魔王始動する、生還した者
岐阜城、この城はかつて、美濃斎藤氏が治めていた山城である。だが、その城に以前の面影は少ししか残ってない。斎藤氏の家紋が彫られていた旗は織田木瓜に塗り替えられ、周辺に欝蒼と茂っていた森林は殆ど切り倒され、僅かに森を残すだけとなっている。
その上には沢山の市や座が建ち並び、街道には小売行商人の露店が数多く出されている。
此れだけを見ても岐阜城下が以前とは全く様相を変えたのが分かる。更に街には商売をする人と、働く人とで活気に満ち溢れている。
城下町を見下ろす様に一つ上の所から見下ろす岐阜城に声が響く。
「う、上様……この度の失態、申し訳ありませぬ……」
穴があったら入りたい、その気持ちで床に頭を擦り付ける。
「ハゲ、貴様を責めはせぬ。上杉が出て来る事は俺も全く予期してなかった」
意外に優しい声に秀吉は少し安心した。上座に座る上様は意外に落ち着いて居られる。これならば、何とか行けるだろう。
だが……何故一緒に並んでいる丹羽殿は震えて居るのだろう?別に上様は怒っておられぬだろうに…?
「ハゲ、頭を上げろ。」
「ははっ」
ゆっくりと頭を上げる。
上座に座る上様の顔を見つめた瞬間、秀吉は意識が飛びそうになった。
そこには、何時もと変わらない上様が居たが、目が逝っている。吊長の目は限界までカッと見開かれ。見開かれた目には憤怒の炎が駆け巡り、視線だけで人を殺せそうな殺気がほとばしっていた。
ーーやはり、上様は怒っておられたあーー!
秀吉は直ぐに目を逸らしたかったが、それをしたらどんな目に会うか分からないので、現状維持に留めた。
少しの間、上様は私をじっと見つめたまま沈黙した。時間にして一分程の張り詰めた沈黙が経ち、上様はスッと立ち上がり、私の前に立たれた。
「…………ハゲ!」
「ははぁーっ! この秀吉、上様に命ぜられた物は何でもやりましょう!死ねと仰せられたら早速やりもうすっ!」
「貴様がここで死んでも何にもならん! いいか、ハゲは直ぐに領地の長浜より兵を引き連れて来い! 良いな!」
「ははぁーっ……! 」
秀吉は勢い良く頭を直ぐに下げた。
信長は秀吉より離れると、大股で上座に立つと声を発した。
「キンカン!」
「此処に」
「キンカンは直ちに越前の情報を集めろ、期限は10日!」
「承りました。」
信長は次に左に座る大柄な武士に視線を向けた。
「アゴっ!」
「ははっ!!」
「そちは勘九郎、三七、成政、又左らと共に越前を攻める準備を整えろ!」
「ははっ!」
アゴと呼ばれた武士が平伏すると息継ぎをする間もなく、視線を移した。
「左近!」
「はっ!」
「主は伊勢、志摩を完全平定せよ、北畠の残党共は全て撫で斬りにせい。」
「承知!」
一息ついた信長は居並ぶ家臣を睥睨して、口を静かに開いた。
「長篠では武田と上杉にしてやられた。勝頼めも討てなかった。これは俺の失敗だ。」
皆は何も言葉を発さなかった。皆知っているのだ、主信長が一番激昂しているのを。
更に言葉は続く
「二年、二年だ、二年で機内全てを掌握する、いいな。」
『仰せのままに!!!』
頭を下げる家臣達をみつめる信長の目は全てを焼き尽くさんばかりの激情に包まれている。
上杉めに不意をつかれるとは思わんかった。今はよい、今は周りに居る敵を潰す。その後は必ずや武田諸共上杉を潰してくれん。
◆
甲斐、躑躅ヶ崎館、この館は本来は戦に使われる構造はしていない。あくまでも、生活する為にあるだけの城としての役割しかない。
その城に軍勢が近づいている。
それを軍と言って良いのか、所属を示す旗は所々破れ、みずぼらしい姿を晒している。旗を中心にして進む兵達は疲れ切った表情をしていて、敗残兵と言う響きが合いそうな様をしていた。 そんな中にあって、異色の様相をしている隊がある。
「毘」の文字が太陽の光を受けて、光り輝き、その下に集う兵も他の兵と同じ様にボロボロの姿をしているものの、瞳は未だ輝き、戦意を失っていない。そう、長篠の戦いから落ち武者より武田軍を守った上杉景勝率いる三千の上杉軍であった。
率いている景勝は武田軍でも一際装飾豪華な鎧に身を包んだ武者と共に進軍していた。
「勝頼殿、此の度の敗戦は私の責任。申し訳ありませぬ。」
弱々しい声で返答が帰ってきた。
「喜平次殿……貴方の性ではありませぬ。此れは私自身が甘かった故です。」
返答したのは武田勝頼だ。長篠の戦い時の冷静な表情は鳴りを潜め、悔しさが顔に滲み出ている。
「だが……山県、馬場、真田、土屋の将を喪ったのは、幾ら悔やんでも悔やみきれぬ。私にもっと力があったら……!」
景勝も顔には出てないものの、勝頼と同じくらいに落ち込んでいた。長篠の戦いを武田に勝たせようと意気込んだが、結果は引き分けには持ち込めた。しかし、武田の将は殆ど討死、実際には大敗である。
くそっ……!何が未来改変だよ、助けたい人も助けられずにっ!…あの時僕が動いて居れば武田は勝てたのに…
自らの未来知識を全く活かせなかったばかりか、武田を窮地に追いやってしまった。此れは仕方ないとも言える。戦国の世は未来予知如きで勝利出来るほど甘い世界ではない。謀略を尽くした斎藤道三も最後は義龍に討たれると言う呆気ない最期を迎えている。如何に頭が良く、先を見通せたとしても、未来は常に変化する。
長篠の戦いも同じだ、上杉軍と言う新要素が入ったら織田信長は史実にはない新たな戦術を取る。まさに千変万化、景勝はその事がまだ分かっていなかったのだ。歴史は常に変化する。それは不変の真理とも言える。
景勝に救いがあるならば、まだこの世界は史実を歩んでいる事だろう。史実に沿うなら、景勝が有している未来知識でまだまだ歴史を変える事は出来る。
景勝は此れから天正六年までに、上杉の力を伸ばす決心をした。
何としてでも、武田を潰させない。そして、この僕も変わらないといけない、今まで上手く行ってたから甘えてしまった。
この戦国を絶対生ききってやる!
景勝が頭の中で決心をしている間に、一行は躑躅ヶ崎館の門に辿り着いた。
門が音を立てて開き、中から一人の武士が出て来た。
「お屋形様……! よくぞ御無事で…!」
「昌信、今戻った。」
勝頼を迎えたのは留守居役を任ぜられていた香坂昌信、武田の重臣である。年は五十代半ばに差し掛かる壮年の武士だ。勝頼を見つめる目は慈愛に満ちている。
「昌信、俺は武田を改革する。織田にむざむざと潰されてたまるか。」
「勿論です、先ずは戦で疲れた体を癒しなされ。」
「うむ、上杉殿はどうなされる?」
「其れがしは、取り急ぎ越後に帰還します。」
「了解した、上杉殿…いや、喜平次殿におかれてはこのたびの助力誠に感謝している。」
「いえ、また何かあったら助けに行きまする、喜平次の名に置いて。」
景勝と勝頼は互いに握手を交わし、別れた。
甲斐に続く山道
「後少しぞ…後少しで甲斐に着く、皆、奮起せよ!」
武田軍が撤退したルートとは別の道を通る集団がある。その集団は先程の勝頼らの武田軍よりも更に酷い手傷を負って、歩行するのが困難な者も居た。しかし、集団は歩みを止めない。
ーー死ねない、生きて、勝頼様を支えねば…
その一心で落武者狩りが沢山いる、悪路や虎穴を潜り抜け、全身を傷だらけにしながらも此処まで来ている。
その集団を率いている部将は禿げ上がった頭を血に染めながらも、目に灯る光は生を諦めてない。
部将に一人の侍が話しかける。
「修理助様…もう限界に御座ります……」
「気を強く持て、躑躅ヶ崎館はもう目の前に見えておる。」
修理助と呼ばれたこの男こそ、長篠の激戦より生還した武田の副将、内藤修理助昌豊である。