勝頼の本心
小島貞興は馬を走らせていた。
其れに徒歩の兵が続く。兵達は先程昏倒させた羽柴、丹羽を担いでいた。
貞興が羽柴と丹羽の二将を殺さなかったのは景勝から殺さず生かして捕らえよ、と命令を受けていたからだ。
その時も多くは語られなかったが、景勝様の事だ、何か策でも考えているのだろう…
貞興は馬上から周りを見回した。
ふむ…友軍は上手く織田を押し返しておる。したが、佐々成政・滝川一益らは形勢が不利と悟るや直ぐに織田本陣に引いて行ったか。
上杉、武田の挟撃により、織田軍は崩れたが、それはあくまでも一箇所に絞った場合だけに限定される。本隊の織田信長、徳川家康は未だ動かず。それだけでも二万を数える大軍に上杉、武田合わせてやっと八千になる兵では到底勝利は望めない。
もし将達が討死してないで健在の状態ならまだ勝機はあっただろうが、山県昌景ら有力部将は戦死。残る将達は既に撤退に移っていて戦える状態ではなかった。
この状況で景勝はどうするのかー貞興はそれが気になっていた。此の儘戦いを続けたとしても必ず負ける。援軍は三千しかおらぬし、沈黙を保っている本軍が動き出したら数の少ないワシ等は一蹴されてしまう。
馬に乗って沈黙を保っている景勝が見えたので貞興は下馬して景勝の前に行った。
「景勝様、御命令通り秀吉らを捕縛しました。」
「御苦労、では土屋殿と馬場殿の隊と合流しよう。」
先程の挟撃で上杉と連携した武田兵を指揮していたのは土屋昌次、馬場信春の二将であったのだ。
景勝は長篠の戦が開戦してからずっと沈黙を保っていた。周りも景勝が動かないので動かなかった。
景勝は動かなかったのではなく動けなかったのだ。
なんだよ…!?これは、此れが戦なんか?
景勝は生で初めて見る戦の凄惨さに心を揺さぶられていた。
唸りを上げて飛び交う矢、叫び声を上げながら突進する両軍、矢がきらめくと同時に倒れて行く兵、馬乗りになり手柄欲しさに醜さで顔を染めながら敵の首を取る兵、
怖い、人が恐ろしい、生死に人はここまで残酷になれるのか、これが戦、
現代に生きていた彼にとっては戦国の世界はとてもショッキングだった。分かっていた積りだが、やはり頭の根本の所では理解していなかったのだ。
彼を現実に引き戻したのは脳裏に浮かんだ一個の声だ
「喜平次殿、共に戦いましょう。」
前夜、武田の諸将と鬨の声を上げた後、武田勝頼が喜平次の陣を訪ねて来た時にかけられた言葉だ。
勝頼は軍議での冷静な態度とは売って変わって良く話す。
「喜平次殿、必ずや武田、上杉で織田を倒しましょうぞ!」
「はっ、此度は宜しくお願いします。」
勝頼は援軍に来てもらえたことが予想外だったのか、終始上機嫌だった。機嫌が良い勝頼とたわいもない戦話を咲かせた。そして話もそろそろ終わりに入ろうかという時に勝頼が不意に切り出して来た。
「喜平次殿、今の武田をどう思われる?」
えっ?急に何?…こういう時はなんて答えれば良いんだ!?と、取り敢えず当たり障りのない返答をば
「昌景殿を始めとする才色兼備の猛将、知将が煌めく星の如くいる万武不倒の家かと」
「そうか…喜平次殿にはそう見えておるのか…」
何故か悲しそうな顔をした勝頼
景勝は妙に悲しげな顔をしたのが気になった
「何故悲しい顔をされるのだ?」
勝頼は一旦黙ってから話し出した
「喜平次殿は我が武田が天下無双の家と仰られる。したが、其れはあくまでも上面だけ見た場合、実際には一枚岩ではない。山県らは従ってくれるが、叔父の武田信廉、穴山信君らは全く従わぬ。いや、表面上は服従してる様に見えるが目に見えぬ所で勝手な振る舞いをしておる。」
何と勝頼は他家の人間に武田の内情を吐露したのだ。これは余程信頼している人にしか話さない内容だぞ…いや、それだけ武田は内紛の種を抱えているからなりふりかまっても居られないのかもしれない。
苦々しげに唇を引き結んで
「喜平次殿、我等は決して一枚岩では無い、其れどころか何かきっかけがあれば直ぐに崩れる危うさをも抱えております。その原因となったのは薄々お分かりとは思いますが父の成した事が原因です。」
やっぱり俺の考えていた通りだったか…
長篠の戦いの前に景勝は武田と同盟を結ぶために謙信とその家中を説得して使者として甲府に赴き、これを見事に成功させた。異例の早さで同盟を結ぶ事が許可され、相手の武田も最初こそは敵意はあったものの、最終的にはすんなりと受け入れた。
その理由は武田が置かれている状況と上杉の利害関係にあった。武田は病没した信玄の跡を継いだ勝頼が積極的な軍事行動によって、武田領を最大範囲まで広げて「信玄死した後も武田は尚強き」と評価を得ていた。しかし、それは薄氷の上にある薄っぺらい物に過ぎなかった。如何に武田が積極的に行動したとしても周りには強豪らが居た。信玄、謙信らと鎬を削りあった相模の獅子 北条氏康の跡を継ぎ、関東一円を支配している北条氏政、生前の信玄が倒せなかった越後の龍 上杉謙信、そして畿内最大の勢力を有している大大名織田信長、徳川家康らに武田は周りをぐるっと囲まれる形、四面楚歌の状況だった。
今は勝利し続けてるから敵も表立った軍事行動はして来ないが、一度でも負ければ飢えた狼の如く喰らいつかれ最後には滅亡してしまう。だからこそ勝頼は武田の当主になり、改革を行いたかった。しかし、信玄は勝頼が武田の当主でいる事を許さなかった。
信玄は勝頼を当主では無く陣代とした。若き陣代勝頼は嘆いた。
何故だ、何故だ、父よ、何故私に力をくれないのだ、此の儘では武田は滅ぶ。最早父のやり方は通用しない。改革が必要なのだ、織田信長、彼奴のやり方をやるべきなのに
嘆きに嘆いたが悲嘆にくれても何も解決しないので勝頼は戦果を求めた。皆を納得させて陣代から当主となる事を
手始めに三河の諸城を落として行った。織田が直ぐに加勢の動きを見せたが勝頼は美濃に赤備えを急行させ、此れを敗走させた。三河の半分くらいはほぼ勝頼の物に成りつつあった。
此れで家臣らは私を認めてくれる。強い期待を抱いた。だが、譜代の山県、馬場らは認め、従ったが親族らには無視された。
彼ら曰く、「正式な当主では無いのに幾ら戦果を挙げても無意味、陣代は陣代らしくしておれば良いのだ。信玄公の『三年間は我が死を秘すべし、けして外に討って出るな』も守っておらぬ不義者に当主の資格は無い。
勝頼は激昂した。
ー貴様らの目は節穴か、不義者と言われるならば兄義信を幽閉し、駿河侵攻をした事はどうなのか!充分不義に足る行為であろうが!それにこうしているうちに織田は段々強大になっている。いましかないのだ、武田が織田に勝つ機会は!
だから勝頼は常々から親族らを粛清する機会を伺っていた。だが、それには勝頼と重臣だけでは出来ない。後ろ盾になってくれる大名が必要だった。後ろ盾の候補としては相模の北条が浮かんだが、彼は野心高い人である。内紛に乗じて武田を潰そうとして来る。だから却下であった。そうなると隣接している国で良き後ろ盾となってくれそうなのは敵である上杉謙信である。
勝頼は何としてでも上杉と繋がりを持ちたいと熱望していた。重臣の一人、高坂昌信に上杉に使者を送る事を打診していたが、その真っ最中に景勝が使者として来たのだ。
寝耳に水であり、勝頼はとても驚愕したが、降って湧いた様な幸運を逃す訳には行かないので、直ちに対面する事を決めた。
景勝との対面の場には親族衆は臨席させなかった。余計な事を言われて交渉を台無しにはしたくなかったからだ。勿論、親族衆は参加させろとがなりたててきたが、重臣の中でも力がある山県昌景と馬場信房が一喝する事で黙らせた。
対面の際に勝頼は家臣の一人にわざと挑発するようにと指示した。同盟を結びたいと強く熱望していたとは言え、やはり敵国同士。上杉は何を考えて同盟の使者を立ててきたのか知る必要があった。それであえて不興を買う事を覚悟で出したのだ。
使者…喜平次殿は冷静に振る舞い、当方に取っての利がある事も見抜いた上で私を褒めあげた。
つまり、上杉は武田を支援するつもりである。恐らく謙信は長年悩まされてきた一向宗を懐柔して越前を支配して上洛をするつもりだろう。
大成功の内に同盟は結ばれた。その後、私は長篠に赴き、ここで織田、徳川と雌雄を決するつもりであった。上杉にも援軍要請したが越後は遠い。来なくてもしょうがないであろう。
だが、予想を裏切り、同盟の時に会った喜平次殿が援軍として来てくれた。勝頼は感情を出さなかったものの、舞い上がらん程に喜んだ。
だから喜平次と話している時勝頼は機嫌が良かったのである。
長々と語ったが、同盟の裏にはこうした利害があるのである。
景勝はもう一度目の前にいる勝頼を見やった。
「喜平次殿は私の事を認めてくださる…遠き越後からわざわざ来てくれるその義、頼りにして居ります。」そう言い、勝頼は二カッと笑った。
景勝は感激した。
ーすげぇな…勝頼は凡将とか愚将など散々歴史では非難されて来たがこうして見るととても凡愚とは思えない。
とても良い人だった。景勝は尚更勝頼を死なせたくなかった。絶対に生き残らせたい…と硬く誓った。
そうだ、長篠の戦いは俺が不甲斐ないばかりに敗戦に成りつつあるけど、武田は滅亡させたくない!戦が怖いなんて言ってられない。
景勝は自らを鞭打ち、顔を両手でバシンと叩くと気を引き締め、指示を出した。
「我が軍は此れより迂回して織田軍を叩く!」
大きく息を吸い込み、「者ども、俺に続け!」
下知を受けた上杉兵三千は疾風の速さで武田を包囲攻撃している織田勢の後ろに回り、此れを叩いた。
虚をつかれた織田勢は算を崩すように崩壊し当たり一面に敗走した。
丁度良い事に先程貞興が羽柴、丹羽の二将を捕虜にしてきた。
景勝はこの状況で勝利出来るとは考えてはいないが引き分けに持ち込む手立てはあった。敗戦より引き分けの方が良い。
だが、それには…犠牲が必要だ…
景勝は苦悩した。味方を犠牲にする事を、だが、そうでもしなければ未だ余力を有している相手には引き分けに持ち込めない。
断腸の思いながら、伝令を呼び景勝は囁いた。
理由と行動を結びつけるように文章を書くのが難しいですが、更に精進して行きます。
皆さんが納得できるように執筆を続けます。
今後も拙作を宜しくお願いします。