私の歯ブラシつかうの!』とか、『なんで私の話をもっと聞いてくれないの!』とか『靴下は、ちゃんと洗濯用の袋に入れて!』とか毎日毎日お母さんみたく言われてみろ、こっちが参ってしまうがね。」
つか、それどんな、シュチュエーションだよ。
「無理!ぜってー、そんなの無理。ってか、それお母さんじゃなくて、奥さんだから。」
「でしょ、でしょ。じゃあ、やるしかないわね。」
少女がはしゃいだ声を上げると、男が懐から何かを取り出したようだ。紙を広げるような音がする。
「てーと、どうする?狐火グリルコース、わら人形串刺しコース、油澄まし釜揚げコースっと。」
「私は最近、油ものはいらないね。」
喰う?喰う気なのか?この私を喰らう気か?
思わず飛び起きる。目の前に半透明の男と、同じく半透明の少女の驚いた顔がある。
男は肩から蜘蛛の巣がかかった模様の紺の半纏に、赤穂浪士が着ているような火消し装束。そして腰に刀。少女は色が白くつややかな黒髪が肩まで。赤い着物は可愛らしい容貌に映え、いかにも座敷わらしといったようないでたちだ。
その二人が私の顔を見て、同時に言った。
「おはよう」
いやっ。み、見えない。私はなにも見ていない。知らない。絶対認めん、こんな世界は。
私、日下 環はめでたく大学に合格し、新生活を始めるつもりでこの山陰の小さな町にやってきた。
これまでが母と娘の親一人子一人の暮らしで、日中に限って言えば自分の世話は自分でして来た。
それだけに一人暮らしは不安だが、どこか新鮮味とは程遠い。
この古い日本家屋は五年前まで私と十三歳違いの叔母が暮らしていたが、五年前のある日突然『この家の名義を環に書き換えてね』という書置きを遺して、失踪してしまった。
叔母は民族学だの仏像だのに造詣が深く、私大の助手でもあったし、小説家でもあった。
今年、私が高校を卒業するタイミングで母が再婚した。
私はよく知らないその人と一つ屋根の下暮らすのがいやで、叔母が遺してくれたこの家で新生活を始めようと、受験する大学も選んだ。
卒業式が終わると同時に、越してきたのが昨日。
それが赤の他人、それも化け物と同じ屋根の下暮らすことになろうとは。
この日まで想像だにしなかった。
湯を沸かしながら、背後をうかがう。
どうしよう、どうしよう。
この18年と6ヶ月、一日たりとも幽霊の存在など認めた日はなかった。祖母や叔母達はいろいろ見えるだの聞こえるだの言っていたが、母の代からこちらに遺伝してこなかったはずだった。
いまさら、この志を曲げるわけにはいかん。
この後続く大学生活を考えると、絶対にいかーん。
「ぜってー、俺らのこと気付いてるって。」
「この鈍感女、絶対私たちに気付いてないわね。」
まだぬるいテンションで言い合っている二人を放置。
見えない、聞こえない、何にも知らない。
食器棚からコップを出して、とりあえずインスタントのコーヒーを飲もう。この悪い夢が覚めるかもしれない。
「インスタントのコーヒーってコーヒーでないさね。」
「いや、缶コーヒーよりはましだろ。あれは、コーヒーじゃねえ、。豆ジュースだ。」
いや、そんなのどうでもいいから、ほんとに。
炊飯器が現実感に満ちた音を立てて、ご飯が炊き上がる。フライパンを温め、油を人さじ、目玉焼きを焼く。焦げ目が付いたら裏返して中身はとろとろ回りはこんがりの目玉焼きの出来上がり。鰹節とゴマと海苔をのせた炊きたてのご飯に、焼きたての目玉焼きを飾る。これにしょうゆをひとさし。ネギがあれば最高だが、昨日越してきたばかりなので、冷蔵庫はまだ空っぽだ。
「あ、あのにゃんこめし、美味しそう。」
にゃんこめし?ぴくりと私の眉が動く。
「俺、あれ喰うわ。あのにゃんこめし。」
なんだ、貴様ら。人の好物を。卵ご飯・環スペシャルをにゃんこめしだと?
私は取りかけた箸を置き、食卓の椅子をひいて立ち上がる。
ちゃっかり席に座った二人が見計らったようにどんぶりに手を伸ばす。すると不思議なことにどんぶりから半透明のどんぶりが分裂する。
もういい。
あるがまま受け止めてやるよ。
「いただきまーす。」
ご機嫌な二人の声を背に私は嗜虐的な気分で奥の間に向かう。あそこには、叔母が遺したブツがある。
よかろうとも、下賎のやからども。そうして安穏としているがいい。目に物見せてやる。私を愚弄した罰だ。
私は奥の間に行って壁に掛けてあるブツをとってきた。袋をはずして、食卓を囲んでいる二人の間に叩きつける。
薙刀の切っ先がまだ中身の入っていない胡椒入れを両断する。
叔母ちゃん、返してくれた目と耳ってこういうことなんだね。
いいよ。いいさ。受け入れてやるよ。この高い環境順応力でな。
二人は、真っ二つの胡椒入れを一瞥して、今度は凍った顔をこちらに向けた。相手が幽霊だろうが、妖怪だろうが知ったこっちゃない。
「朝っぱらから、ぐちゃぐちゃうるせんだよ。貴様ら!幽霊だろうが、妖怪だろうが、この際かまやしねえ。刻んで火曜の不燃ゴミにだしてやろうか!ええっ?それとも、コンクリ詰めにして三途の川に沈めてやろうか。どちらか選びやがれ!この野郎ども!」
そう。これが、私たちの出会いだった。
座敷に仁王立ちの私は正座の二人を目の前にしていた。どういうわけか、二人はもはや半透明ではない。
「こ、こわいねえ。お嬢さん。」
「嫁の行き手がなくなるわね。」
おいおい、てめえの立場がわかってんのか、こら。薙刀の先をドンと付いて音を立てると、二人はびくりと肩をすくめた。
「貴様!」私は、男の方に顔を向けた。「名を名乗れ。」
男の目が不自然にきょときょとと動く。
「おい、目が泳いでんぞ。」どすの利いた声で促すと男は早口で言った。視線がまだ梱包されている陶器類のほうに向かう。
「ええと、オガミダイジロウ。」
「落ちてる新聞紙のテレビ番組欄から名前取るのやめて。お前の父ちゃん、子づれ狼か。しとしとぴっちゃんか。似合いの髪型にしてやろうか?ああ?」
ふるふると首をふる男の方を見て、クスクス笑っている少女に視線を移す。
「じゃあ、お前!」
少女は飛び上がった。
「えっと、お春?」
なんで、疑問符なんだ。
「自分の名前にクエスチョンマークつけんな!さては、それも偽名だろう?」
「だって、名乗りたくないわね。」
罵倒する私を恨めしそうに上目遣いで見上げて、少女は口を尖らせた。
「俺らは名をとられるとその人には手出しできんからな。」
男が説明口調で付け加えた。
ほう。私は目を細める。叔母ちゃん、なんて言ってたっけ。ダイジロウに、お春か。
化生の浅知恵もいい加減なものだ。さあ、覚悟はいいか。
「大童子。」
男がぐと喉から音をだした。
「春日。」
わ、と少女が両の手で頭を押さえる。
「この世は生きている人間様のものだ。そして、この家ではそれが私だ。よって、このうちは私のものだ。お前らここから出て行け。」
私の言葉に二体の物の怪は首をふるふると横に振った。
これは、想定内だ。
せっかくの同居人、利用しない手立てはない。もちろん、『仲良く』する気だ。
「そうか、出て行かんか。それならよかろう。私は心が寛大だから、ここに置いてやってもいい。ただし。」
恐る恐るこちらを伺う二人に私は目を細める。
「いい子にしろよ。働かざる者、喰うべからずだ。私はこわいぞ。聡子叔母のようにはいかんからな。」
一瞬二人は顔を見合わせて、次の瞬間腹を抱えて笑いだした。
な、なんだ。
「お前が、あの美人で清楚な聡子の姪とは驚きだねえ。」
「似ても似つかないわね。」
うるせー、化け物。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「初心者なのに、不慣れな町なのに、なんでこんなの後ろに積んでるわけ?」
不慣れな町で買い物に付き合ってくれるという従兄弟がちらりとバックミラーを覗いて言った。バックミラー越しに件の二人が、後部座席にちゃっかり収まってシートベルトまでしている。
「もしかして、見えてるのか?」
青ざめている従兄弟の顔を凝視して、私は買ってもらったばかりの中古車のハンドルを握り締めた。
眼鏡をずりあげる従兄弟、君、手が震えているぞ!
「見えてるよ、最初から。つーか、聡子叔母のところに遊びに行く度、どれだけこいつらにいじめられたことか。」
そ、そうなのか?振り返ると、二人は凶悪な微笑みを浮かべて掌をひらひらさせた。
「やー。皓くん。君、背どんどん伸びるねぇ。屋根つきやぶんじゃねー?」
「誰かと思えば、くそ眼鏡か。」
そのあざけりを含んだ声に皓が毛を逆立てた。
まるで猫みたいだ。
「ほら見ろ、既に僕をからかってるじゃねーか。なんであんなの呼び覚ましたんだ。昨日は、雑魚はいたが、こんな大物はいなかったぞ。」
あの雑魚共は俺達が一掃したもんね。というふざけた合いの手が後ろから入るが、皓は完全無視だ。
「今日という今日まで、環ねーさんだけは、日下家の呪われた霊力の血から解放されていると思っていたのに!」
皓、取り乱しすぎだろう。
「私も、今日という今日まで鈍感パワーで護られていると思ってたんだが。」
いつもはクールで、この前もバレンタインチョコを44個ゲットし、44人の女を泣かせた従兄弟が目をむいた。ほう、これは見ものじゃないか。
「だったら、なーんで、そんなにあっさり運命あきらめて受け入れちゃってるわけ?しかもなんで、こんな大物を飼いならしてんの?」
ふふんと私は鼻を鳴らした。
今、思えば私は気を紛らわせて、救われたかったのだ。
一人で暮らすという孤独と、新しく築かなくてはいけない家族関係、母との距離をうまく取れないでいる閉塞感、そんなものから目をそらし、新しい日々をくれる何かに強く惹かれたのだ。
「聡子叔母に家ごと譲られたんだ。面白そうだと思って。」
後ろの二人はようやくエンジンを掛けた私に不満そうだ。
「早くいこーぜ。お買い物。雪見大福買ってよ。おねーさん。」
「私は花柄のお茶碗がいい!」
おい、皓が小声で言った。
「本気で。いや、真剣これ飼う気?」
祖母の菩提寺に参ったついで、紅葉を見にここまで足をのばしたっていうのに。
雨が降っていたっけ。
夏の緑葉には雨のつややかさも風情があろうが、晩秋の枯れ紅葉に雨だなんてなんだか辛気臭い。
あの日、私は近鉄の駅近くの懐かしいアーケードを時間つぶしに歩いてた。
これから、近鉄に乗って、大阪までそこから新幹線で岡山で乗り換え。我が家までは6時間はかかる計算だった。
もう一日泊まっていけばよかったかしらね。
にぎやかだった商店街も池近くまでたどると人通りもなく寂しい。名物の茶粥を売る店があって、その近くに小さな古物商を見つけた。
赤いサル型をした護りが軒先にぶら下がっていて、ショーケースにはおどろおどろしいお雛様があったっけ。後れ毛が不気味なお雛さまは口元が緩んで、お歯黒を履いた歯が見えたし、白粉の剥げたお内裏様は、他に例を見ないほどにサディスティックな微笑みを浮かべていた。
私は古ぼけた引き戸を薄く開いて、中をうかがった。
別にお雛さまが欲しかったわけじゃない。曳かれるって、ああいうことを言うのね。
最初から欲しかったのは多分貴方。
貴方の方でもあそこから出る術を探していたんでしょ?
とにかく、あの店で私は貴方を見つけた。
ほつれ毛のかかる白い端整な顔立ち。険しいというより苦悩を秘めたような眉、伏目がちの目は二重の切れ長。鼻筋は他にみたことがないほどに、すっきりとすこやか。嫣然と朱を履いた唇から除く歯列は整然としていた。どこか、貴方はまどろんでいるように見えた。
それはうつくしい面だった。強い霊力をたたえた男、大童子の面だとすぐに分かった。
古道具屋の女将さんは、商売人なのに、どうもそれは良くないって私が貴方を買うのを止めたっけ。
「この面は夜な夜な人を斬るんですよ」って。
日下の血が騒ぐわ、上等よ。
家にやっとたどり着いて、貴方の入っている包みを居間の炬燵の上に置いたっけ。
家の護り神と普段言ってはばからない春日は怖がって近寄ろうともしなかった。
私が買ったばかりの古い反物が雨で湿っていないか確かめていた時、後ろに貴方の気配を感じた。
傍らに座った春日が、ちらりとそちらを見ながら、私の袖を曳いて警告したのを覚えている。
振り返ると目が合って、貴方の右手の刀が小さく鳴った。
そう、思ったとおり貴方の姿はあの面と同じぐらい綺麗だった。
程よく刈られた髪は無造作だったし、暗い色の火消し装束はとても似合っていた。
こちらを見据えるすっきりとした面差しは目を奪うのに十分だった。
目を奪うといえば、手甲についた血のりもそうだったけど。
だけど、それよりも胸を突いたのは、貴方のその哀しげな目だった。
目を離すことができない。
手を差し伸べずにはいられない。
それが、貴方だった。
ササガネです。
山陰はもう寒い。隣の県ではタミフルの効かない悪玉インフルが出現しているとか。気をつけましょう。察しのよい方は、山陰地方の小さな市がどこか当たりをつけてきたんではないでしょうか。公国はシリアス傾向なので、笑いと、友情とを織り交ぜて書けたらいいなと思うのでありました。