小瀬川
1866年 旧7月3日 正午
広島から廿日市を経て、西から南へ向きを変えた海岸線が岩国に至るその手前、
周防と安芸の国境を流れる小瀬川の岸に、襖のような鉄盾を背負った旭と一千の赤備が佇んでいる。
静寂に包まれた対岸をしばらく睨んだ後、金縁の鞍に乗った士大将が軍配を振ると井桁紋の旗を差した騎馬武者が、書状を携えた従士と供に進み出る。
表情を強張らせた主をよそに、かぽかぽと馬が橋を渡り始めると、朱砂色の旭を
先頭に、銃を鬻げた鎧武者と四斤砲を乗せた台車が続く。
「呑み過ぎですな」
聞きなれた声に、監物は目を開けた。
かしかしと、具足を鳴らして歩く軍列を庇う様に、鉄盾をかざした『震馬』が
ゆっくり前進する。
「余程、良い酒れあった様で」
「そんなに酔ったか?」
振り向く監物に、黒尽くめの一人が頷いた。
陰紋の筒袖に陣笠をかぶり、目から顎を覆う面当から陥没した額がのぞいている。
「久方ぶりに、憑き物が落りた様でひた」
回らなくなった呂律が愉快気に笑う声を聴きながら、監物は静かに歩を速めた。
ずむ、と
履の沈む感触で、監物は足をとめた。
普請を終えたばかりの真新しい橋板に、白いものが積もっている。
雪だ。
橋だけではない。
川も、塀も、家なみも、空からこぼれる雪が江戸の街を灰白色に染めている。
呆然と佇む監物を、後ろから駕籠が追い抜いた。
木綿合羽の供勢を従え、門前の橋を渡り終えた黒漆の大名駕籠は、やがて雪の舞う路の中ほどで歩みを止める。
白い闇のむこうに、影がみえる。
襷掛けの紋付きに野袴を括り、跪く足もとに書状を挟んだ竹棒を突き立てた男。
いけない。
叫ぼうにも声は出ず、手足はびくとも動かない。
男へ歩み寄る三郎をまなじりに捉え、立ち尽くす監物の耳元で、風が激しい唸りを上げる。
最初の砲声が響いたのは、対岸ではなく、背後の山だった。
3.5吋施条砲から放たれた風切り音は、渡河中の騎馬もろとも橋桁をぶち抜いて
朱い飛沫を叩き上げる。立ち竦む徒士衆を小銃弾が貫き、血霧と肉屑を撒き散らす頭の上で、18听の弾塊に撲られた『震馬』が供廻りを轢き潰しながら横転すると悲鳴と怒号が橋を覆った。
「鎮まれい! 備えを乱すな! 」
とっさに指示を飛ばす士大将を見下ろす山の茂みから、人型の機影が次々に身を
起こし、ぞろぞろと斜面を降り始めると、叫騒は瞬く間に後軍へ伝播した。
「…三郎」
擦過する火花と木端と呻き声と血潮の噎せ返る臭いのなか、監物が声を上げた。
「それをどけられるか」
乗り手を放り出した『震馬』を背に三郎が首を振ると、監物は金縁の鞍の陰から
にじり出る。鉛弾に切り裂かれ、ねじ砕かれた人馬の残骸を這い進み、横倒しの
機体に手を伸ばしたその鼻先で、ごつ、と陣笠を着けた頭が橋板を打った。
銃を握ったまま、くの字に折れた三郎の腰から血だまりが広がっていく。
「……」
うずくまる三郎から銃をはがし、砲痕の穿たれた装甲に身をのり出した監物は
震える手でボルトを押し戻すと、橋へ迫る無数の機影に引き金を絞った。