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いきなり任命された

上杉家の歴史を少し、


早速感想をいただいた様でとても嬉しいです。これを見ている方々に満足してもらえる様に頑張って執筆して行きます。

上杉景勝に転生してしまった僕は今、上杉家の評定に参加している。


ここで上杉家の歴史を振り返って見る。



上杉家、元は越後の守護代に仕えていた豪族だったが長尾為景、上杉謙信の父が下克上、家を乗っ取って守護代に成り代わって長尾家が出来た。為景の代は新しく守護代になった長尾家に反発して従わない豪族や農民も多く、為景は一生の殆どをそれらの鎮圧や対外の戦に費やされた。


為景が晩年の時に為景には二人の子が居た。長尾晴景、景虎である。二人の中で為景は景虎が持つ天性の軍事の才に期待を掛けた。晴景は病弱で余り期待はされていなかった、晴景も其れを良しとしていた。二人の兄弟仲も悪くなかったのでこのまま順風万番に越後の統治は上杉景虎に委ねられる筈だった。だが、為景死去後、越後各地の豪族達が突如、政虎を廃して晴景を越後の主にと唄いはじめたのだ。晴景はその声を抑えきれず、景虎も其れを良しとしたので晴景が越後の主になり、政虎はその下に付く家臣となる事で一時は話は収まった。


しかし、長尾当主となった晴景の下で景虎は戦果を立て過ぎた。立て過ぎたとは言えない、政虎自身が余りにも強過ぎたのだから。景虎は晴景の元でその溢れんばかりの才を初陣から遺憾なく発揮し、晴景に刃向かう者達を鎮圧して来た。晴景も手柄を立てる景虎を嬉しく思い、喜んだが、戦国の世は二人が仲良い兄弟でいることを許さなかった。景虎が手柄を立てる度に越後の景虎を擁立する派の武士達が景虎を病弱の晴景に変わり越後の国主にせよとの声が上がってきたのである。景虎は其れを固辞したが、徐々にその声は強くなり、遂に景虎と晴景の仲を割く決定的な出来事が起きた。1545年(天文15年)に上杉家の老臣の黒田秀忠が謀反を起こし、春日山城に居た景虎の兄らを殺し、自城の黒田城に篭った。景虎は兄の命令を受け、電光石火の勢いで乱を鎮圧、秀忠らは許したが、また再び乱を起こしたので、今度は黒田秀忠ら一族は皆殺しにした。


この戦いは景虎の強さを越後国内に知らしめたが、景虎擁立派が兄晴景に「越後国主を退陣して景虎を越後国主とせよ。」と、迫ったのだ。この事がきっかけで晴景と景虎の仲は険悪になり、1548年に晴景支持派と景虎擁立派が衝突して、景虎も否応なく兄と戦わざるを得なくなった。そして景虎はこの戦いに圧勝、晴景は隠居し、晴景支持派も景虎に従い、ここに越後は長尾景虎の手により統一された。


だが、越後を統一したばかりの景虎に迫る影があった。奥羽の蘆名盛氏が統一したばかりの越後に攻め込んできたのだ。景虎は直ぐさま軍を集め、迎撃したが、景虎勢は3000の兵しかいないのに対し、蘆名盛氏は8000の兵を様していた。景虎は奇襲を用い、初戦は勝利したが、蘆名盛氏は流石に簡単には崩れず互いに睨み合いが続いたが、やがて蘆名盛氏は兵糧が尽きたのか、撤退して行った。


景虎はようやく得た時間を使い、内政開発や貿易、鉱山開発などをして越後を豊かにして行った。しかし、1551年に関東管領上杉憲政が相模の北条氏康により、関東を追われ、長尾景虎に助けを求めてきたので景虎はこれを受け入れ、北条と戦い始めた。始めは北条方の城を順調に落として行ったが、景虎が越後に戻って行った後に北条勢に再び城を奪われるという事になって、戦端は泥沼とかして来ていた。そして、1552年に信濃の村上義清が甲斐の武田晴信に信濃を追われ、助けを求めてきたので、景虎は此れにも応え、1553年に第一次川中島の戦いで武田と対決したが、睨み合いに終わった。第二次、第三次も同じ結果だったが、第四次は激戦となり、上杉軍は武田の本陣まで肉薄し、武田晴信の弟信繁などを討ち取る戦果を上げたが、飯富虎昌・昌景らの奮戦により攻めきれなかった所を武田の別動隊が戻って来た事により、長尾軍は撤退した。この戦いは痛み分けに終わった。


景虎は次に北条を征伐せんと、関東管領上杉憲政を立てた関東征伐軍を立て、関東の反北条の軍も次々に参陣し、総勢10万の大軍で北条氏を攻めたが、氏康・氏政親子の巧みな籠城戦により、殆ど戦果は挙げられず兵糧もつきかけてきたので仕方なく撤退した。


尚、この時、長尾景虎は上杉憲政より関東管領の位を譲り受けられ、『上杉輝虎』と名前を変え、長尾も上杉と名前が変わった。


現代の人がよく知ってる上杉謙信と言う名前は彼の法名らしい。


と、ここまでが上杉家の歴史かな?まだ輝虎と言う名前かと思ったがもう不識庵謙信と言う名前になってたんだな、さっき謙信が言ってた話の内容にちょびっとだが今の年号がだいだい分かった。今は天正3年1月10日らしい。天正3年と言うと…1575年、長篠の戦いが起こる年か…武田は個人的に好きだからなあ、もちろん、上杉が一番好きだけれども!武田と言えばやっぱ武田四天王だよな!!四天王の内三人は長篠で死ぬんだよな…勿体無いなー、何とか戦い回避出来んかな?


あっと、忘れてたが、僕の名前はまだ上杉顯景で、今日の評定で正式に上杉景勝と名乗らせるらしいと謙信が評定の前に言ってた。


さて、今日の評定だが…


「誰か、武田と盟を結ぶ交渉に赴いてくれる者はおらぬか?」


謙信が皆に呼びかけるが誰も答えるものは居ない。当たり前だろう、長年戦い続けた武田と盟を結ぶ役に誰が好き好んで行きたがるものか。


しかし、このまま武田と盟を結ばないと、武田四天王や数多いる武田の名将達が死んでしまう!何とか出来ぬものか…何とかして家臣団に武田と盟を結ぶ利を分からせないと、どうしたもんか…


「喜平次、さっきからずっと瞑目しているが、何か考えがあるのか?」


うおっ!?いきなりかよ!慌てるな…


「はっ、其れがしは武田と盟を結ぶべきかと存じます。」


「ほう、家臣らは皆、武田と盟を結ぶべきではないと考えている様だが、喜平次は賛成か、如何してじゃ?」


そりゃ!武田の将達をむざむざと死なせたくないからさ!と…冗談は置いといて、


「武田と盟を結ぶ事、即ち、不識庵様が長年悩まされている一向一揆の問題が解決致しまする。」


おおっ!、確かに…、いや、確かに一向一揆の問題がなくなる事は利になる!、だが…しかし、武田と盟を結ぶのは…、しかしそれを差し置いてもこれは魅力だ…


えっ…普通に当たり前の事を言っただけなのに?そこまで上杉家の人は考えてなかったんか!?


周りがざわめき出してきた時に、


「静まれい!」


謙信の一言で静かになる家臣団、


「喜平次、さっきの考えは素晴らしい考えである。儂も一向一揆には悩まされている。其れが無くなるということは上杉に利ありだ。」


「幸いにして我の長年の宿敵である武田信玄は既に亡くなっておる、我は信玄が居ない武田には敵意は持っておらぬ。今より我は武田と盟を結ぶ、しかし、同盟国である北条や織田にはこの事を非難されるわけにはゆかぬ。よって、盟は秘密裏に結ぶ、使者の件だが…喜平次!其方が行くが良い!」


ええええ!?決まったのはいいけど使者が俺かよ!?くっそ…同盟を結ぶとはいえ、未だ敵地の中に行くのかよ…


「盟の件は織田・北条に知られる訳にはゆかぬ故、喜平次一人とする、必ずや盟を結んでくるがよい。」


…一人でって…くっ!負けるな俺!


「はっ!、しかと承った!」


謙信は満足気に僕を見て、


「良い返事じゃ、それと喜平次は今日より『上杉景勝』と名を変えよ。」


「有難き幸せ。」


まあ、名前が変わったから嬉しいな。上杉景勝と言う名前ってなんかカッコいいからな!


さて、行くとするか、虎穴に

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