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序
それがいつ日本に持ち込まれたのか、詳しいところは定かでない。
もっとも古い記憶にあるのは、横浜に出張った叔父が持ち帰った写真だった。
ひきつった警固役の横で、不細工な彫像のように佇む姿を肴に、
戦の折にはいかにこれを叩き潰し、本陣に斬り込むか
と、酒を囲んで盛り上がる大人たちをよく覚えている。
1846年 旧暦六月、前年の商船撃ち払いの報復として、フランスの軍艦3隻が下関に来寇した。
遠く小倉まで、数刻に渡って鳴り響いたとされる砲撃により、長州側の砲台を破壊し尽くした後、浜に降り立った10機足らずの旭は、放たれる矢玉をもろともせず、生き残った守備兵を蹴散らして、下関の市街を蹂躙した。
同年 旧七月、薩摩に押し寄せた英国艦隊の艦砲射撃が、錦江湾沿いの海岸陣地と港湾施設ことごとくを壊滅し、上陸した機械陸戦隊によって鹿児島城下は火の海に沈んだ。
これに衝撃を受けた大名諸侯は、競い合うように異人から旭を買い求め、
銃兵を随伴させた機械化部隊、通称『械備』《かせぞなえ》が各地で創設された。