「あぁ。今更じゃないか」
いつもは感じない気配がした。だるい体を起こし薄く目を開けると鋭い男の瞳が私を見ている。寒気すら覚えるのに覚醒してない脳は何を思ったのか口を開けさせた。
「……おはよ。」
くあっと込み上げる欠伸を噛み殺し、控えめに掛けられていた毛布をたたむ。確かこの男に掛けたはずだ。
「お兄さんが私に?」
馬鹿か。そんなことどうでもいい。問題はこの状況だ。あんな怪我を負っているのに意識を取り戻し、今私を見下ろしている。重要視すべきなのは、私が腕を伸ばしても男には届かないが、彼にとっては違う事。腕を伸ばせば簡単に私に触れることができるだろう。
「ここは何処だ。お前は…?」
低い声は本調子じゃないのか掠れている。人に名前を問う前に自分から名乗るのが常識だろうと言いたいが、常識などとうに越えている。
「伊藤です。」
そんでもってここは私の家。私もだ。出しにくい声は掠れている。水を飲もうと腰をあげるとハッとした。リビングを汚していた血が無くなっているのだ。慌てて玄関を見ても赤は見当たらない。
「何してるの!」
遠慮無く顔1つ分は高い男に手を伸ばしワイシャツの襟を掴む。反射的に向こうの手が私の手首に触れるが関係ない。引きづり足をかけながら一気にソファに沈めた。
「つっ…」
痛みで目を細める男。当然だ。昨日の今日で動けること事態無理があったのだから。
「傷が開くって考えなかった?お兄さんなら見て分かるでしょ?私は子供よ。女子高生。危害を加えようという思考がなければ力もない!」
それをこの人は知っていたはず。だから無防備に眠っていた私の動きを封じなかった。拳銃も向けなかった。
「分かったら大人しく寝てなさい。」
そう言い残しキッチンに足を向けるが腕を捕まれ引かれる。決して力強くされたわけじゃない。むしろ優しささえ感じた。後頭部に手を回され彼の胸に顔を押し付ける形になる。微かな鉄の臭いと暖かい匂いがトクトクと胸を動かした。
「すまない…」
力を抜き呟くようにして言われる。その一言には礼と謝罪の意味が感じられて…私は何も返せなかった。想いがこもっているそれに返す言葉が見つからなかったんだ。静かな空気を破るように彼は後頭部に置いた手で私の頭を撫でる。変な気分ではあるが嫌ではない。
「孝哉だ。…お前の名前が知りたい。」
控えめに言われたが、有無を言わさない威圧感がある。待て待て待て。得体の知らない奴に教えるわけがないだろう。拒否しようとしたが私はもうテリトリーに彼を入れている。どんな理由であれ見ず知らずの人間を家にあげることも、この状況もおかしい。あぁそうだ。今更じゃないか。
「佳奈だよ。」
聞いてきたわりには素っ気なく「そうか」と返される。いい加減に…と撫でる手を払い離れると彼は思い出したように言った。
「さっきのやめてくれないか。名前で呼べ」
今度こそとキッチンに向かい冷蔵庫を開けながら記憶を辿る。さっきの…さっきの…
「お兄さんって言うのをですか?」
ペットボトルの水を喉を鳴らしながら飲む。冷たさが食道を通り身体中に染み渡る気がした。沈黙は肯定っと。
「名字教えてくれません?」
キャップを開けたまま彼の横に立つとズイッとペットボトルを差し出す。どこか不機嫌そうなのは私の飲みかけが気に入らなかったのか、名前で呼ぶことを暗に拒否したのを悪く思ったのか…
「中崎だ。」
短く答え体を起こすと中崎さんはペットボトルを受け取り全て飲み干した。