9話
摂津国東成、大坂。
京へ続く淀川を見下ろす大阪城には天守がない。
幕府によって再建された天守が落雷で焼失して以来、これに代わる平屋造りの本丸御殿の前で駕籠を降りた横尾月卿は、大きく伸びをした。
不養生のたたりか、齢のせいか、近頃は揺られるだけでも腰に堪えるようになっている。
壮麗な御殿の南、人いきれであふれる大広間には、酒の膳と裃姿の男達がずらりと並んでいた。
「よう」
金地の襖の前を通り抜け、決められた席まで進んだ月卿に左側から声がかかる。
尼崎松平4万5千石家老、服部大学。
尼崎松平家は家康の親戚筋にあたる分家の一つで、浮鳴松平とは
中屋敷が向かい同士で当主の年も近く、家士の交流が不断にあった。
「江戸詰めは降ろされたのか」
皮肉交じりに尋ねた月卿に「ああ」と大学が応じた。
「いまや政局は京だからな。春からは械備の頭取だ」
「械備は言い過ぎだろう」
割り込むように、右隣の男が口を開いた。
「旭どころか、歩兵すらまともに揃ってない」
津山松平9万石家老、永見丹波守。
越前松平の流れを組む津山家は、吉備一円(*1)唯一の親藩で、近国の浮鳴とは経済的な結びつきも強い。
「結構じゃないか。どこぞのように借入までして武備を揃えた挙げ句、茶番狂言に引っ張り出されたのでは割に合わん」
なあ、と乗り出すように覗き込む大学に、拾遺は無言のまま手酌を注いだ。
「茶番とは言い切れまい」
視線を前に向けたまま、丹波が言った。
「今度の再征はすこぶる評判が悪い。調停にかけ回った芸州は無論、薩摩に至っては異人から武器を買い漁っている」
「そりゃ何時ものことだろう」
「荷受先が下関、だとしたら? 」
丹波の言に月卿が咽る。
薩摩の島津家は一昨年の征討令の折、芸州浅野家とともに和睦交渉のまとめ上げに努めたが、再征を巡って幕府と対立し、国許へ兵を引き揚げている。
「それは……島津公がそこまでやるのか」
「公にその気が無くとも、末端までそうとは限らん。あそこの下士も大概跳ね返りが多いが、腹の黒さは長人に比べるべくもない」
「腹が、いかがなされたかな? 」
いつの間にか、三人の背後に年嵩の男が佇んでいる。
鶯染めの帷子に長袴を垂らし、烏帽子から覘く髪には白いものが混ざっている。
慌てて居住いを正す男達をまあまあと制しながら、松平伯耆守宗秀は笑った。
丹後宮津7万石の当主である老中松平宗秀は、総督徳川茂承と並び今次征討の
総責で、一部では勅令に託け幕威回復を図る江戸城大溜の別当(*2)とも
囁かれている。
「松平山城守が名代、横尾月卿用江に御座ります」
面を下げる拾遺に「ほう」と宗秀が眼差しを緩めた。
「聞けば、御家中では近隣に先駆け械備を整えられたとか」
「はっ。 もっぱら借入では在りまするが」
陪臣の身上ではまず対面することの無いえも言えぬ威圧感に、月卿はようやく
相槌を打った。
「まったく殊勝な御心懸けだ。本来なら我ら閣老こそ、率先し範を示さねばならぬはずであるのに、国許の連中はどうにも頭が固すぎて」
「いえ、公儀の重職を預かる上では、配慮なさるべきことも多くござりましょうし…」
「配慮すべきは戦の備です」
張り上げた声に、部屋中の視線が宗秀に向く。
「公家の在り方、武家の在り方、あらゆる在り方が変わりつつある今、皇国は開闢以来の急革、まさに廻天の只中にある」
膳と膳の間から中央を通り、部屋を縦断するように上座へ歩みを進めた後、床に描かれた金雲を束ねる松の壁画を背に、宗秀は満座を振り返った。
「この期に及んで、家門・譜代の別なく一致結束し事に当たらぬことには、日の本は清国の二ノ舞いを舞いかねぬ。この場は細やかな心ばかりの席では御座るが、
互いに腹蔵あらば遠慮なく申し語らい、親睦の軒端として頂きたい」
静まり返った座敷を見渡しつつ、手にした盃をかざし上げる宗秀に
「卒爾ながら」と奥席から若い男が腰をあげた。
松重の裃の肩に、丸に違い鷹羽を重ねた「浅野鷹」の羽紋。
「浅野安芸守名代、植田与右衛門に御座る」
宗秀が口を開くより先に、若者が名乗った。
「毛利家の処分については、一連の騒乱を導いた家老三名の斬首をもって決し、
既に解兵の旨まで通達されたはず。それがいかにして今度の再征と相成ったか
その内儀の運び、是非お聞かせ願いたい」
「いや植田殿。それはいささか誤解がござる」
刺すように見据える与右衛門に、宗秀は笑みを返した。
「そもそも今度の進発は、口さがぬ者どもの言う様な殺伐を目するものではなく、あくまで先の和議の詰めとして大膳殿(*3)に江戸へおいで頂き、公方さまと対面をもって」
「聞くところによれば、防長36万うち10万石の削封および、当主並びに嫡子長門守
永蟄居の内儀(*4)、既にこれありと」
「いやはや、いったい誰がそのような」
「家老の首を差し出しながら、朝敵の赦免もなされぬまま、父子ともども江戸へ
出頭すべしとなれば、いかな風説も然るべきでは御座るまいか。当家において
斯様な難険が突き付けられたなら、百姓賤民に至るまで武器を取り、一丸となって抗するは必定なり」
「それは徳政の篤いことだ」
響いた声に、月卿は首を動かした。
上段の宗秀の隣で羅紗の陣羽を着た色黒の男が、与右衛門を睨めあげている。
新宮藩3万5千石家老、細井将監八左衛門。
主家の新宮水野家は、征長総督に任じられた紀州中納言家の筆頭家老を兼務する。
「再征はあくまで勅諚に基づくもの。承服できぬというなら薩摩・佐賀にならい、早々に兵を引けば良ろしかろう」
無礼ではないか、と詰め寄る与右衛門の矢先、おもむろに将監が立ち上がる。
しん、 と放りついた沈黙が広間を流れた。
「酒が回りすぎたようだ。失礼する」
身構えた与右衛門を一瞥したあと、広間に後ろをむけて歩き去るその背中に、言葉をかけるものはなかった。
*1 吉備は美作・備前・備中・備後の4国の旧称で、現在の岡山県全域と広島県東部をさす
*2 ここでは「代理人」の意味
*3 内々の決定
*4 当時の長州藩主、毛利敬親のこと