15話
1860年 旧暦1月3日 朝
登城のため上屋敷を出た大老井伊掃部頭の駕籠を、武装した水戸・薩摩藩士が
襲撃、掃部頭と警護8名を殺害した。襲撃者18名のうち討死・自死併せ6名、
後の出頭・捕縛による斬罪等を含めると16名が死亡。
残る2人の行方は、今も知れていない.
「助けられたのはウチの隊士だ。捨て置くわけにはいくまい」
大宣が燭台を灯すと、うす明かりが荒家の内壁を照らした。黒ずんだ敷板に
埃まみれの船道具が転がり、毀れた屋根から、月の無い闇が差し込んでいる。
「捨て置きゃ良かったろう。余計な真似しやがって」
旭から引っ張り出した座布団を並べながら、高美が聞こえよがしに鼻息をつく。
軍制の改革を試みた諸侯がまず突き当たった壁が、兵員の確保だった。
ろくに視界の効かない鉄の箱に詰め込まれる操縦手や、その足元を甲冑も着けず
歩き回る供廻りに進んで手を挙げる家士は稀で、頭数を揃えるため百姓・町人から徴用した家々では、隊内の喧嘩や城下での狼藉騒ぎも頻発していた。
こうした風評に誰より気を揉んだのは同じ械備の隊士達で、彼らにとって交わりの無い他国の機兵は、疑懼の対象でしかなかった。
ざすり、と表で砂を踏む音が響く。
「来たな」
耳聡く立ち上がった大宣が土間に降りると、高美は部屋の隅に目をやった。
綻びた網の上に胡坐をかいた光暉は、支給品の旋銃を抱えたまま、戸口で揺れる筵を見つめている。
「これはこれは、よう参られた」
やがて頓狂に明るい声と連れ立つように、人影が戸口を潜る。
「井伊家物頭、佐野監物にござる」
框に立った男の顔を見て、部屋の空気が強張った。剃り上げた額から鼻筋を刀傷が抉り、筋を断たれた右頬の肉がべろりと顎へ垂れ下がっている。
「わざわざのお招き恐悦なれど、ご覧通り我ら宴席に差し障るもの少なからぬ故、それがし一人、名代として容赦願いたい」
「滅相もない。急な申し出によく応じて下された。どうぞこちらへ」
笑顔の大宣に促されるまま、座布団に腰を下ろす監物を凝視するわけにもいかず、かといって仲間内で顔を見合すのも気が引けて、身の置き所のない沈黙が部屋に
立ち込める。
「いやはや」
静けさに耐えかねるように、向かいに座った春日が口を開いた。
「見れば見るほど、千軍も只ならぬ風格。お勤めは都の方で」
「いえ」
よどみのない声とともに、不自然に開かれた右眼がじろりと動く。
「もとは江戸詰めでしたが、傷を負ってからは国許に戻りました」
ほう、と唸った春日が何ごとか応える前に、すかさず高美が口を挟む。
「しかし、先日の御手前には感服致した。我ら旭には些かの長ありと自惚れて
おりましたが、鼻をへし折られた思いです。御家中では何時から械備を…」
「五年前です」
「五年前となると、ちょうど」
言いかけた春日の喉に千間のこぶしがあたる。
「ならば、浮鳴よりも早いくらいだ。やはり海防の関わりですか」
咳き込む同僚をよそに、高美は身を乗り出した。
「海防、というより戦支度というべきでしょうか」
「なるほど」
頷きながら高美は、手酌を受ける監物を見据える。
薩長の攘夷騒動に先立って械備を導入した家には、過激な攘夷論に先導されたものも多く、言葉の取捨を間違え夜道で膾にされた人間は枚挙に暇がない。
「さすが勇武に聞こえた御家柄。相手はイギリスですか、それともフランス?」
「水戸です」
「…」
しん、と水を打ったような満座のなか、監物が静かに杯を呷る。
「戯れにござる」
唇の欠けた口の端が、裂けるように笑った。