午前一時五十五分のゴリラカフェ
午前一時五十五分、尚希はドアの前に立っていた。そのこげ茶色の木製のドアには『ゴリラカフェオープン』と辿々しい文字で書かれた貼り紙がある。何故だか吸い込まれるような感覚に陥った尚希はドアを押した。
カランカラン~
その中は薄暗かった。じっと目を凝らすとそこには黒くて大きな獣が立っていた。
「オゥ!」
ドスのきいた低い声だった。黒いエプロンをつけたオスゴリラがこちらを向いていた。
「カウンターしか空いてないんだが、いいか?」
「あぁ、はい」
尚希は言われるまま直進してカウンター席に腰掛けた。カウンター席には尚希以外誰も座っていない。辺りを見渡すとテーブル席は客で埋まっていた。BGMはジャズのようだ。
「いらっしゃいませ」
ピンクのエプロンをつけた若いメスゴリラが尚希の横を通りすぎた。
「マスター、野菜サンドとホットお願いします」
顔に似合わず……澄んだ可愛い声をしていた。
「オゥ!」
オスゴリラはすかさず手を洗い始めた。念入りに指の間までゴシゴシ洗いながら尚希の方を見た。
「で何にする?」
オスゴリラは尚希の顔をじろりと睨んでいる。
「じゃあ、ホットミルクを」
「オゥ!」
そういうとオスゴリラはすばやく冷蔵庫から牛乳が入ったボトルを取り出し小鍋に入れて火を点けた。
ほどなくして尚希の前にホットミルクの入った若草色のカップが置かれた。仄かに湯気が立ち上る。
尚希は軽く頷いた。
次にオスゴリラは後ろの戸棚から薄切りの食パンを四枚取り出し、二枚ずつバターとマヨネーズを塗った。
「で、あんた名前は?」
オスゴリラはレタスの葉をパンッと叩くとバターを塗った方のパン二枚に置いた。
「え? あ、奥本尚希です」
「学生さんかい?」
「いえ、社会人二年目です」
「ふーん。真面目そうな兄ちゃんだわな」
オスゴリラは薄くスライスしたキュウリと玉ねぎをレタスの上にのせるとドレッシングを少量ふりかけた。
「仕事は何してる?」
尚希はひっきりなしの質問にウザいなぁと思いつつ、奇妙な解放感と安堵感を覚えていた。
「スーパーの青果売り場の社員です」
「ふーん。美味しい仕事じゃねーか。野菜はいいよな! 俺はベジタリアンだぜ。こんな腹してたって」
そう言うとオスゴリラはボコっと突き出た腹を叩いて見せた。
「てかトマトだよなぁ。トマトだ」
オスゴリラは薄切りトマトをキュウリと玉ねぎの上に並べ、またレタスをパンッと叩いてその上に置いた。最後にマヨネーズを塗ったパンをかぶせ、四枚重ねて軽く手で押さえるとナイフでスパッと四つに切り分けた。
尚希はホットミルクの上に張り付いている膜をスプーンでそっと取り一口啜った。そしてフーッとため息を吐いた。
気付くと野菜サンドを運んで戻ってきたメスゴリラが尚希の顔を覗き込んでいた。
「あなたは何で眠れないのですか?」
「え? 」
そう言えば最近ぐっすり眠れていない。尚希はふと天井を眺めた。オレンジ色の小さな照明がとても眩しく感じられた。
「このカフェは眠れない人が来る場所なんです」
尚希はハッとしてメスゴリラの顔を見た。
「そ、そうなんですか」
メスゴリラはカウンターの中に入り洗い物を始めた。
「あのー、じゃあ、ここに来てるお客さんはみんな眠れない人なんですか?」
「そうです。みなさん、ここでマスターとお話して安心して眠れるみたいです」
「なるほど……だからマスターと話してると何か、ホッとするっていうか、落ち着くっていうか……」
「でもここへはみんながみんな来れるわけじゃないみたいです。ラッキーな人だけ……」
メスゴリラは洗い物を終えてタオルで手を拭きながら呟いた。
「よっ! 尚希!! 野菜売りは楽しくないのか?」
オスゴリラがカウンターの中に戻ってきて葉巻を燻らせ、からかうような口調で言った。
「楽しくなんかないですよ、新規オープンの店に異動になって、くそ忙しいのにバイトは動かないし、クレームは来るし、残業はするなと言われても仕事を終わらせないと帰れないし、終電はなくなるし」
普段冷静な尚希が珍しく声を荒げてしまった。
「そっか……じゃあ、辞めちまえ」
「そ、そんな簡単に辞められないですよ」
尚希は金融関係の職種を希望していた。 何十件もの会社を受けたがすべて落ちてしまった。三次、四次面接ぐらいまではいくのだが、いつもそこで振り落とされた。まあ、大学のレベルの差だろう。だったら最初から落とせよと何度も思った。今までの人生、割と平坦に過ごしてきた尚希には、初めて味わう挫折だった。それで希望職種の幅を広げて、やっと受かったのが今の仕事だった。
「尚希は趣味は何だ?」
「えと、音楽聴いたり、PC周りの機器弄ったり、ゲームとか……」
「お前、つまんねぇなー」
オスゴリラは葉巻をシンクに押しあてて消すと、大きなビールジョッキにたっぷり入った中身を一気に飲み干した。
「これは特製野菜ジュースだ! 飲むか?」
「野菜は嫌いなんで」
「は? 野菜売りの兄ちゃんが野菜嫌いなのか。バカ野郎! じゃあ恋でもしてろ!」
「??????」
「まぁ、好きにやれ。せっかく人間様に生まれたんだぞー、進化したクセに」
そう言い放つと、オスゴリラは目を細めて遠くを見つめていた(実際、黒くてよくわからない)。
尚希はもうすっかり冷めてしまったであろうホットミルクをぼんやりと見つめていた。
「それ飲んだら帰れや。今日も仕事だろう。温め直そうか?」
尚希はハッとしてオスゴリラの顔をじっと見つめた。なんだか懐かしい気がした。尚希は小学生の時に事故で亡くした父親を思い出した。仕事ばっかりしていた父だった。遊んでもらった記憶も殆んどない。でも時々思い出すのは、笑っている父の顔だった。
「はいよ。温めたから飲みな」
尚希はホットミルクを啜った。甘かった。とても甘かった。
「甘いか? 砂糖入れたからな。スプーン二杯」
オスゴリラはニヤっと笑った。
「そりゃあ、甘いわ」
尚希も苦笑いをした。
しばらく沈黙が続いた。アルトサックスの音色がゆっくりと店内を流れていた。
「ごちそうさま」
尚希は思い立ったように腰を上げた。
「もう、ここへは来んなよ」
オスゴリラはボソッと吐き捨てるように言った。
「あのー、いくらですか?」
「ふん、金なんかいらんわ。ゴリラ社会に金なんか必要ない。金に目の色変えるのは人間様だけだろう」
オスゴリラは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「帰ります」
「ちゃんとアラームセットしろよ! もう二度とここへは来んなよ」
尚希は振り返ると照れたように笑ってドアを引いた。
カランカラン〜
☆☆
「マスター、尚希さんって結構イケメンでした。私好きになっちゃったかもです」
メスゴリラが瞳をキラキラさせて言った(実際、黒くてよくわからない)。
「バカ! 我々と人間はレベルが違いすぎる。我々は明晰な頭脳を持つ高度な生命体だ、人間のような低脳なヤツらと付き合ったらロクなことはない」
そう言ってオスゴリラは葉巻に火をつけると深く息を吸い込んで遠くを見つめた。
「宇宙征服が出来るのは我々しかいないのだ」
ジャンルがわからないのです^^; 文学でいいのかな?