第三話 彼女の愛(1)
「自己紹介するね。私の名前は雪村薫子。君の学校の同級生。好きな作家はスティーヴン・キングで、好きな作品は"シャイニング"。好きなロックバンドはローリング・ストーンズ。ロックを聴かない君には、定番中の定番、"フォーティ・リックス"をおすすめするよ。それで全体像を掴んだら、次はデビュー盤の"ラブ・ユー・ライブ"を聞いてみて。最高にクールな気分になれること請け合いだから」
「……黙れ」
「君も少しは他人を理解しようとか思わないかな? 世界の九割九部は他人で構成されてるんだよ。そして、君を中心に世界が回っているわけでもない。それくらい、賢い君には分かりきってることだよね?」
「おまえに人としてのあり方を論じられるとはな」
「君はもっと私のことを知るべきだよ。私は君の一生のパートナーになるんだから」
「おい……」
「私は君のことをたくさん知ってるけど、君は私のこと全然知らないよね? これって不公平だよね? 君はもっと私のことを知るべきなんだ。私のことを髪の毛の先から足のつま先まで全部知り尽くすべきなんだよ。愛し合うのはそれからでも遅くはないよね」
「いい加減黙れよ、狂人」
「自己紹介、続けていいかな?」
彼女はにこやかな笑みを浮かべている。黒真珠のような彼女の瞳が、優しく僕を捉えている。
僕はその瞳の奥に、おぞましいものを感じ取った。
狂人の論理。
彼女は自己紹介を続ける。
「年齢一六歳。身長百六十センチ。体重五十キロ。体型は上からバスト84.1、ウエスト60.0、ヒップ85.0。主食はお米で、食後のコーヒーゼリーが好き。いっつも食べてる。そして、好きな男の子は、水谷真純君……」
彼女は気恥ずかしそうに頬を赤くした。純情な乙女のように手で頬を挟み、可憐な上目遣いを向ける。
かすかに潤んだ瞳は見るものを惑溺させる妖しさがあった。引き込んでしまう。ブラックホール。僕は吸い込まれるように彼女の瞳を注視する……。
でも。
「一度だけ言うぜ」
彼女は一驚を喫したような反応をした。珍妙な生き物を目撃したかのような表情。
「僕を解放するんだ」
僕は強く言い切った。語尾が少し震えているかもしれないが、とにかく、気を強く持って言い放った。
「なんで?」
しかし、彼女は不思議そうに首を傾げるだけだ。本当に意味が分かってないって感じなんだ。
僕はもう、ダメかもしれないと思った。
「なんでも何も、監禁は犯罪だろがッ」
頭に血が昇って、語調が荒くなる。それには怯えのような感情も含有されていた。
「当たり前のこと言っても面白くないよ」
「いいか、これは紛れもない犯罪なんだぜ。僕を解放しろよ」
そう言うと、彼女はつまらなさそうに長大息をついた。
「……真純君って存外、駆け引きが下手なんだね。そんなありきたりなこと言って解放するわけないじゃん。巧みな話術を使うでもなく、取り引きを持ちかけるでもなく、ただ解放しろだなんて……ちょっと失望しちゃったな。私、君のこと頭のいい人だと思ってたから」
「……勝手に期待して、勝手に失望されて、僕も世話ないな」
「でも、また私に期待させればいいじゃん。期待させて、それを維持すればいい。そうしたら、私はずっと君に惚れてるままだから」
そういう彼女には得体の知れない法悦が垣間見えた。唾液が顎を垂れ、ポタポタと床に落ちている。目の焦点は合っていない。
「失望したんだろ。だったら、僕への恋心も冷めたんじゃないのか?」
「……このくらいで冷める恋だったら苦労しないよ」彼女は切なそうに僕を見つめた。「ずっと真純君のことが好きで、大好きで、もうどうしようもなくて……。本当だよ? 君のこと、とっても欲しかった……」
そう言って、また彼女は顔を近づけた。
やるつもりなんだ。
僕は脊髄反射的に、じたばたした。体をよじらせ、回避しようとする。「バカッ。こっちくんな」
「さっきは入れなかったけど、あんまりあばれると舌入れちゃうぞ」
僕の頭を殴っておとなしくさせたあと、薫子は真っ赤な舌をチロチロとさせながら肉薄した。
彼女は僕の反応を見るように、軽く唇を押し当てた。薄く開かれた唇は少し厚みが出て、柔らかさを増しており、触れ合わせるだけでとろけるような快感が巡ってきた。
意識がしばし飛んだあと、今度は呼吸困難になる。彼女は上下の唇を使って、僕の下唇を挟み、軽く吸ったり、離したりした。
そして、いよいよ彼女の舌が挿入される。
彼女の舌が僕の歯茎を舐め、僕の舌を絡めとり、僕の唾液を吸い出してくるんだ。柔らかい舌が甘く僕の舌を捉えている。クチュクチュと漏れる淫猥な音。手枷足枷を課せられた僕はどうしようもなく、彼女の舌にもてあそばれる。
知らず知らずのうちに体が熱を帯び始めた。初めて受け入れた女の舌に、全身が歓喜しているのがわかる。とっても気持ちよくて、薫子の舌は生き物のように僕の口内を巡っている。僕は意識が遠のくような心地よさに溺死しそうになった。
「心臓がさ、とくんとくんってぇ、鳴ってるよ。かわいいなぁ。興奮した? 女の子にベロチューされて。いいんだよ。気持ちよくなって。私も気持ちいいから、いいんだよ。このまま委ねようね。快楽の波に、全身を委ねようね」
Tシャツをまくって薄い胸板に手を忍ばせている。薫子は陶然と壊れそうな息をしながら、僕の体を撫で回し、舐め回した。
呼吸がどんどん不規則になっていくのがわかった。血潮が熱くたぎっている。情けないことに、僕は興奮の極にいた。
溶けたバターみたいだ。渾然一体となり、全てが曖昧になる。まるで海の底だ。あるいは、水槽の中。水槽の底から上を見ているような、そんな不思議な錯覚。
「愛、してるよ……真純君。ずっと前から好きだった……高校に入学した時から……君を一目見た時から、心臓が激しく高鳴り出して、体が火照り始めて、自分が自分でなくなるみたい……。ホントなだめるのが大変だったんだよ? 私をさ、こんなんにしてくれた責任、ちゃんととってくれるんだよね? その体で、その心で、私を愛してくれるんだよね? イヤって言ってもダメだけど。そんなこと言うなら殺すから」
*
私立鷹ノ宮高等学校。
初めて彼女と出会ったのは、入学式の時だったのではないかと記憶している。
凛とした少女だった。
上背は女子にしては高く、百六十センチ程度はあったんじゃないだろうか。
髪は絹のように癖がなく、さらさらと流れている。鼻筋は楚々と通っており、切れ長の瞳は玲瓏としていた。手足はほっそりとしているものの、その筋肉には確かなエネルギーを秘めているように察せられた。
何より醸し出す空気が、どこか異質だった。羊の群れの中に一匹、豹が混ざっているかのような……。
入学式。
彼女は僕の近くの列にいた。
有象無象に混じっていても分かる。一度視認したら、二度と目を離すことはできない。残留する。鼓膜の裏に、彼女の姿が焼きついてしまう。
入学式の間、僕はずっと彼女を見つめていた。
気が付けば入学式は終わっていた。
各々、割り当てられたクラスに向かう。
僕は一組だった。
彼女の姿はなかった。
別のクラスなのだろうか。僕は一抹の寂寥感を覚えた。
彼女の噂を聞くのは、意外に早かった。
私立鷹ノ宮学園には、四月の初めに確認テストなるものが実施される。中学校の勉強がきちんと見についているかチェックするのが目的なのだろう。それは二日に分けて行われる。
彼女――雪村薫子はそのテストは首位だったという。掲示板に張り出されていた。
雪村薫子、ね。
ひそひそと噂話が飛び交う中、そこで初めて彼女の名前を知る。
一年生の時は同じクラスではなかったが、その後も彼女に関する仄聞は耳に聞こえてきた。
彼女は社交的な人間らしかった。友達も多いらしい。たびたび僕のクラスに来ることもあった。成績も良く、明眸皓歯な容姿のためか、彼女の存在感は際立っていた。
彼女と同じクラスになったのは、二年生のみぎり。
会話らしい会話をしたことはない。事務的なものばかりなんだ。
入学式以来、彼女のことが気になっていたから、いつかは話したいとは思っていたけど、結局夏休みに突入してしまった。机が隣同士になることもあったが、特に話したという記憶はない。ただの同級生という関係に終始している。
そうして八月の上旬。
暗がりの密室。
僕は彼女とキスをしていた。
艶かしい舌遣いなんだ。僕の口を無理やりこじ開けて、舌を滑り込ませる。歯や口蓋に舌が触れ合い、感じたことのないふわふわしたものに包まれた。こぼれ落ちる唾液。唾液の橋が双方の間に架かり、ポタポタと唾液がシャツやむき出しの肌に落下する。
彼女の手が僕の皮膚を這っている。まるで皮膚の下にある血潮を感じているかのような動作。彼女は体を重ね合わせるように僕に引っ付いた。真逆の体温。冷え切った僕の体を優しく包み込むように、彼女の熱が伝達される。耳元では獣のような唸りが聞こえた。
彼女は切なそうな吐息を出しながら、口づけを辞めることはしなかった。
「ずっとね、好きだったんだよ……高校に入学した時から、ずっと君のことを舐めるように見てたんだ。君はどんなふうに笑うんだろう? 君はどんなことを話すんだろう? 君の趣味はなんだろう? 君の好きな食べ物は何なんだろう? 君の女性のタイプは何なんだろう? そんなことを考えながら、君のことを観察してたんだ。……君は気づいてなかったみたいだけど。四六時中考えてたんだ。授業中も、食事中も、勉強中も、入浴中も、排泄中も、二十四時間ずっと。頭の中が君でいっぱいになって、胸の中が君でいっぱいになって、心の中が君でいっぱいになった。ひどいよね。私にこんなことして、君は私の気持ちに全く気づいていないなんて。不公平だよね。みんな仲良くって小学校で習ったよね。君も私と同じ思いを味合わなきゃ平等とは言えないよね。初めのうちは私にベロチューされて不本意かもしれないけど、すぐに気持ちよくなるよ。ここには娯楽がないから。君の楽しいこと、嬉しいことを抜いていけば、いつしか私との体のまさぐり合いも楽しくなるよ。だるま落としみたいに、君の幸福や娯楽を取り出していくんだ。そうしていくうちに、一番下にあった私とのぐんずほつれつがどんどん上位に来る。だってほかに楽しいことがないから。だんだん楽しいことに飢えてくる。その時に与えられる、私の体……。好きにして、いいんだよ。私の体、とっても柔らかいんだよ。舌も、胸も、手も、足も、全部。とっても気持ちいいよ。君はいつしか、私がいないと楽しくないって思うよ。私がいないと嬉しくないって思うよ。私がそうさせてあげるよ。それが君の報い。君の罪。これまで溜めに溜められた私の想い、全部受け止めてよ」
背中に手を回され、彼女の薄い皮膚の奥から血流や心音を感じたとき、僕はなぜか、母親の胎内にいるかのような安らぎを覚えた。