第十三話 外の世界(3)
僕の拳が顔にあたって、彼女が壁に叩きつけられるのを見届けたとき、僕はひどくイヤな気分になっていた。してやったぞという爽快感とか達成感とかそういったものは全然なかった。嫌悪感を伴った罪悪感だけ。苦しそうに呻く彼女を見て、僕は無性に死にたくなった。
彼女は信じられたものに裏切られかのような面持ちで僕を見上げていた。ホールディングナイフはポロっと落ち、壁に背をあずけたまま、くずおれた。
彼女の頬には青あざが出来ていて、血も出ている。整った顔立ちは丸めたアルミホイルのようにクシャクシャ。美しいものに一部、醜いものが混入したかのような様相。そして、今にも泣きそうな顔で僕を見つめるんだ。
そんな顔するなよ、と思う。
そんな顔されたら、意味がなくなってしまう。
僕の拳が意味を失ってしまう。
人を殴るって、これほど味気ないものなんだな、とふいに思った。
空はすっかり暗くなり、皓々とお月様が冴える月夜となっていた。皮膚の汗をぬぐいとる涼風。静寂に包まれ、人煙は立ち消え、ただ夏の夜気が蒸れこもっているだけだった。
その静けさが心地よい。
「もう、これだけでいい」
僕は言った。
彼女に背を向ける。
右目のかたきとか、屈辱とか、そんなことを思って殴ったんだ。僕には彼女を殴るだけの権利があると思った。事実、あると今でも思う。彼女は本当に人の尊厳とか営みなんかをぶっ壊すつもりでいたんだから。
僕はいつもこうなんだ。殴るまでは勇んでいたのに、いざ殴ったら"これ"。一貫性がないというか、意志薄弱というか……。女を打擲すべきではないという固定観念に邪魔されたってわけでもない。僕はただ、イヤなんだ。人を殴って、気持ち悪くなるのがイヤなんだ。誰が進んで車酔いになりたいと思うのか?
罪。
罪を償う道は、もっとまっとうなんだ。いっぱい殴って終わりっていうのはどうも即物的。もっと深く償うべきだ。彼女の罪状を世間にさらして、社会的信用をなくすとか、交友関係がズタズタになるとか、そういった地味で執念深いものなんだ。そんなきつい地獄を、彼女は味わうべきなんだ。ある意味、殴られることよりも辛い仕打ち。精神的な重圧。
ふと、彼女から見れば、背を向けた僕のお尻は丸見えって状況なんだろうなぁと思うと、無性につまらない気分になる。恥ずかしい格好をさせるなよぁ。
「この一発でさ、チャラにしてやるよ。これでプラマイゼロ。それでいこう。だから、二度と僕に関わるな。学校で会っても声をかけたら殺すし、馴れ馴れしい態度をとったら殺すし、一度でもそれっぽい仕草をしたら殺す。嘘じゃないんだぜ。僕はやると言ったらやる男だからな。だから女にも手を上げるんだ」
家に帰ろうと思う。一旦家に帰って一息ついてから、病院に行こう。その道中に通報すればいい。どうせ彼女は動けないんだ。茫然自失。証拠はいっぱいあるんだから、僕が退院する頃には、彼女は少年院の中。その時になって初めて、「ざまあみろ」って思えばいい。そこでほくそ笑んでやればいい。
「待って」
と。
彼女は。
そんな必死そうな声を。
思わず、足が止まる。止まってしまう。それだけ彼女の言葉には力があった。思わず人の足を止めさせるような魔力があった。道端、ダンボールに収まった子犬を見つけた時の心境……篠突くような雨に打たれ、小汚い痩躯を震わせるその姿。あふれ出る憐憫。漏れ出る同情……。心を抑え、一度無視して過ぎ去っても、気が付けば後戻りしてダンボールを抱えてしまうような、そんな哀切。どうにもならない引力。
彼女は涙交じりの声で言った。
「なんかよく分からないけどさ、真純君は二度と私と会わないつもりなの? それってさぁ、ダメだよ! そんなの絶対にダメ。真純君は私がいないとダメなんだ。私が世話を焼かないとどうにもならないんだよ? 私も、真純君がいないと、だっ、ダメなんだ。ダメになっちゃう。真純君がいないと私、ダメになっちゃうの。せっかく華やいできた人生だって言うのに、真純君抜きじゃつまんない人生になっちゃうよ。私から真純君を取らないでよぉ。私に至らない点があったら治すから。ダメなところがあったら修正するから……。だから、私を見捨てないでよぉ」
彼女はさめざめと泣きはらした。まるで子供のように盛大に泣いている。恥も外聞もない。全てをさらけ出して、ただ泣いている。
さながら、幼少期に女の子を泣かせてしまった時の恐慌に近い。どうすれば泣き止んでくれるのか、どうすれば許してくれるのか、ない知恵絞って考えてる、あの時の感覚。
僕はおろおろと周囲を見渡したりして、手をこまねいている。育児に不慣れな父親が、手の付けられない我が子の対応に窮するかのように……。
「こっ、この豆腐ハンバーグがいけないのかなぁ? 真純君の大好物なんだよね? 豆腐ハンバーグ。見た目が気に食わなかった? 大葉を入れたのが悪かったのかなぁ。真純君って苦いの嫌い? それともしいたけを刻んだのがいけないのかなぁ。ヘルシーで健康にいいのに……。なんでだろう、なんでだろう……。なんで真純君はこの豆腐ハンバーグが気に食わなかったんだろう? なんで真純君は私のことを殴るんだろう? なんで真純君は私のこと捨てるんだろう? 私には分からないことが多すぎるよ。どうしたらいいのかな。何をしたら真純君、許してくれるかな? 分かる? 真純君、分かる?」
ぐしゃぐしゃになった豆腐ハンバーグをかき集めた薫子は、不思議そうに箸でほじくったり、土まみれのそれを口に入れたりして、どうしてだろう、どうしてだろうと、壊れたカセットテープみたいにつぶやいている。
その光景はなんとも異様で、地面のテーブルと見立てて食事しているようだった。
彼女の脆い部分が前面に出ているって感じなんだ。心の中に潜んでいる幼児性のようなものが、恥ずかしいくらいににじみ出ている。
「おいしいのになぁ。中もしっかり焼けてるし、ふわふわだし、なんで気に食わないんだろう? 私には分からないよ。イジワルしないで教えてよ。次はきちんと気をつけてお料理するから……ねっ? それでいいよね? それで許してくれるよね? でないと私、どうしたらいいのか分かんないよ。ただでさえ真純君がそばにいないとダメな私なんだからさ、真純君に拒まれたら一日だって生きてられないよ。そんなひどいことしないでよ。私が死んじゃったら真純君の世話は誰がするの? わがままで自分勝手な真純君の面倒見きれる子なんて、私くらいしかいないよ? それでも私を手放すかな? それは賢い選択とは言えないよね? 双方にとって被害の出る選択……。死を招く選択だよ。真純君だって生活苦で死にたくないよね? 私だって死にたくないよ。一緒にいるのが一番いいのに、なんでそれをしないの? なんで私を廃棄しようとするの? それって横暴だよ。おかしいよ。真純君はずっと私といるべきなんだ!」
彼女は声を大にして言い放った。
霜のように降りる沈黙。
まるで。
まるで、綱を求めるかのような、糸を求めるかのような、藁を求めるかのような、涙に潤んだ瞳。手を貸してやらねば死んでしまう……赤子。一人では何もできない幼児。世話をしてやらねば、保護してやらねば、とつい思ってしまう。母性本能というわけではないが、守ってやらなければと思わせるような、無垢な姿。自分の全てを投げ出した上で、相手の反応を無防備に待つ彼女の様子……。
しばし僕を見つめていた彼女は、いきなり目をしばたたかせて、驚倒した。「あっ、真純君、服が汚れてるよ。血だらけじゃん。どうしたの? 転んだの? あはは、真純君って間抜けだね。どうしてそんなところに血がつくかな。それに右目もグチャグチャじゃん。ちゃんと治療しないと回復しないよ」
あわあわと近づいた彼女は、僕の服を脱がそうとした。
「な、何すんだっ」
「何って、お着替えするんだよ。私の家、ここから歩いて十分くらいのとこだから。大鷹通りに面してるマンションなんだけど、とってもいいとこだから、安心してね。ふかふかのソファーもあるし、温かいシャワーも浴びれるよ。そんな血だらけのシャツ着てたら、殺人鬼に間違われちゃうよね。大丈夫。心配しなくても、変なことしないから……ってぇ、これ女の子のセリフじゃないよね。だからさ、大丈夫だよ。私さ、当人の真純君には想像しづらいと思うけど、本当に君のことが好きなんだ。大好きで、心から大切にしたいって思ってるんだ。真純君だけには私、絶対嘘言わない。今から本当のこと言うからね。私は君に恋してて、今にも心臓が張り裂けそうだってこと……。これ、本当のことだよ? それでさ、着替えもちゃんと用意してるから、今すぐ行かなくちゃ。誰だってそう思うよね。真純君だって例外じゃないでしょ?」
彼女は有無を言わせぬ口調で僕に迫った。腫れや痣はあるものの、美しさの損なわれていない笑顔が僕を責めさいなむんだ。
ところどころ内容が破綻している気がしないでもないが、気にすべきことではないのだろう。
重要なことは、たった一つ。たった一つなんだ。それも単純明快、たわいのないお話さ。
僕は誘われているのだ。
女の子の部屋に。