第二話 全なる密室(2)
ひょっとしたら、この部屋は違法に建てられたものなのかもしれない、と思った。 とある犯罪グループが、人間を監禁するために用意した部屋という仮説……。
どちらにせよ、犯罪に巻き込まれているのは事実。こうして縛られ、監禁されているのだから。
思えば、この結束バンドも怪しいものだ。
聞いた話では、バスジャックやテロで、人質の手足を縛るために結束バンドを使用する犯罪者もいると聞く。
手足を揃え、バンドに通し、締める。
たったそれだけなんだ。それだけで手軽に対象を拘束できる。入手も容易だし、金もかからない。経済的で合理的だ。犯人側から見ても、取り外しは容易。その逆はないってのもポイントだ。
でも、そうしてみると不可解な点がある。僕を誘拐し、ここに監禁するのが目的だとしたら、納得できない箇所があった。
まず根本的なことを言えば、僕は都市の私立高校に籍を置く学生に過ぎないということ。地方から上京してきた、一介の高校生。もちろん金持ちってわけでも、富貴ってわけでもない。
どうも、人質にして身代金を要求ってのは筋が合わない。
第二に、猿轡をされていないことだ。手足は拘束されているものの、口にタオルを突っ込まれているわけでも、ガムテープを貼り付けられているというわけでもない。つまりは、声を出すということを封じられていないってことだ。
あるいは、これから猿轡を噛ませる、ということなのかもしれない。
猿轡をかませるさいには意識があることが重要なんだ。気絶している場合には窒息する危険性がある。僕は先程まで意識を失っていた。されていたら、僕は窒息死していただろう。
特にクロロホルムなどの麻薬作用のある薬を嗅がせて意識を奪った場合、嘔吐することもあるという。そうして吐瀉物が詰まったりしたら、呼吸不能に陥ってしまう。監禁するのに殺してしまったら意味がない。
だから僕が気絶している間は猿轡を噛ませなかった、というなら得心がいくが……。
でも、犯人が来る様子はない。僕は覚醒している。先程狼狽して椅子ごと倒してしまった衝撃で、僕が起きていることは先方にも知られていると思うのだが。
「少なくとも、結構な音はしたような」
これから犯人が訪れて、猿轡を噛ませるという展開はないのかもしれない。
となると、犯人には別の意図があるのだろうか。
監禁に猿轡は必須、という認識が誤っているのだろうか? でも、音を出して、外部の人間にバレたらどうするのだろう。その対策は処決しておくべきではないのか? 僕は犯人になりきったつもりで思考している……。
と。
そう思ったとき、ある着想が降りてきた。
この極限状態の中、妙に頭が冴えているぞ。
前提条件が間違っていたのかもしれない。
僕はここを、ある程度人の寄りつく市街地だとか住宅地だと無意識に思っていたのかもしれない。だから、周囲に人がいるかもしれないのに、口を封じないということに疑問を抱いた。
でも、それは過誤だ。
おそらく僕がいる場所は、周囲に声が響いても大丈夫なところなのだろう。猿轡がはめられておらず、またはめようと犯人が来ないのがその証左。
山の奥深くとか、閉鎖された廃工場とか。
そんな感じの場所なのではないだろうか。
そうならば口を封じる必要性はない。僕の声はどこにも届かないのだから。
孤立無援。
そう思った瞬間、ぞわっと寒気がしてきた。全身に鳥肌が立ち、体の芯まで凍えそうになる。
本能が感じているのだろうか。
普段の生活では絶対感じることのできない、死の恐怖。生殺与奪の権を誰かに握られているという不安。心臓を押しつぶすような圧迫感と焦燥。何者かによる悪意の介在……。
そのときだ。
そのときなんだ。
扉が開いたのは。
*
この震えは何も、死の恐怖を間近に感じただとか、手足の自由が利かないからだとか、そんなチンケなものではない。もっと根本的なものなんだ。小動物が猛禽類に対して抱く無力感のような、強大なものに対して抱く恐れのような……。
果たして、扉は開こうとしている。ゆらゆらと揺れる人影。奇妙なことに、扉の外に光源を感じない。夜なのだろうか。光が差しておらず、室内の裸電球にて、隻影が索漠と伸びているだけだ。
足を一歩踏み入れるだけなんだ。それだけで室内の様子が一変する。底冷えする夜気ががすぅーっと入ってきたかのような怖気。瞬間冷凍された空気。
カツカツと音がする。足音。靴を履いているようだ。刃物を落としたような戛々たる響き。
薄暗い明かりが、徐々にその姿を明確にさせていく。
そいつは墨を流したような艶やかな髪を持っていた。髪の毛に混じって細い黒のヘアピンをしている。背筋は脊髄に針金を通したかのようにすぅーっと伸び、手足は華奢で、なのに鹿のようなしなやかさをその身に隠しているようにも見えた。
月の満ち欠けのように顔容が鮮明になっていった。左から右へ、闇が晴れていく。
そいつは僕が倒れふしていることに気づいたらしい。みめよい微笑を浮かべ、僕の目の前でゆっくりとしゃがみこんだ。
純白のフレアスカートが折れ曲がり、足に巻き込まれる。陶磁器のような肌。鎖骨が艶然と存在を主張し、その首筋は妖しい色香が立ち上っている。
血が急激に沸騰している。見え隠れするふとももや豊満な胸を前にして、体のボルテージが異様に高まっていくのが分かった。こんな状況だというのに。
同時に、別のことも思ったね。僕をこんなふうにした不届きものを、この目で見届けてやりたいと思ったね。
徐々に顔を起こしていく。
そして。
そして――。
そいつと目が合った時、僕は卒倒しそうになった。
その顔がおぞましいほど美しかったから、というわけではない。
「雪村……」
僕はその少女を知っていた。
「表情がさ、浮かないよね」
と。
そいつは。
愛らしい口唇を歪めて。
「表情が浮かないってことはさ、私と会うのがそんなに楽しくないってことだよね。そんな顔されるとさ、とっても悲しくなるんだよね。歓迎されてないのかな。こうして一緒にいるのにね」
生唾を飲み込む音がした。
そいつののどが爬虫類の腹のように隆起する。その有機的な動き。
声らしい声も出せず、茫然自失のままでいると、そいつは目を針のように細めた。切れ長の瞳がさらに細くなる。
僕の頬を包む感触がする。両手だ。柔らかい女の手のひらで挟まれている。
ひと呼吸おいて、顔が近づいてくる。
あっというの出来事だった、と思う。
一瞬息ができなくなったと思ったら、すぐ目の前に目を見開いた女の顔があった。ギョロギョロと眼球が浮き彫りになっている。
唇に残る艶かしい感触。
頬を挟む手は移動し、僕の首を挟む形で床に置かれた。僕は横になっている。きっと女は犬のように四つん這いの体勢になっているはずだった。
女は歯がかち合うくらい強く、きつく、唇を押し付けた。
たっぷり十秒。
刹那のようでもあり、永劫のようでもある。
唇を離した女は、ひどく切なそうな吐息を出した。頬は上気し、淡い薄桃色に染まっている。憂うようなその顔には浮世離れした麗しさがあった。
僕は頭の中が真っ白になった。わなわなと唇が震え、せわしなく目をしばたたかせている。歯と歯がぶつかり合って、金属音のような音がした。
僕の顔を凝視する。
女は悦に入ったように淫猥な舌なめずりをした。爾後、口を開けた。自分の指を口内に突っ込み、舌をつかんだり、歯をなぞったりする。その仕草は妖艶で、変態じみていた。
そして、彼女は、ただ一言、愛しそうに、僕の名をそっと、つぶやいた。