殺意は霧を切り裂く
「そんな...馬鹿な!馬鹿也!もう一度...今一度申してくれ...!」
目の前で起こっている事が信じられずに勝家は目の前の男を見た。
「何度でも申し上げます…七尾城、七尾城は既に!陥落しています。城主畠山殿らは消息を絶ち、重臣の湯佐らは寝返り、我が主君長殿らは一族とともに戦死致しました!!!」
「上杉軍は?上杉軍はまだ七尾城に留まっているのだな!」
頼む、そうであってくれ、出ないと上様の御命が危ない。
「上杉軍...既に七尾城を立ち、我等の前にある松任城に軍を置きました。」
勝家は真っ青になる己の顔を自覚した。いかぬ、これは上杉軍は万全の構えで我等を待ち構えておる。しかも城が落ちたのは数日前。となると今の上杉軍は既に我等を追い越して越前に居ることもありえる。すぐにお伝えしなければ。
重くなる身体を奮い立たせながら勝家は織田信長が居る本陣に向かった。
本陣に来た勝家を信長は訝しげに一瞥した。
「どうした、アゴ」
勝家は一人の僧を伴っていた。その僧はどこかで見たことがあるような気がするが顔を伏せたままであるので思い出せない。
顔を真っ青にした勝家は震える声で喋った。
「七尾城からの使者でございます、仔細は使者より聞かれるが良いかと」
普段から強気で勇猛な勝家が顔を震えさせているのを見てただ事ではないと感じた信長は直ぐに使者に発言を促した
「七尾城からとのこと、何事か出来したか」
その声に使者は顔を上げた。
「…御主は!」
使者は七尾城の重臣長続連の息子長連龍だった。七尾城が包囲される前に織田軍に救援を請いに来たときにあっていたので面識があった。
信長はこの時点で七尾城に何か重大な出来事が起こったと推測できた。それが良くないことも。
信長の予想を裏切らずに連龍は衝撃的な言葉を出した。
『七尾城、数日前に既に陥落。上杉軍は松任城をも制圧し、その後は行方が知れませぬ。』
謙信にしてやられたか!
七尾城は陥落、救援の意味が無くなった。となると、現状で一番求めるのは上杉軍が何処にいるか しかし、所在は今も知れぬ。既に我等をこの霧の中で待ち構えて居るのかもしれん。今ここに居る事は利がない。
―――撤退だな
撤退を決めた信長の動きは素早かった。馬に飛び乗ると、側近らを呼び寄せた。
「撤退する、殿はアゴに任せる。仔細はそちらにいる連龍に聞け、久太郎は我について来い!」
「はっ!」
信長主従は僅かな兵を連れると直ぐに手取川を途河し始めた。
本陣に残った勝家は使番を呼んだ。
「使番、各隊に 上様はもう撤退された。殿は修理が務める故、某の陣を退却の目印にせよ と」
使番は一つ頷くと大急ぎで各将の陣に向かった。
これで何とか一息はつける、それにしてもぬかったわ。まさか上杉勢が七尾城を攻め落としてるとは予測していなかった。それを悔やんでも仕方があるまい…今は無事に何事も無く越前まで退かねば。
明智光秀は本陣からの使者の言葉を聞くや、直ぐに自軍が死地に陥ったことを悟る。
消息が掴めない上杉軍は恐らく越前まで進撃している、加賀に居る一向宗らと連帯して一気に京まで駆け上りこちらの本拠を奪うつもりだろう。
楽しくなってきましたね、金ヶ崎以来でしょうか ここまでの窮地に陥る事態は。
「内蔵助、左馬助」
二人の武士が進み出た、緊急時にも顔は冷静を保ち動揺した様子は見受けられない。戦の場数を踏んだ将ということが分かる。
内蔵助は斉藤利三の別名、元は稲葉一徹に仕えたが一徹と反りが合わなかったので出奔して明智光秀に仕えて今に至る。美濃の領主が齋藤氏だった頃より戦いに明け暮れたのでそこらへんの将よりも経験を積み、将としての力も伸びてきている有力な武将でもある。
斉藤利三は目に力を宿しながら言葉を短く発した。
「鉄砲隊三百は既に我らの陣の一番前の茂みに伏せておくようにと伝令を発しました。後は光秀様の支指示のみ。」
「見事、流石は歴戦の将だけはあります。左馬助、全軍に通達は出しましたか?」
「すでに滝川様、佐々様、佐久間様、丹羽様らの陣に到着している頃かと思います。」
光秀は撤退の準備も万事心得ている部下を頼もしく思った。
「では直ぐに撤退をします。明智隊は八割を先に川を渡らせます、残りの二割は死地に残ってもらいます。指揮は左馬助を総指揮に任じます、任せましたよ。」
「お任せを」
明智光秀は直ぐに兵をまとめて手取川に向かった。
光秀より伝令を受けた各将達はすぐに撤退をするために兵を纏め上げ先に行った光秀隊を追いかけた。
各隊が手取川まであと少しまで差し掛かったときに霧が揺らいだ。
それまで一切の音を出さず静謐さを保っていた霧が突如数え切れないほどの黒い点点を生み出して、斬り刻まれて形をなくしていった。
織田将兵はそれを夢でも見ているかのように見ていた。
周りを取り囲んでいた霧があっというまに雲散霧消していくさまは幻想的であったので見入る者も少なくなかった。しかし、その光景もいつまでも続かない。
霧が晴れた先には一体何があるのか想像も付かない不安に囚われて織田軍の中に恐怖が漂い始めた。
霧が完全に消える前に狼の遠吠えみたいな鋭い音がなった。それはまるで何かの合図のようにしたのか、それを起点として霧が消え去る端から数々の殺意が辺り一面から飛び出してきた。
据わった目でこちらを睨む雲河の大軍が霧の中に潜んでいたのだ。
その集団は時をみはらかって一斉に飛び出してきた。
これを迎え撃とうにも敵の襲来をほとんど予測していなかった織田軍は対応が遅れた。
「者共―――落ち着」
最後まで言い終わらせてくれるほど敵は優しくなかった。びゅうっ、と軽い風斬音を立てながら迫ってきた数百に上る矢が侍大将、兵卒、足軽区別無く体を貫いたからだ。矢はそのまま体を地面に縫い付けた。
旗が一斉に立つ。
懸かり乱れ龍を中心として、幾種類もの軍旗が護衛するように左右に波打ちながら現れる。
兵は地の底から沸き立つ闘争心を燃えたたせながら鯨波の波を作り出し迫る。
これを見て恐怖に駆られた兵が背中を向けて逃げ出した。
柴田勝家は後悔していた。
―――――こんなはずではなかった。いつからだ、いつから上杉は側に居た?手取川を越えたときには何も無かった、霧だけだったはずだ。いや、もうそのときには囲まれていたのか。
どうする―――このままでは全滅だ。川は、川はどうだ?
後ろにある手取川を見た。
―――荒れ狂っていた
川は神の怒りを体現するかの如く、水位は人の胸の高さを悠々と越えて尚、収まる気配を全く見せない。上杉軍から逃げようと兵が次々と手取川を渡ろうと飛び込む、川はそれらに対して大自然の無慈悲な鉄槌を下す。ゴオオオ、と唸りを上げるや泳いでいる兵を巨大な流れの奔流に引き込み、遥か彼方にある川の果てまで引きずっていった。他にも飛び込んで途河しようとした兵が数千人単位で川に飲まれて消えていく。
渡れぬ、退却口は無い...もうここで自刃するしかないのか―――いや、あるではないか。
前方だ、前方には懸かり乱れ龍の旗が翻っている。すなわち前線に謙信が出てきているということだ。
そうだ、何を今更悩んでいたのだ。我は、柴田修理。織田軍随一の勇猛さでならしている荒くれ者を率いている将ぞ。
戦場に声が出る。決して長くは無い、とても短い言葉だが、それを聞いた織田軍は動揺が収まり始めるのを感じだ。
『退くな』
――あの声は鬼柴田様じゃ
――なんとも勇猛なお姿と声じゃ
柴田勝家が大柄で虎髭を逆立てながら槍を掲げて上杉軍の前にたち塞がった。
その姿に勇気付けられた兵は再び統制を取り戻しつつあった。
「流石じゃ、直接ぶつかり合うことは予定には無かったが予定通り謙信の首ただ一つを狙うように全軍に心しておけ。」
滝川一益は安堵の声を出した。
柴田勝家は雄叫びを上げて敵陣に討ち入った。
槍に剛力を込めてありったけの力で一気に周囲を薙ぎ払う。敵は何人かの兵が受け止めきれずに飛ばされて圧迫された肺に空気が入らなくなり、息が苦しくなる。
「かかれ!」
檄に応え、四万の織田軍が一斉に打ち出した。
陣形など無い、原始の頃から存在する闘争本能に任せ、守護神のように屹立する柴田勝家を中心に織田軍は今一つの大きな塊になりつつあった。
そう、一点集中攻撃を織田軍は無意識のうちにしていた。
織田軍の一丸となった反撃にさしもの上杉軍にも討たれる者がちらほらと出始めた。だが、強兵故の誇りを思い出したのか上杉軍はぐんっと踏ん張ってきた。織田軍は柴田勝家を筆頭に各将らが前線にでて奮闘しながら先ほどよりは勢いは弱まったが少しずつ押し返していた。
織田軍に少しずつ押されている上杉軍だが、全く勢い負けしていない。むしろ流す血はこちらが多いぐらいかと錯覚してしまうぐらいだ。
戦場で男と男が互いに血を流し合い、殺し合いをしている。その中で一際奮戦をしている男たちが居る。
数人で取り囲み槍で突こうとした織田兵を虫を払うようになぎ倒し、敵の喉を突く度に化け物が出すような奇声を上げる怪人、本庄繁長。
その目は戦場に居る男共が放つ狂気よりも更に深い狂気を有していた。
「もっとだァ、モットワレニ血ヲ!!!!!」
叫びながらも持つ槍は獲物を逃がさず、次々としとめているあたり繁長が卓越した技術をもっているのが伺える。
味方の上杉兵も狂人と一緒に戦うのは流石に躊躇われるのか、彼の周りには不自然な円が常に一定の距離で作られていた。
その円の中に入るのはよほどの命知らずか勇猛なやつだけだが、飄々と入ってきたものが居る。
「いよぅ、戦場に狂い猪かい?珍しいねぇ」
繁長は槍を動かすのを一時的に止めて侵入者をにらみつけた。
「ナンダ、貴様は」
「俺かい?俺は前田利益というものさぁ」
掴みどころの無い飄々とした笑顔で言う武士だが、その槍は普通の槍に比べたら異質な質量を持っていた。柴田勝家が持つ武器を棍棒とするならば、利益が持つ武器は丸太と見まがうぐらいの異様な太さを持っている。とても手で持てる武器には見えないのだが、利益は棒切れでも持つように軽々と片手で持っている。
繁長に匹敵するか超える化物がそこにいた。
繁長は肌が死の恐怖に包まれて粟立つのを感じた。
歓喜が身を包む。
化物と戦えるなんて嬉しいじゃないか、前田利益。覚えたぞ、そしてさようならだ。
「前田利益ゥ、オメェは俺が絶対に殺ス!」
殺意が篭った言葉を投げられても前田利益は逆にニヤリと笑い返した。
「いいねぇ!命を懸けた歌舞きあい始めるとするか!」
前田利益は馬の手綱を勢い良く引くと繁長に向かって疾風の速さで駆けて来た。
繁長は凄惨で壮絶な笑顔を持って前田利益を迎えた。
両者が放った一撃が交差したとき。とても金属が出したとは思えない硬質で甲高い音が衝突点から発生してそこから出た衝撃が辺りに拡散した。




