第十一話 外の世界(1)
扉が再び締まる。
水を打ったような静寂……。
裸電球のかすかな明かりは頼りなく、ゆらゆらと影が揺れるだけだ。
彼女が密室から出て行くと、とたんに何も聞こえなくなる。ここが防音室という以上に、僕の心理状態が何らかの影響を受けているのは歴然だった。つまりは、次々と起こる異常事態に辟易しているのだ。未だに右目も痛む。体もだるい。こんな体調不良が重なれば、気分も悪くなるというものだ。
背もたれに体をあずけ、天井を見上げる。
そこには澄み渡った青空も清らかな夜空もなく、ただ無感動なタイルがあるのみだった。
「とりあえずは……」
僕はホッとため息を漏らした。
「とりあえずは、結束バンドはばれなかった。それがまず、よかった」
口から魂が抜け落ちてしまいそうな安堵感が全身を包む。体中の行き渡らせていた緊張の糸が一気にほぐれていく。
薫子は見るからに疑義を抱いていたものの、それが結実することはなかった。それよりも自らの妄執、願望が先行したのだろう。そんな疑惑は気にならなくなって、ただ僕に対する欲望が爆発したのだ。趣味に夢中になってそれ以外のことを忘れてしまうように、彼女の抱いた疑問もしょせん、その程度だったのだろう。妄想を話すことに没頭して、すぐに頭から消え去ってしまう。その程度の意味しか持たない……。
そして、彼女の言を信用すれば、"夜ごはん"は豆腐ハンバーグらしい。くしくも、僕の好物だ。彼女が事前に調査していたかどうかは不明だが、作為は感じる。彼が自ら夜ごはんを所望したのだから、彼の好物を作ってあげよう……などと思うのはごく自然な心の動きだ。彼女がそう考えても無理はない。ロジックは致命的にイカレているものの、思考そのものは常人の思考――。
誰にだって。
誰にだって変質的な部分はある。誰にも言えない秘密を抱えていたり、他人には理解できないこだわりを守っていたり、異常な性癖を持っていたりもする。でもそれは隠してしかるべきもので、普通人の目には触れない。心の闇の中にしまわれている。
しかしまれに、そういった"闇"を平然と前面に押し出すことのできる人種がいる。そいつは紛れもない狂人だ。
思うことは罪ではない。少女愛も、異物嗜愛も、屍姦も、人肉嗜好も、思うだけでは罪にはならず、また異常というわけでもない。大なり小なり、人は潜在的に"狂い"を内在させている。人を殺したいと強く願っても、実行に移さなければ罪科足りえないのだ。
でも、狂人はそれを実行に移してしまう。
思うことが異常ではなくて、実行することこそが異常。常識や人倫を当たり前のように踏みにじるからこその異常……。
「……やめよう。考えないようにしよう」
ぶんぶんと頭を振って、考えを追い出してしまう。切り替えるんだ。彼女はもういない。豆腐ハンバーグを料理するため、あと一時間くらいは来ないだろう。
手の中にある結束バンドをほっぽり出して、足の拘束を解いてしまう。僕は盛大に背伸びをした。骨がイヤな音を立てて鳴った。縄目のような跡が残った首を丁寧にさする。頭の方も手で触ってみれば、グジュグジュと腐った果実のような感触がした。手のひらは絵の具を塗りたくったように真っ赤だ。
想像以上の出血。
一瞬、目眩がしそうになった。
出血部には麻酔をかけられたかのように、感覚がマヒしている。今は異常事態が頻々して、神経が魯鈍になっているからいいものの、暫時すれば痛みがきいてくるだろう。
ひどい状態だった。
でも、これで自由の身、か。
もちろん、制約付きの自由ではあるが……。
否。
それは――否。
否である。
「もう、このゲームは詰んでるんだよ」
僕は手のひらに握っていたものを目の前に掲げた。
僕が命を削って手に入れた――起死回生の策。
裸電球の明かりにうっすら反射するそれは、檻から脱出するための"キーアイテム"となるだろう。
ゆっくりと近づいていく。
扉。
ロック機構の取り付けられた扉。
そこを通り過ぎると、第二の部屋が出現する。二重に仕掛けられた密室。
とたんに虫の音や車の排気ガスの音が聞こえてくる。懐かしさすら覚える、人の営為のノイズだ。
そして、眼前には例の"両面シリンダー"があった。
最後の難関にして、僕の自由を阻む門番……。彼女が用意した難敵だった。
しかし皮肉なことに、両面シリンダーの解除に、彼女が一役買うことになる。
彼女がいなければ、僕は決してここから脱出することはできなかっただろう。
突破口は見えている。
この両面シリンダー、複雑そうな構造に見えて、その実、ごく単純な作りをしている。シリンダーの内部にはピンが六本一列で並んでいて、それに片方がギザギザしたキーを、鍵穴から差し込む。そうすると、それぞれのピンが押し上げられる。定められたシャーラインが揃った状態で、キーを回せばいいだけだ。
シャーラインはいわばピアノの鍵盤をイメージしてくれるとわかりやすいかもしれない。それを手で上から押さえる。簡単な話さ。鍵のギザギザが手の代わりを担っているだけで、構造は同一。それでもう開錠だ。門番は扉を開け放たざるを得なくなる。
問題はそのキーが存在しないってことだ。
存在しないとなると、代用するしかない。
"彼女のヘアピン"で。
彼女との抱擁の間隙を縫って、手中にした。
彼女はおそらく油断していたはずなんだ。脱出の手立てなんてないって過信していたんだ。だから、注意すべきは扉のキーのみでいいって思ったのだろう。彼女が携帯しているであろう、両面シリンダーを開錠・施錠するためのキー。
そのキーを奪わせなければ、僕は絶対に脱出することはできない。彼女はそう確信していたはずなんだ。
だから、ノーマークだった。
ましてや手の結束バンドがとっくに破壊されていたなんて思ってもいない。手が自由になっていたなんて、まず考えもしない。
僕は髪にさしてあるヘアピンをさっと盗んだ……。
彼女がそれに気づく頃には、とっくに抜け出している。警察にでもなんでも通報してやるさ。
僕はヘアピンの端を掴んだ。
二つ折りのそれを、まっすぐ伸ばす。
まずは長さを確保する。
重要なことは、先端を少し曲げるってことなんだ。まずは先端をへの字にしないと話にならない。これは指のさじ加減。できたらペンチのような道具があればいいのだが、それはできない。慎重に折り曲げる。
ピッキングの要諦は、繊細な指の力と、構造の理解にある。
シリンダー内部にはいくつかプレートがあって、それらをすべて押し込めばいいのだが、もちろんただ押すだけではスピリングで戻ってしまう。それを避けるためには、鍵穴が開く方向にテンションをかけて、回す。テンションが弱すぎれば内部のピンは入らないし、強すぎるとピンが戻ってしまう。細心の注意を払ってピンを押し上げつつ奥に入れなければ、鍵は開かないのだ。
扉に耳を当てて、微細な音の変化を聞き取る。心臓の脈動がやけにうるさい。
時折ヘアピンの先端の曲がりを調節したりして、時間は過ぎていく。いつ来るともしれない彼女の幻影に怯えながらも、作業を続ける。
一応外の足音で分かるとは言え、息の詰まりそうな時間だった。
こういうことは往々にして、ごくあっさりとケリが付く。
簡単な話なんだ。ピッキングなんて。
カチッと何かが噛み合う音がする。歯車と歯車が連動するときのような、快活たる音。
「やっと、太陽の光を浴びられそうだぜ」
僕はドアノブをひねって、そっと押し上げた――。