33.サイドバイサイドからデススパイラル、からその先へ【2017年 四大陸選手権 ⑦】
四大陸選手権、終了。
男子シングルは神原出雲が、女子シングルは安川杏奈が優勝した。ついでに私は二位に入り、日本勢は好成績を残した。
男子シングルは午前中に競技が終わり、夕方からエキシビションが始まる。今は、エキシビの前の練習時間だ。
リンクは意外に閑散としている。練習しているのは、女子シングルでは、私の他は、ステイシーと杏奈ぐらい。さらに言えば、ほんの三時間前まで競技があったからか、男子シングルの選手の姿は見受けられない。
「ミヤビ」
……ダヴィデ像の顔を持つカナダ代表選手を除けば。
「アーサー」
人がまばらなリンクに、美貌の青年がやってくる。違う違う、と人差し指を私の唇に押し付ける。他の人がやったらドン引きするけど、アーサーがやっても嫌味にならない。こういう仕草がモテる理由なんだろうか。
「アーチャ兄さん、でしょ」
そうだった。
「疲れてないの? さっきまで競技だったでしょ?」
「そうなんだけど、ちょっとカッコ悪くてさあ。今季はなんか冴えない演技多くってさ、今日も優勝行けるかなーって思ってたら、フリーで結構失敗しちゃったから。気分転換にエキシでも滑んないとやってらんないよ」
「フリーで失敗したのは、昨日の夜調子に乗って食べすぎたって聞いたんだけど」
「誰から聞いた、それ」
「ステイシーから」
アーサーが顔を顰めた。ゲラゲラ笑ってたよ、とは伝えない。流石に傷つくだろう。彼らの間では日常なのかもしれないけど。
ステイシーめ、余計なことを言ってとぶつぶつ呟く。
「結構、かっこよかったと思うけど」
「え?」
アーサーが虚をつかれた声を出す。
「兄さんの怪人、狂気と愛情の狭間って感じで、私は好き」
私が読み取るアーサーの『オペラ座の怪人』は、醜い仮面を被った怪人の愛と苦悩の物語だ。恋によって生まれる狂気を、歌姫の愛が内包する。
原作の『オペラ座の怪人』で、怪人の恋が実ることはない。スケートならでは、アーサーならではの物語だ。
一瞬目を見開いたのち、優しくアーサーが微笑んだ。
「なら、そう言ってくれる妹のために、世界選手権で完璧に滑んないとね」
この切り替えの速さは見習うべきではないかと思った。
エキシビションは変わらず今期作った『ICO』を滑る。全日本のエキシビション以来一ヶ月ぶりだ。杏奈はこの大会では『月の光』を滑るらしい。レイバックスピンの練習をしていた。練習を始めないとな、と思っていた時だった。
「そうだミヤビ、一緒に飛んでみない?」
アーサーから一つの提案をされたのは。
「え?」
今度は私が驚く番だった。
「サイドバイサイドで、タイミングを合わせて、とりあえずダブルアクセル」
同じタイミングで飛ぶってことか?
「なんで急に?」
「いや、昨日一昨日と雅のジャンプ見てたら、俺に似ているような気がして。一緒に飛べたらすごいなと思ってさ。俺の気分転換に付き合ってくれたら嬉しい」
「じゃあ、かるーく」
午前中の男子シングルは関係者席で観戦した。体調不良のアーサーは、割と冴えない演技で、せっかくのショート二位から順位を落としてしまった。本領発揮できなかったものをまず発散したいのかもしれない。前向きになったら、三つカウントして踏み切るよ、と事前に軽く打ち合わせ。
一緒に滑り出し、同じタイミングでバッククロス。……うわ、速いな。負けじと私もスピードを出す。ステイシーを横を通り過ぎ、同じタイミングで前向きになり、いち、にの、さん!
「おお!」
同時に着地して、驚く。離氷も滞空時間も着氷もほぼ同じだった。
意外にアーサーのタイミングは飛びやすい。私とジャンプの質が似ているからだろうか。
大いに喜び合い、ハイタッチをする。
「もっと大きくいけるんじゃない? トリプルでやってみない?」
「いやー、それは危険だよ。人も増えてきたし」
アーサーの提案を、やんわりと退ける。見返すと、優勝したカナダのアイスダンスカップルや、休憩を終えたジェイミーがウォームアップを始めていた。この場で二人でトリプルアクセルを同時に飛ぶのは危険だ。
次のアーサーの提案は、私が全く想像していなかったものだった。
「じゃ、次はデススパイラルやってみない?」
……男性が女性をコンパスのように振り回す、ペアならではの技。
真顔で何度か瞬きをする。
「なんで?」
やってみたら面白そうだから、とアーサーは微笑む。
そうかな?
「私、女子シングルの選手なんだけど」
「知ってる。でも、いけるよ、いける。絶対」
「その根拠は」
「直感」
……ペアって、直感でできるもんじゃないと思うんだけど。
「っていうと信用してもらえないから正直にいうけど、ミヤビはカップル競技の才能もあると思うよ。小柄だし、あんまり太りやすくもないでしょ? それは、男性側にとって負担が少ないんだよ。あと、トリプルアクセル飛べるってことは、スピードや高さに対する恐怖があんまりないってことでしょ。前向きに飛ぶってまず怖いから。これは俺の持論だけど、ペアで何よりも必要なのは、恐怖心を信頼と力に変えることだよ」
身長は154センチで止まった気がする。太りにくいというよりも、食生活を徹底的に管理している母がいるからベスト体重を保っている。
怖さを克服し、力にする。
母がカップル競技の選手だったから、と言っていたら信用していなかっただろう。
私が彼の滑りを見てペアで実力を発揮しそうだな、と感じたことを、アーサーも右に同じの気持ちで見ていたのかもしれない。
……結果、やったことのないことに挑戦する好奇心が勝った。
「どうしたの?」
デススパイラルは、男性と女性が手を繋いで成り立つ技だ。
私はアーサーの手をまじまじと見つめてしまった。
氷上で私の手を取ってくれた優しい手。その人とは全く違う手を差し出されて、私は一瞬だけたじろいだ。ものすごく、何かを裏切っている気がした。
でも……。
「なんでもない。じゃあ、やってみよう。やり方を教えて」
湧き上がった苦々しさを振り払った。
裏切りじゃない。これはただの挑戦。
私は、アーサーの分厚くて大きい手を取った。
その手は、これから私が行うことに対して、最高に適したものだった。
やり方は確認した。まずは手を繋いだまま滑って、アーサーのスピードに慣れることにする。
「もう少しスピード上げてもいいよ」
本気で滑ってない。多分、私に気を遣っていつもよりスピードを落としている。
「いいの?」
しっかりと頷く。オーケー、と言ってアーサーの太ももが一気に力が入る。ひと蹴りが大きくなる。ギアチェンジ。そんな単語が当てはまる。
「うわ!」
ギュン、と目の前に流れる景色の速さが変わった。国道を走っていた車が、高速道路を走行しているような。こんなに早く滑れるのか、アーサーは。
アーサーの目がおもしろそうに光る。私も同じ顔をしている。
なんだろう。ワクワクする。
杏奈とステイシーが何事かと私を見つめる。いきなり私がペアの真似事を始めたから訝しんでいるに違いない。
「屈むよ。ゆっくり、二回回ってみる」
スピードに慣れたところで、アーサーが姿勢を落としてピポット。
目線が斜めになり、ぐっと低くなる。左足のアウトサイドエッジを傾ける。繋いだ私たちの手が真っ直ぐ伸び、アーサーの腕が私を振り回す。鉛筆が私で、コンパスの針がアーサー。氷は目の前。ハイドロと似ている。違うのは、誰かの力を借りてることだ。
エッジが、普段とは違う角度で傾いている。
遊園地になかったっけ? こういうやつ。
徐々にスピードが落ちて、アーサーに弓形になった状態で引き上げられる。
あれ、これで終わり? と思っていたらアーサーの顔が横にある。
なんだろう、物足りない。
「もう一回やってみない? 今度はさっきより早く回して」
「言うと思った。じゃあ、もう一度」
口の端を吊り上げて笑う。
スピードに慣れてきた。さっきよりも余裕が出てきたから、アーサーのスケーティングをじっくり観察できる。アーサーの足には、高精度のエンジンが付いているみたいだ。自身のスケーティングをじっくりと表現するタイプではない。大きくて実用的。しかし雑味は感じられない。
さっきと同じように、さっきよりも速いスピードでデススパイラルに入る。私は足をピンと伸ばした状態で、アーサーが強く振り回す。鼻先が、氷につきそうだった。氷上から立ち昇ってくる冷気を顔に浴びる。何これ、近すぎる!
デススパイラルを終えると、周りから拍手が起こった。
前髪についた氷の屑を手で払う。
私はペアのトレーニングを積んだことがない。
それでも、周りが感心する程度の出来にはなったみたいだ。
「やばい、面白い。ペアってこんなに楽しかったのか」
アーサーの顔が蒸気している。初めて知ったみたいな口ぶりにちょっと驚いた。
アーサーの両親はペアの金メダリストだ。彼自身も、ペアに転向するかしないかの噂がちらちらと出てきている。ペアのトレーニングやってた? と尋ねたら、彼は肯定する。
「ノービスの頃は、シングルと並行してペアの大会も出てたよ。ジュニアではもうシングルだけだったけど。俺がペア選手だったこと、この場で知っているのは、パパを除けばダニーとステイシーぐらいじゃないかな」
ダニーは、アーサーが所属するトロントのスケートクラブのコーチで、日本では神原出雲の指導者として認知されている。同じクラブだからか、アーサーのコーチであり父親のウラジーミル・コランスキーと親しいようだ。
「どうしてシングルを選んだの?」
ノービスの頃のペアが、別の人と組んじゃったんだよね、と苦々しそうに昔を語った。その女の子は、ジュニアでしばらく活躍したが、怪我をして引退してしまったらしい。ジュニアの時にペアの相手を探してみたけど、相性の合うパートナーがいなかった、とも。
ということは、相性の合うパートナーがいれば、ペアを専門に滑っていたかもしれないのか。
「一回、ジュニアの時トライアウトしてくれた子に言われてさ。あなたに付いていけない、速すぎて怖い、大きすぎて怖いって。トライアウトでも俺は俺で押さえて滑っていたし、彼女は合わせられなくて辛かったんだろうね。悪いことしちゃった。それから、俺はシングル一本。パパは本当はペアに転向して欲しいみたいだけど、俺は結構シングルも好きだよ。自由にジャンプ飛べるし。だから本当に……。今、ペアで楽しい思いをした」
アーサーの演技を思い出し、彼の体格をさりげなく見渡す。
180センチの長身。均整の取れた身体。上半身と太ももが特に発達している。肩のあたりの筋肉は、女性を頭上まで持ち上げられるだろう。その身体で、難なく四回転を飛ぶ。……シングルでも十分強いが、ペアに転向してもその実力を遺憾なく発揮できるだろう。相性のいいパートナーに巡り会えば。
神様は意地悪だなと思った瞬間、アーサーがぱっと顔を明るくさせて、一つの恐ろしい提案をしてきた。
「危険かもしれないけど、リフトしてみていい?」
……リフト? 氷の上で持ち上げるあれ?
「さすがにそれはちょっと怖い」
熟練のペアでも、タイミングがずれれば大事故になる。それを、いくらアーサーにペアの練習経験があったとしても、すぐにできるものじゃないだろう。サイドバイサイドのジャンプのタイミングが合っていたのが、デススパイラルが出来たのがまず奇跡だ。私はペアの練習を積んだことがないのだし。
「んじゃあ、氷の上じゃなくて、リンクサイドで試してみていい?」
ブレードは細い。そのまま滑ったら怖すぎるけれど、陸の上ならまだ安全か?
「怖く感じたら、すぐに降ろしてね」
「勿論。怪我したら大変だし、絶対に落とさないから」
氷を降りて靴を脱ぐ。どういうリフトなら怖くないのだろう? 俺も久しぶりだから、腰と左手を持ったやつにするよ、と提案される。運動靴に履き替えて、アーサーの前に立つ。
「ちょっと際どいところ触るけど、大丈夫?」
「いいよ、兄さん」
了解したのは私だし、触るな、と言ったら、ペアにおける全ての技は出来なくなってしまう。よくよく考えなくても、ペアは、男女二人で、が、基本だ。しかも腰に手を当てたり肩が振れたりするのが当たり前。そんな競技って、ボールルームダンスとフィギュアスケートのカップル競技ぐらいじゃないだろうか。
ここをまず持つね、と私の両腰に手を当てる。
「腰をまず持ち上げて」
「うん」
「君の左手を俺の左手が持って、右手が腰を支える。で、頭の上に持ち上げる。片手だけとか、支点が一つだけより、両手でちゃんと支えた方が怖くないでしょ。あと、これはお願いなんだけど、俺は君の体を支えるけど、君も自分の体にちょっと力を入れた方がいいかな。入れすぎも強張っちゃうからダメだけど。せーので持ち上げるから」
要するに、持ち上げられる側も任せっきりはNGということだ。
ポーズ的には、釣り上げた大きいマグロを頭と尻尾の部分で持って、それを「大漁!」って言って頭上に持ち上げる感じだろうか。全てを想像して、頷く。私はマグロじゃないけど。
「じゃあ、やるよ。せーの!」
両腰にアーサーの手が添えられ、不思議な浮遊感と共に、視界が切り替わる。
私の体と顔は横向きに。アーサーの両腕が伸び切った、ものすごく危険な「高い高い」。
高い! 怖い! 頼りになるのは、アーサーの手だけ!? これが平気なペアの選手ってすごいな本当に!?
でも、アーサーの手さえあれば、シングルでは見られない景色が見える。
絶対に落とさない、という力強い言葉に勇気づけられる。
なんだろう、これ。楽しい。面白い。
降ろすよ、とアーサーの声を体の下から聞く。
すとん、と丁寧に地上に下される。
「どうだった?」
「楽しかった! やったことなかったけど、ペアって面白いんだね!」
日本ではシングルが主流で、ペアは育たない。リンクも少ないし、教える人もいない。
意外な楽しさを実感して、心臓がばくばくしている。リフトから降りるのが名残惜しかった。
「付き合ってくれてありがとう。俺もいい気分転換になった」
両手でタッチする。
三十分ぐらいアーサーと遊んでいたみたいだ。そろそろ練習に戻らないといけない。
「あれから大丈夫だった?」
……アーサーと顔を合わせたのは、パリでめちゃくちゃくだらなこと相談して以来だった。以降、LINEはしていたけど、その中で、アーサーは必要以上に踏み込まず、程よい距離を保ってくれていた。本当の兄みたいに。
この人の隣は安心する。兄のような存在だから。
「心配かけちゃってごめんね。でも、今はとりあえず大丈夫だよ。おかげでちょっとだけだけど忘れていられた」
何も解決していないし、本当は全然、大丈夫ではないのだが、今はそういうことは考えたくない。折角楽しかったのだから、そういうことは思い出したくないのだ。
問題を横に置いているだけかもしれないけど。
「もっと笑って。さっきペアをやってた時、本当にいい笑顔だったから。だから俺も楽しかったし、君は笑ったほうが可愛いよ」
今までなら、反発していたかもしれない。
今は、ただただその気遣いが嬉しかった。
「ありがとう」
そろそろ練習に戻るか、と靴を履き替える。
「なんかさっきから面白いことやってない?」
後ろから、よく知った人に声をかけられた。
「堤先生」
「ミスター・ツツミ」
マサチカでいいよ、アーサー、と堤先生は流暢な英語で伝える。テツヤは? とアーサーが尋ねると、いつも一緒なわけじゃないよ、説教したあとだし、ちょっと気まずいからね、と含みのある笑いをする。
「ダブルアクセルを飛ぶところからずっと見てたよ。面白かったけど、雅ちゃん、ペアの技初めてでしょ? 連盟の合宿だとアイスダンスはやるけど、ペアはやらないもんね。リフトとか怖くない?」
改めて聞かれると、最初は確かに怖かった。だけど……。
「怖いですけど、それ以上に面白いし、楽しい」
「へえ……。すごいじゃん、雅ちゃん」
堤先生が感心したように唸り、いいおもちゃを発見した、という顔をする。
「ならさ……」
パチン、と堤先生が指を鳴らす。
「涼子先生と君の父君を説得するから、エキシで二人で即興のプログラム、やってみない?」
さしものアーサーも真顔になる。右に、同じく。
振付師、堤昌親。
彼の長所は、アイディアが豊富で湯水のように出てくるところ。
そして短所は、その場の思いつきで何でもかんでもやってしまうところだ。ソースは私。




