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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン1  2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権
7/65

6.欲と勝負への拘り ――2015年3月7日 その2


 今大会の男子シングルは、日程上フリーまでが一日空くことになる。テーピングをして公式の鎮痛剤を打ったところで、何とか痛みは静まってくれた。


 現在、俺が一番持っている最高難度のジャンプは、トリプルアクセル。今シーズンはジャンプの矯正に念を置いていたから、クワド(四回転)には手を付けていない。


 問題はルッツジャンプを抜くか否か。


 ルッツジャンプは3回転の中で一番基礎点が高い。演技構成から抜くのは惜しい。……が、大事を取っておいた方がいいのだろう。

 結局はほかの要素で追いつくしかない。SPでレベルの取りこぼしのあったステップとスピン。それから、最大の得点源であるトリプルアクセルを加点のつく綺麗なものを目指す。それに、これ以上の怪我を増やさないことだ。


 ジャンプが3つ、それも飛び直しが許されないショートと比べて、フリーは得意だ。課題はルッツとレベルの取りこぼし。


 周りからは、消極的だと言われそうだが、挑戦が許されない状態にこの手は、きわめて有効だ。……順位さえ、点数さえ、そして周りの選手さえ気にしなければ。

 ――だが、これだけだとあの天才に追いつくための決定力に欠ける。


「あんまり深く考えちゃ駄目だって。一年間滑ってきたプログラムをもう少し信じなよ」


 今は練習用リンクで滑っている。会場では女子のショートをやっている筈だ。滑りながら策を練っていたら、先生からはプログラムの完成度を上げるようにと提言された。腕の動かし方、ジャッジの前で氷をガリガリ削らないこと、頭を上下に動かさないこと等。ひとつひとつの振り付けの意味を考え、丁寧に昇華させていくこと。これらに気を付けていけば、直接的ではないが、技術面だけではなく表現面で十分に点が稼げる。

 先生の言う通り、底上げの可能性があるのは演技構成点の方だろう。振り付けを行ったのは六月。体にもなじんで、ジャッジから結構な高評価を頂いている。


 ……右足に負担を掛けずに。かつ、点をそこまで落とさずに完成度を上げる。


 だが。ひとつだけ恐れるものがある。それはアンドレイ・ヴォルコフのフリープログラムだ。


 フリーの4分間を滑りきる体力には問題はないだろう。去年最年少で出場していたが、最後までスピードが落ちなかったのだから。恐れるのは、彼が何の、どういったプログラムを持ち、どういう表現でもって滑りきり、それがどう評価されるか。何せ、今季最終戦にして初めて見えるプログラムなのだ。

普通プログラムは、試合を重ねてその都度競技を行っての感触やジャッジの評価を確かめながら完成度を上げていくものだ。


 気弱に考えるのは好きではない。……あのヴォルコフのショートの点数を見てから、暗い予感がしてならないのだ。


 自分の前の演技は基本的に見ない。だが、直前の選手が滑走している時、次滑走者はリンクサイドに控えている。必然的に、少しでも氷上のその様子が見えてしまう。

 未熟さの露呈ではない。何かとてつもない完成度を持った、恐ろしいものを隠し持っている。そんな予感が消えなかった。


 ――フリーは最終組、最終滑走。

 その直前の五番滑走が、ショート第一位、アンドレイ・ヴォルコフだった。



 *



 練習リンクからホテルに戻ってくると、丁度SPが終わった雅と顔を合わせる。


「お疲れ」


 競技の前半を終えた選手に対して、何の考えもなくねぎらいの言葉が出てきた。


「あー、てっちゃん。足、平気?」


 ……堤先生は後でお礼しときなよと言っていたが。


「お前に心配されるほどじゃないから。気にするな」


 雅に心配されるのは心外、なのではなく、もう少し自分の事を考えてほしかった。

 大体、平気、と聞きながら本人の顔色が悪い。……否、顔色が悪いのではなくて、暗い。体調には問題はなさそうだから、きっと心情的な何かだ。


「……どうしたんだ?」


 雅のこういった、沈んでいる顔が珍しかったもので、つい聞いてしまった。何でもない、とは多分言わない。嘘をついたらすぐにバレるやつだとも知っている。


「……なんか、皆の演技見て、もしかすると私は別に大したことはないって思えてきて。その、なんていうか、自信無くしそうで」


 だんだんと声が小さくなる。そんな雅の滑りを思い出す。そして、俺がトリプルアクセルの取得に苦労していた時、彼女の豪快なアクセルを参考にしたことは死ぬまで隠しておこうと決めた。自分で気が付いて自覚するべきだからだ。少なくとも小学生の時点で5種類のトリプルが飛べる選手は、平凡とは言わないのではなかろうか。勿論、そんなことは言ってやらない。大体雅が井の中の蛙だったら、大多数の女子選手の望みはなくなってしまう。

 ショートで彼女の前に立ったのは、その望みが消えないスケーターだったというだけだ。


 ――自分のSPが終わった後、残って最終滑走まで見ていたようだ。聞かされたのは、男子以上に意外な結果だった。


 3位にベラルーシのエフゲーニャ・リピンスカヤ。体操選手顔負けの柔軟性を生かしたスピンや、重力を感じさせない軽やかなスケーティングが持ち味の選手。反してジャンプはあまり得意ではないようだが、調子のいい時は3回転+3回転のコンビネーションも見せる。


 そして2位が……なんとフランスのマリーアンヌ・ディデュエール。


 マリーアンヌのスケートの特徴といえば。豪速なスケーティング。レベル4を獲得できる繊細でキレのあるステップと、安定したジャンプ。そして、何よりもその失敗の無さだ。次滑走だからその演技を雅は見てしまったらしい。


 アルゼンチンのタンゴ音楽の革命者、アストル・ピアソラの『リベルタンゴ』に合わせてのショート。1シーズンに一人は必ず使うほど好まれている楽曲だ。フリップ+トウは完璧な着氷。嫌いなジャンプだというルッツも、本番ではきっちりと決めてくる。タンゴのリズムに合わせてのステップは……見るのが嫌になったのだという。ジュニア離れした色気、しかし色っぽくもいやらしいものにさせない魅力を、存分に表現点につなげていたようだ。


 そのマリーアンヌを僅か1.34点上回ったのが、安川杏奈だ。


これには本人も驚きだっただろう。何せ、GPシリーズで初戦も第二戦も彼女とあたり、ファイナルでも顔を合わせた。その度に、表彰台の中央に乗るのがマリーアンヌだったのだ。彼女はその隣に立っていた。俺の覚えでは、SPでも杏奈は、マリーアンヌに勝ってはいない。

 名古屋を拠点に練習を続ける彼女とは俺もそれなりに親交がある。ジャンプ指導に定評がある、門田春奈コーチに師事している。俺と同じ、中学3年。

 ビールマンまでこなす柔軟性に、長い手足を生かした優雅な演技が持ち味……と思いきや、案外アグレッシブな、スケールの大きい滑りを見せる。ポテンシャルは相当なものだ。


「凄かったよ。全日本の時より全然いい」


 冒頭で決めたのは、トリプルフリップからの3回転+3回転。――それも、セカンドはループだ。全日本ではセカンドジャンプがトウループだったので、ワンステップ上のジャンプが出来るようになったのだろう。

 だが雅が言うには、ジャンプの難易度よりも雰囲気ががらりと変わっていたらしい。


 彼女の今季SPは、N(ニコール)・キッドマン主演の映画『ムーラン・ルージュ』のサウンドトラックから、『ボレロ』。


 元々杏奈が好んでいたのはクラシックの情緒あふれる曲だが、このシーズンは少し挑戦してきた。無機質で単調な音楽だが、後半はロシア民謡のようにテンポアップしていく。単調からドラマティックへと変貌していく様を、どう表現していくかがカギになる曲だ。


 表現面で特に評価されたのは、音楽と動きの同調性。プログラムコンポーネンツにおける5項目目の『interpretation(音楽の解釈)』で採点される。普通のジュニア選手ではあまり、点の上がらない項目だ。

杏奈もシーズンの序盤は相当苦労していたが、全日本の時は見違えるほどよくなっていた。……つまり、その全日本以上に見事に滑りこなしていたようだ。


 ちなみにスウェーデンの友人のレベッカ・ジョンソンは6位だった。コンボのセカンドが2回転になったのみのミスらしいが、こういうところが大きく響いてくるのがショートプログラムだ。……最終組から漏れなかったのはさすがというべきか。深くて切り替えの早いエッジワークに、とにかく彼女はスピンがうまい。それで点を稼げたのだろう。


「じゃあ、雅は何位だったんだ?」


 8位、と苦々しく答えた。……まぁ、演技内容には不満はないようだ。

 自分の演技には納得はしている。不調なりによく滑れた。周りはさらに強かっただけの話だろう。俺も本人の不調を考えてもこのぐらいの順位だろうと思う。……もしミスがなかったら、最終グループに入れただろうか。本人もそれを考えてしまっているのか。

 聞けば、3回転+3回転も、単独のルッツもきれいに決めたようだ。癌はやはり不調のアクセルで、これさえ決めれば最終組に入ったかもしれない。


「でも、自分なりに出来たっていうのと、周りの実力や順位は違うんだね」


 ひとしきり話した後のつぶやきは、決して軽くはなかった。

 国内のジュニアで、雅が勝てないのは杏奈だけだった。こういってしまっては失礼だが、大多数が勝てる相手だったのだ。だから雅は、杏奈に追いつくことだけを目標にしていた。

 俺は2回目だが、雅にとっては初めての世界ジュニアだ。ここで初めて、彼女は実感したのだろう。

 はじめての本当の大舞台で、自分の実力と与えられる真の評価とのギャップ。そしてそれが、不当ではなく正当な評価であること。

 得意なジャンプが不調な不可解さに、スポーツでは禁物のタラレバを考えてしまった事。自分の今できることには納得しつつ、上には上がいることの充実さ。

 ……すべてに納得はできるけれど、湧き出るくやしさまでは抑えきれないのだろう。

 だったら。


「いい経験したっていうことじゃ駄目なのか?」

「経験?」


 雅が暗い顔を上げる。


「大きい大会に初めて出て、周りのレベルの高い演技を見るのも初めてだったんだろ。……自分の今のレベルだけじゃなくて。周りの技を見て感じた事とか、何か考えたことだってあるんじゃないのか?」

「うん。レベッカは、スケートが綺麗だったし、スパイラルに迫力があったよ。中国の選手がすごかった。初めて見たんだけど、イーグルから直でダブルアクセル飛んじゃうんだよ。……不調でもジャッジの目の前で決められたっていうのは、嬉しかった。……やっぱりディデュエールも杏奈も、凄くよかった。競技と練習じゃ全く違うよ」


 話す雅の口調が、熱を帯びていく。自分の未熟さを嘆くだけではなく、自分に足りないことを確かめたり、周りを認めることだって大事だ。

あと、と続ける。


「何かさ、私はてっちゃんは勝負にこだわり過ぎているって思ってたけど、今なら何となくわかるよ」


 家の近くにスケートリンクがあり、スケートをすることは遊びだった。

 ただ滑るだけの遊びから、競技を選んだ。

 そして、スケーターの両親から手ほどきを受けている。


「やっぱり出るからには、てっぺんを獲りたい」


 勝負に対する欲。雅にはあまりなかったもので……俺にとっては癌にもなりうるもの。

 だが、自らの欲も含めて、目標に達するまでの過程だってスポーツなのではないか。少なくとも俺はそう考えている。


「大体、今から暗い顔するもんじゃないさ。その分伸び白があるってことだから」


 その過程は実際に競技を行っている時間よりもはるかに長い。――だから俺たちは今よりももっと強くなれるはずだ。

 俺の言葉に、大きく雅はうなずいた。

 それから俺は、不調だという雅のジャンプに関して不可解さを感じていた。


「そういえば話変わるんだけど。何でアクセルが不調なんだ?」


 アクセルだけが不調。他のジャンプは大丈夫らしい。


「それがやっぱり分からなくて。ただスピードが無いと転倒しちゃうから。今のままの方がいいのかも。……何か今までみたいに滑ってたら、回転し過ぎちゃうみたいで」

「回転し過ぎ?」


 余り聞かない話だ。回転不足ではなく、回転長多ということか? それも普通に滑っていて? 失敗しないようにスピードを殺すと転倒。だったら、普通よりも速く滑って、あの大きいジャンプを跳んでいたら?


 俺の頭に、雅のジャンプに対して、ハイリスクな、だが大きな一つの可能性が生まれていた。


 ……自分の怪我、置かれている状態、暗い予感等を棚に上げて、俺は一体何を考えているんだか。雅に対して、人の事いえないな、と心の底から思った。




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