イントロダクション
満席だ。
緊張と恐怖、それと喜びが出番直前の私の心を乱す。古い講堂を流用した即席のライブハウスは、すでにその収容人数を遙かに越える人で溢れ返っていた。
壊れかけのクーラーのせいで、講堂の中はうだるような暑さだ。照明を落とした手狭な部屋の中で、人の頭の黒いシルエットだけが蠢いて見える。観客たちは玉のような汗を浮かべながら、私たちの前のバンドの演奏に聞き入っている。私は急作りの控え室で、息を潜めて自分たちの出番を待つ。
周りにいる他のバンドメンバーも、緊張した面もちで何事か言い交わしている。新参の私は会話に入り損ね、隅の方でスコアの確認をするふりをしていた。
ボーカルの上級生は長い髪を後ろでまとめた背の高い男で、ドラムスの男と何事か言い争っている。
黙々と譜面を当たっているベースの女の子を盗み見ながら、私は口元が自然と綻ぶのを抑えることができなかった。
当たり前だ、嬉しくないわけがない。これだけの人数に自分の演奏を聞いてもらえる機会は今までなかったし、これからも頻繁にはないだろう。でも、だからこそ私は沸き上がってくる恐怖を押さえきることができない。何から何までいつも通りの反応だった。私はどうしようもなく本番に弱い。
心臓は尋常でない早鐘を打ち、腹の底では蝶が舞っている。意味のないことばかりが頭に浮かび、ただ手足がやたらと冷えた。
緊張しないほうがおかしいのだ。
私は音楽プレーヤーに入れた音源を、もう一度頭から聞きなおすことにした。ボーカルの自作曲で、メロディーの拙さを勢いと音量で押し流すような演奏だった。私の担当はギター2で、基本は大して難しくない。ただソロが曲者で、あれだけ寝ずに弾き倒したのにまだ自信が持てなかった。
「そろそろです」
案内役の下級生が声を掛けてくれる。
大丈夫、大丈夫。ゆっくりと、一つずつ確実に。焦らないように。両手を暖めながら、私は頭の中でゆっくりスコアを追いかけた。ソロの運指も、コード進行も完璧に理解してる。大丈夫、私はミスなんかしない。
スタンドからギターをとり、右手でしっかりと掴んだ。瑕一つない、レフティーのストラトキャスター。木目に黒のグラデーションの入ったそれは、よく見ると左右がすべて逆になっている。左利き用のギターは教本と何もかもが逆で随分と戸惑わさせられたが、慣れてしまえばもう何てことはない。
私は深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がる。
貧相な舞台の上に上がって、ざっと周囲を見渡す。張り替えたての六本の弦が、色とりどりのスポットライトを浴びてきらきらと光を放つ。観客が徐々に静まっていくのが分かった。薄ら寒いMCも、聴衆の拍手も、もう私の耳には届かない。私は自分たちの発する音に集中する。
深呼吸をして、チューニングをチェック。さっき直したばかりなのに、高音弦が若干ズレている。数日前に張り替えたばかりで、まだ安定していないのだ。すぐに直し、シールドとエフェクタを確認。事前に決めておいた通り。軽く二三音弾くと、ほどよく歪んだ音がかすかに漏れた。私は汗に濡れた髪の毛をはらい、ボーカルが最初のフレーズを弾き始めるのを待つ。
たったの三分間なのだ。
沈黙の中で、ふとそんなことを思った。カップラーメンすら出来るか怪しい、たったそれだけの時間に、私たちは途方もない時間をかけて練習し、緊張し、失敗すればひどく落胆することになるだろう。でも例えこっぴどく失敗したとしても、きっと私はギターを弾くのをやめたりはしない。単純に弾くのが楽しいとか、人前で弾いて上手く行ったときの快感が忘れられないというのもあるけれど、何より、いくら拙い演奏でも、音楽でなら人を楽しませたり、もしかしたら感動させたりだってできるかも知れないのだ。国境も、人種も、言葉の壁さえも越えて、見ず知らずの人を相手に、しかもたったの三分間で。こんな芸当を可能にしてくれるものを、私は音楽のほかに知らない。
たったの三分間。三分間ぐらいなら、きっと私は音楽に全てを懸けられる。
永遠とも思える間のあと、ボーカルのかすれたような高音が静寂を破った。イントロの始まりだ。ギター1の歪んだ音が、最初のコードを奏でる。ベースが乗る。ドラムスが入ってくる。私の出番だ。
私の役割は差し当たっては難しくない。ギター1の背後で、ひたすらにパワーコードをかき鳴らす。緊張しているのか自棄になっているのか、ドラムスがいつもよりずいぶんと早い。
Aメロはあっという間に終わった。
音源とは全く違った、熱の入った演奏だった。やけっぱちな早さが、この単純な曲にちょっとした趣を与えていた。ドラムスは死にそうになっていた。自分で上げたテンポで自滅しそうになりながらも、なんとか危ういバランスを保っている。ボーカルも、汗だくになりながら長い髪の毛を振り乱して切々と歌っている。
考えてみれば、このバンドのボーカルもドラムスも三年なのだ。きっと、これが引退公演なのだろう。高校を出れば、皆この地方を出て行くことになる。出て行かない人間は、トラック屋で働くか、家業の八百屋か何かの店番で一生を終えることになるだろう。妙に熱が入ってるのも、さっきまでの言い合いも、私が補欠として潜り込めた理由もわかった気がした。
異様に加熱された演奏は、サビに向けてさらに加速していく。サビに入るころには、先ほどまでのぎすぎすした雰囲気はもうどこにもなかった。今この瞬間を待ちかねていたようにボーカルが絶叫する。体が自然に揺れる。ボーカルが憎かった。あそこで歌えたら、どれだけ気分がいいだろうと思わずにはいられなかった。
サビが終わった。ほんの少し前に出られる部分があって、また私は演奏の裏側に沈んでいく。私の出番はあと一分四十秒で始まり、約2分後には終わっているだろう。そういうものだ。
C、G、Am、F、C、G、Am、F、C、G、Am、F、C、G、Am、F……
規則的な右手の動きがうねるようなコード進行を紡ぐ。緊張が、日々の不満が、閉塞感が、呪詛のようなリフレインに昇華されていく。叫び声。ドラムの音が耳に痛い。私たちは呪詛のようにフレーズを掻き鳴らし続ける。あと10小節、9、8、7、…。
私の出番だ。
フットペダルを踏み変え、ビッグマフをオフ。ミドルを10まで一気に上げる。ピックに汗が滲んだ。Aの、綺麗なシーケンス。あらためて聴けば、なかなかのソロだった。これを書いた先輩は、今頃何をしているんだろうか。名前も知らないその先輩に、私は少しだけ同情する。
ギター1の、音量を抑えたバッキングが鳴っている。あと少しで、私の出番は終わってしまう。駆け上がるようなソロに、痛烈なフィードバック・ノイズが重なる。ボーカルが再び絶叫する。
耳が潰れそうな轟音の中で、私の苦しみは増幅され、歪み、融けだし、徐々に消滅していった。全てをかき消す朦朧とした快感の中で、何もかも赦されたような気がした。
***
最後のサビをボーカルが叫びきり、演奏はフェードアウトしていった。燃え上がった火が徐々に消えるように、終わりを迎える。ボーカルが名残惜しそうに最後の一音を弾き終えると、一瞬の静寂の後、割れるような拍手が鳴り響いた。
その幸福な数秒の間、私たちはつかのまの全能感に酔いしれることになる。なんといっても、観客の拍手の原因は私たちなのだ。私たちはたったの三分間で、観客から盛大な、心からの拍手を引き出したのだ。耳が麻痺するような拍手の音と熱気で、私たちはいつまでも揺れているような気がした。
でも不幸なことに、そんな幸福な感覚はすぐに、あまりに呆気なくどこかへ消えてしまう。演奏は終わったのだ。魔法は解けてしまった。舞台はただのむさくるしい講堂に戻り、熱狂のしるしだった暑さはもはや不快なものにしか感じられない。ボーカルの顔つきは早くも演奏の前に戻りはじめていて、いやな目つきでドラムスに一瞥をくれた。舞台から引き上げた後は、きっとただではすまないだろう。さらに悪いことに私はまだ学生で、ここ二ヶ月無視し続けてきたクソの役にも立たない課題が山ほど残っている。
でもまあ何はともあれ、私はとりあえず私の三分間を終えることができた。
打ち上げが終わって、先輩とベースにさよならを言い、誰もいない帰り道の蒸し暑いローカル線で、私は自問自答を繰り返す。
テクニックは、リズムは、カッティングの切れ味は? ついつい走ったりしなかったか? ソロのミスはボーダーラインだった。カッティングは、体全体でやれとよく言われるけど、いまいちよく分からない。でも、自分で言うのも何だけど、全体として見れば……。
明日の朝、ドーパミンの抜けた頭で録音をもう一度聞きなおしてみれば、最高の演奏とはとても言えない代物だったと思わずにいられなくなるのは目に見えている。でも、電車の中の疲れた私は思う。もしそうならなかったら、きっとそれが終わりなのだ。
私は人を楽しませることが出来るだろうか? そもそも、私の演奏にそんな力があるのだろうか? ずっと先のことでもいい、混じりけのない本当の意味で、それが聞く人の心を動かす日は来るのだろうか?
いつか、そんな日が来るといい。本当に。
二年ぐらい前に書いたものが発掘されたので、記念に若干修正して投稿。当初は長編化を目論んでいた。本当は三分間で読めるようにしたかったけど、少し長さが足りないっぽい。
大学で軽音に入り速攻で辞めた今から読むと、何というか相当に来るものがありますね。