第十五話 彼女の家(2)
開け放たれた窓と、幅のあるバルコニー。冷涼な夜風が心地よく、夏場の暑気を取り払ってくれる。
薫子は僕の出方をうかがうように、チラチラと視線を向けてきた。近くにあった、クマのアップリケの縫われたクッションを抱いて、そわそわしている。
と。
「あ、あのさっ」
薫子は中央のテーブルに置いてあったリモコンに手を伸ばした。
「テレビ、つけよっか? 中途半端な時間帯だし、火曜日って面白い番組ないからちょっと気が進まないけどね……ねぇ、なにか見たい番組でもある?」
あはは……と乾いた笑声が液漏れみたいに場を満たす。
「う、うちの両親さ、いっつもお仕事ばっかで全然家にいないんだよね。お父さんは税理士のお偉いさんでお母さんは辣腕の弁護士。あの人たち、平気で三ヶ月くらい家をあけるし、帰ってきたとしても一時間くらいでまたどっか行っちゃう。それで……話は変わるけど、大鷹市って最近開拓されたばっかりのベットタウンだよね? ベットタウンってさ、"寝るに帰るだけの家"って意味じゃん? でも雪村家の場合、"寝るに帰るだけの家"ですらないんだ。ただそこに家があるってだけ……。お金だけは腐るほどあるんだけどね。あの人たちはさ、我が子への愛情のかけ方なんて、全然知らないし分からないんだよ。お金を持ってくることが愛情の証だって思ってる。お金で愛をはかれるって思ってる。実際はそんなことなくて、愛はお金に変えられない価値があるって気づいてもないんだ」
僕が何も言わないでいると、彼女は唇をわななかせた。
プルプルとふるわせて、耳の端まで真っ赤になる。
「ねぇ……何か言ってよ……黙り込まないでよ。怖いよ。今日の真純君、なんか怖いよ。別れ話を持ち出す彼氏みたいじゃん。よくドラマとか漫画とかでよくあるパターン……。そんなドッキリいらないからさ、ギュって抱きしめてよ。ギュってしてチューしてよ。それで全部解決するんだからさ、そうする方がいいに決まってるよね。だからさ……何か言ってよ。ねぇ!」
薫子は目に涙を貯めて、訴え出るように声を震わせた。湿り気の帯びた語調。語尾は痙攣していて、ヒクヒクと神経質に唇がひくついている。
整った顔が悲痛にゆがんでいる。
僕は。
僕はというと。
「これ、返しておくから」
と。
僕はポケットから、針金状のものを取り出した。
薫子の目が驚愕に彩られる。「それって……」
僕は首肯した。「こんなんになっちゃったけどさ、一応返しとくよ」
薫子は間延びしたヘアピンをまじまじと見つめている。
涙は止まり、僕とヘアピンを交互に目視する。
そして、ふいにピタと唇を引き結んだ。これまでの会話が演技でもあったかのような豹変。仮面を取り外すような様変わり……。
薫子の目は爬虫類のような無機質なものとなっている。
「……真純君ってけっこー抜け目ない人なんだね。結束バンドといい、ヘアピンといい、いちいち冴えてる」薫子は不敵な笑みを浮かべている。「ひょっとしてさ、あの密室のこと気づいてるんでしょ?」
「防音室だってことか?」
薫子は一瞬、凍りついたようになった。「へぇ、よく分かったね。常人じゃまず、理解できない領域……。思えば、せっかく脱出したっていうのに、病院に行くわけでも交番に飛び込むでもなく、私を襲いにかかるってところが面白いよね。そこらへんはちょっと、頭がおかしいんじゃないのって思うし、同時にすごいとも思う」
「まるで試すような物言いなんだな」
「別にそういうことじゃないんだよ? 私はさ、真純君の頭のキレとか、意志の強さとか、忍耐力とかがすごいなって思っただけ。それでさ、私思ったことがあるんだ」と彼女はとろけるような眼差しを向けた。シュークリームに砂糖をまぶしたような笑み。「この人は絶対モノにしなくちゃダメだって。絶対ほかの人間に譲っちゃダメだって、私思ったんだ。私はこの人と一生添い遂げるべきだって思った。この人なら私のことを幸せにしてくれるって思いが、より強固になったんだ。君を好きだって想いは今も変わらないけど、前よりももっと好きって思うようになったの。つまりさ、惚れ直したんだよ。私は、雪村薫子は、水谷真純君にベタ惚れだってことなんだ」
その気にさせるような言葉をしゃべる彼女。
まるで口説き文句だ。
「真純君、私の仕打ちにちょっと怒ってるみたいだから言うけど、どれが気に食わなかったのかな? 私にベロチューされたこと? 料理に髪の毛を入れられたこと? 頭をガンガンされたこと? それとも、拉致同然に監禁されたことそのものかな? あるいは……一番被害が大きいのは、右目の失明かな? ……その顔は図星って感じだね。それもそうかも。片方の視野がなくなるって大変なことだもんね。そんな目には絶対あいたくないよ。でも、これで決まりだね。君に許してもらうための代償が、今決まったよ」
彼女はやおら僕から受け取ったヘアピンを握り締めた。包丁の切っ先を喉に向けるみたいにして、胸の手前に構えている。
切っ先の鋭さ。
細く、鋭く、ただ彼女の喉の一点を見据えている。
彼女の瞳にためらいの色はない。逡巡も、躊躇もない。眦を決しているわけでも、凄絶な覚悟すら見当たらない。まるで朝食にコーヒーを注文するが如く、平静を保っていて、平然としている。
そのことが恐ろしい。
彼女は、雪村薫子は、偏っている。
一度した決意を翻意にしようとしない性向がある。平素と変わらず、それをしてみせる。人が厭うもの、忌み嫌うものに親しんでいる。死や破滅、邪悪や虚無と親しく交わっている。彼女は無邪気に、計算も意図もなく、狂いに至ろうとする。
「っこのっ、バカッ」
僕は彼女が何をしようとしているか、その一瞬で分かった。脊髄反射的に、薫子の腕を掴む。過度に力んだ手が薫子の細い腕を捉え、木の棒のように折ってしまいそうになる。
薫子は今しも、ヘアピンを右目に突き刺すそうとしているところだった。
薫子は不思議そうに問うた。本当に不思議そうに……僕の行動が理解できないと言わんばかりに。「なんで止めるのかな?」
この女……。
僕は憎しみにも似た情にとらわれた。あるいは、焦燥にも似た情動。無性にイライラする。なんで僕がやきもきしなくちゃならないんだ。
なぜ勝手に動くのか。
僕の腕は強く、彼女の動きを制している……。
「そんなこと、僕が望んじゃいないからだ」
手探りで答えを探し求めるようなものだ。濃霧。一寸先の見えない霧の中……暗中模索で、恐る恐る一歩を踏み出す。
理の外にある感情。
翻弄されてばかりの自分……。
僕はヘアピンを薫子の手からむしり取った。
薫子は僕の必死の形相に戸惑っているかのようだった。
そして。
「優しいね」彼女は僕の頬を手で包んだ。一瞬で僕の思っていること、その裏、全てを察したかのような澄んだ表情。「そんな生き方じゃ、いつか損するよ」
「僕は僕のしたいように生きるよ。生まれた時からそう決めていたんだ」
人の生き方は損得では考量できない。
もちろん九割方は損得勘定が含まれるものの、残りの一割はどうにもならない理外のものが絡んでくる。
ここが分水嶺となるだろう。
僕はいつしか、今度彼女と人生が交差することはないだろうと思った。
薫子は見る者を引きつけてやまないような、愛らしい笑顔を浮かべていた。
目を伏せて、小さく呟く。
「やっぱり、真純君には私がいないとダメだね。向こう見ずで意地っ張り。なのに優柔不断で、甘い判断ばっかり。でも、そんな真純君に私は惚れたんだよ。惚れた方の弱みなのかな……。真純君には私がそばにいないとやっぱりダメなんだよ。だって、君が損な選択をしたとき、君を支える人が必要でしょ?」
善悪を超越し、正邪を超過し、ただなしたいことをなす。
自由。
彼女は自由なんだ。ただ自分のやりたいことをやる。善悪なんてどうでもいいんだ。その行為の正邪がどうであろうと、自分の欲望に素直。平然と人を害したり、傷つけたりする。
僕の手を取り、穏やかに笑う彼女の姿は、さながら天女のようだった。
地上に舞い降りた天使。
だから僕は、後日薫子の件について、警察に通報することにした。