第十話 真実と活路(2)
心臓が急激に高鳴る。上昇する心拍数。汗がだらだらとこぼれ、血の気が引いていくのがわかった。
どうやら僕がつらつらとしている間に、彼女は僕の作り笑顔に気づいたらしかった。隙間に針を通すように目を細めて、鋭く僕を注視している。
握った拳に力が入る。噴出する汗。結束バンドが手の中に収まっている……。
僕の取り繕った雰囲気を嗅ぎつけたらしい。
彼女の位置からは僕の手や結束バンドは見えない。それに勘付いたのか? それとも、僕の不自然な態度に不信感を抱いているだけなのか?
どっちなんだ?
金縛りにあったように全身が硬直した。まるで血の巡りが止まったかのようだった。時間も止まっている。異様な体感時間。彼女のえぐるような視線。背筋の骨が全部氷柱になりかわったみたいだ。
ゆ、油断のならない女……。
僕は息を呑んだ。
どうやら想像以上に勘が鋭いらしい。瞬時に僕の作為を、小細工を、読み取ったようだ。救いといえば、それがなんであるかは完全には分かっていないという点だ。
「ゆ、雪村」
「薫子だよ。薫子。名前で呼んでくれないとイヤだよ」
僕は。
僕はたまらなくなってひと呼吸入れようとしたが、こらえた。ギリギリまで潜水していて、今すぐ水面から顔を出したいって心境なんだ。酸素を吸って楽になりたいと思っているんだ。でもそんなことをしたら、彼女にきっかけを与えてしまうだろう。些細な疑惑を僕自身の手で育んでしまうだろう。それだけは避けなければいけない。
「か、薫子」なるべく自然な口角の緩め方、舌の動かし方に注意して、彼女の名前を呼ぶ。「薫子」
「なぁに。真純君」
「僕、ご飯が食べたいっ。薫子の、愛情いっぱいのっ、美味しい夜ごはんが食べたいんだ。作ってくれるかな?」
「え? え、え」彼女は当惑したように僕を見つめた。僕が何を述べているか見当もつかないって感じなんだ。しばし考え込んでいる……。そして、にわかに興奮したように僕の肩を掴んだ。「い、いいの? 作るよ? そんなに言われたら、腕によりをかけて作るしかないなぁ。待っててね。とびっきりのやつ作るから。楽しみにしててね。真純君」
彼女の指が肩に食い込んでいる。骨を軋ませるほどの握力。皮膚が変色して痣ができそうだ。それほど強い力だった。
「い、痛い、痛いから、そんなに、強く」
「薫子、真純ってファーストネームで呼び合うなんて、まるで私たち好きあってるみたいだよね。当然の事実だけど、いざ具体的になると、心躍るよね。真澄くんも嬉しいよね? 私はずっと真澄くんのものだから、そんなの当たり前かぁ。重要なことはさ、互いの心中に占める割合だと思うんだ。私の心がどれだけ真純君に占められているか、真純君の心がどれだけ私に占められているか……。だってさ、百パーセントだったら言うことないじゃん? 全部を占めたら、とっても幸せなことだと私は思うんだ。互いのことしか頭にないんだから、これはとっても幸せで、美しいことだよね? 素晴らしいことだよ。真純君もそう思うよね?」
「え? あ……え? おまえ、何言ってんの?」
「そんな返事はいらないよね」
彼女は聞き分けの悪い子供にするように、僕の髪を無理やり引っ張った。そうした後、ガンガンと背もたれに頭をぶつけさせる。ブチッと髪の毛が何本か抜け、後頭部に鈍い痛みが生じた。彼女は執拗に僕の頭をシェイクした。
「なんでそんなわけわからないこと言うかな……。普通さ、肯定の返事とか、気の利いたセリフとかじゃないの? 真純君は彼女を喜ばせようとか思わないわけ? もうちょっと配慮しようよ。私が喜ぶようなこと言ってよ。私、こんなに頑張ってるのに……」
僕が強く睨むと、彼女はヒステリックな悲鳴を上げて喉を絞め付けた。万力のようにキリキリと首が絞まっていく――。僕はカエルが潰れたような情けない声を出した。
そして、彼女は呪詛のように耳元でささやく。
「そんな反抗的な態度ばっかりしてるから、真純君はいろんな人から嫌われるんだよ。優柔不断でグズでのろまで……いっつも他力本願。そのくせ自分では何もできない。将来性なんてありもしない無能者……」
その顔はまるで能面を貼り付けたような無表情だった。肌は幽鬼のように青白く、舌で僕の頬を舐めとる仕草は蛇みたいだ。
彼女は首絞めをやめて、僕の顔を手で固定した。目と目がまっすぐに交差する。
彼女の玲瓏な眼差し。
彼女は先生が不出来な生徒に言い聞かせるみたいな口調で言った。
「だからそんな真純君には私みたいなできる人がそばにいないとダメなんだよ。私がそばにいないといっつもダメ。ご飯も私抜きじゃ満足に食べられないし、私抜きじゃトイレもお風呂もできないんでしょ? 赤ちゃんじゃないんだから、自分の世話ぐらい自分でしてよ。私もいい加減イヤなんだからね、こんなの。分かってる?」
脳髄に染み渡る彼女の言葉。
まるで洗脳だ。
彼女は滔々と言葉を綴っている。悪意の混入した不純物。紅の引かれた唇から飛び出す、邪悪な言葉……。
服に鮮血が散っている。みな、僕の血だ。頭部から染み出した血が、シャツやズボンに染み渡っていくんだ。
ふいに。
彼女は僕を安心させるような口調で言った。
「でも大丈夫だよ。私がいれば何の問題もない。真純君は私と一緒にいるだけでいいんだよ? ただ養われてるだけでいいの。君の存在理由はそれに帰結される。私が全部用意してあげるから。君の命、私が大切に育んであげるからね。もう大丈夫だよ。真純君はね、私だけのものになればいいんだよ。いっぱいイチャイチャして、いっぱいラブラブして、最高にハッピーな人生にしようね」
彼女は美しい笑みを浮かべた。
狂ってる。
この女、狂ってる。
すでに完結していて、すべてを寄せ付けない。
彼女は彼女の論理しか受け付けない。
彼女は僕の頭を愛しそうにかき抱いた。「ご飯の心配はしなくていいからね。今すぐ作ってあげるからね。夜ごはん。美味しすぎて、ほっぺたが落っこちちゃうかもね」
あぁ。
水谷真純。
雪村薫子。
果たして、どちらが檻にとらわれているのか?
密室に監禁されている僕なのか、虚妄に惑乱されている薫子なのか……。
答えはいずれ出るだろう。
回答は間近い。
それは僕の手の中にある。