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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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56/66

31.彼女たちのプライドについて(安川杏奈の場合)【2017年 四大陸選手権 ⑤】


 暫定一位。その結果を見て、私はキス&クライから腰を上げた。


 リンクサイドには、上位三名までが座れるグリーンルームというスペースがある。そこでは、ステイシーと中国の李蘇芳がリラックスした表情で座っていた。お疲れ様、と彼女たちと健闘しあい、私はステイシーの隣に座る。

 先ほどリンク上で交わした杏奈の言葉が蘇る。

 フェンスを挟んで、杏奈と門田先生が向き合う。ぶちかましてきなさい、と言う門田先生の力強い声が、ボックス席まで聞こえてきた。

 杏奈は強気な笑顔でリンク中央に向かっていく。

 最初は韓国語で、次に英語で、アナウンスが最終滑走者の名前を告げる。


 ✴︎


 ヨハン・シュトラウスⅡ世『こうもり』から『序曲』。


 オペレッタの代表格のこの作品は、父に連れられて見にいったことがある。オペラよりも笑いの要素があるオペレッタは、心踊るほど楽しかった。シュトラウスⅡ世の優雅な楽曲群も要因の一つだろう。決して短いとは言えない演目時間だが、眠くもならず飽きもせず笑いながら見ていられた。

 この曲は、コーチである門田先生ではなく、杏奈自身が選んだのだという。抽象画のような『月の光』が静なら、フリーは動。


 珍しい、という声も関係者から聞いたことがある。ノービスの時の『幻想即興曲』も、ジュニアの時の『悲創』も、美しいが陰のある短調のピアノ曲だからだ。だけど私は、珍しいともらしくないとも思わなかった。杏奈自身の魅力は確実に明るいものだからだ。


 技術。曲調。体調に体力。そして、彼女自身の本性。

 全てが揃えば、とんでもないものが見られるんじゃないか。例えば、マリーアンヌのエルサみたいに。

 そんな予感がした。

 

 華やかなオーケストラから、紫のドレスが踊る。少しコミカルな振り付け。スパンコールが輝いて、一気にトップスピードに。

 最初のジャンプは三回転ルッツ+三回転ループのコンビネーションだった。ジャンプの前にスリーターン、カウンターのステップを踏む。


 ……ジャンプの前のステップがない。


 ギリギリまでスピードを高めたまま、両足の形がハの字になる。左足のエッジから氷の屑が舞ってーーそのまま力強く飛び上がった!

 普段のサルコウと違う。杏奈のジャンプは、スケーティングと同じようにスケールが大きい。そうでなければ、コンビネーションのセカンドジャンプにループなんてつけられない。

 だけど、この離氷の力強さは、飛び上がった時の高さは、普段のそれとは桁外れだ。

 

 一回、二回、三回回ってーー降りない。回転はもう一つ!

 回転を終えた右膝が深く曲がる。フリーレッグが高く上がった。

 杏奈が吠えた。勝気な笑顔が一層輝いた。立ち上がって、私は一緒に声を上げる。

 嬉しくないはずがない。大技を着氷させた親友に、惜しみなく手を叩いた。

 

 着氷した際、歓声とどよめきの、両方の声が観客席から湧き出てくる。ローツインテールの黒髪が、巻き付くように体についてくる。

 杏奈はすでに、次のジャンプへと向かっている。スリーターン、カウンターからの三回転ルッツ+三回転ループのコンビネーション。グッと左足のアウトサイドエッジに体重が乗る。


 ワルツのテンポに乗って、切れ味よく、最高難易度のコンビネーションジャンプを決める。

 二つのジャンプを見て、蘇芳はぽっかりと口を開けて呆けている。


「やるわね」


 口笛を吹いてステイシーが感嘆の声を上げる。

 回転は怪しいかもしれない。足首が少し曲がっていたから。アンダーローテーションか、最悪ダウングレードか。ジャッジの目線は違うだろう。

 しかし、着氷の強さが、観ている私たちや観客にネガティブな印象を与えない。

 四回転サルコウの片足着氷は、それほどインパクトのあるものなのだ。

 

 ✴︎

 

 3回転ルッツ+3回転ループのを決めた後も、杏奈は絶好調だった。ジャンプに不安要素もなく、スケートも乗っている。


 ステップシークエンスは、シャンパンが弾けるように。

 技と技の繋ぎのステップでは優雅にウィンナワルツを踏む。


 スケールの大きい杏奈のスケーティングが、シュトラウスの楽曲をさらに華やかに彩っていく。

 ところどころウィンナワルツを意識したような振り付けが見受けられる。ターンはスリーターンとループ、ツイヅルがメインだ。アイスダンスの要素の一つである、三連続のシンクロナイズドツイヅルは背中をそらせながら。回転の要素の強いステップは、腕をホールドの形に保っている。ウィンナワルツはテンポが速いが、杏奈のスケートのスピードは全く負けていない。単独のルッツは連続のスリーターンから。着氷の瞬間に、再び目まぐるしくツイヅルで、それはフリーレッグを低い位置で掴んだまま。


 シャンパンの繊細な気泡が美しく煌めく。

 ワルツ王、ウィーンの太陽と謳われたシュトラウス。

 よみがえって杏奈のワルツを見たら、彼は大いに頷いてくれるだろう。


 冒頭二つの高難易度ジャンプを決めてから、杏奈の顔は変わらない。難易度の高いジャンプの成功が、自信と余裕を与えているようだった。いつもよりも、フライングキャメルスピンの高さが違う。ポジションは綺麗なままだけど、回転速度が違う。いつもよりスパイラルのフリーレッグが高い。いつもより、ダブルアクセルの幅が広い。連続三回転のコンビネーションジャンプも、リズムから外れていない。

 ワルツは本来、二人で踊るものだ。ホールドのポジションが物語っている。


 杏奈は今、一体誰と踊ってるんだろう。

 それとも、誰かに見て欲しくて華やかに踊っているのだろうか。

 

 7つのジャンプを完璧以上に決めて、最終盤の見せ場はコレオステップシークエンス。曲調が速くなり、終盤にも関わらず杏奈のスケートも勢いを増す。ステップやリズムに合わせて、自発的に観客席から手拍子が起こる。踊るたびに、スカートの裾の花が咲く。


 バレエジャンプを派手に決めた後、最後はフライングシットスピンからのコンビネーションスピン。

 結果の全てが見えた。スピンは途中だけど、観客が立ち上がって拍手を送っている。歓声が音楽をかき消してしまいそうだった。


 杏奈はスピンの中で、歓声に惑わされずにカウントをとり、リズムとの完璧な調和を保っている。右足のシットスピン。足を変えて左足のシットスピン。立ち上がって、軸足を右足で、背中を大きく反らせる。左足のフリーレッグを掴んで頭上に上げる。チューリップの花のようなビールマンスピン。ビールマンを解いて、今度は左足のビールマンスピン。両足ビールマンは、これまで四回転と同様に、フリーのプログラムに入れていなかった。

 

 ーー夏の間、ハーネスで吊り上げる形で四回転サルコウを練習していました。まだプログラムに入れられるレベルのものではありませんが、近い将来、自分の技として組み込みたいです。安定してトリプルアクセルを飛び続けている星崎選手からは良い刺激をいただいています。

 

 昨日の杏奈の会見の言葉がよみがえる。よみがえって、少し目尻が熱くなる。

 プログラムに入れられるレベルではないと言っていた杏奈が、今日のジャンプ構成に入れてきたのは、ジョアンナの言葉が原因だろう。ジョアンナの私に対する皮肉が、図らずとも杏奈のプライドにも火をつけたのかもしれない。

 プログラムに入れてやる。そして、決めてやる。

 ……もしかすると、今までも練習で何度か成功していたのかもしれない。あの着氷を見て、ふとそう思う。


 難易度の高いジャンプか。

 それともトータルパッケージが勝つか。

 そんなものは決まっている。おのおのがやるべきことをやり、その上で、難易度の高いジャンプをもち、且つ全ての技術を併せ持った選手が勝つのだ。

 今日の場合、それが安川杏奈だったのだ。

 

 大親友は、至高のワルツを踊り切った。

 

 ✴︎

 

 観客が熱狂している。

 フラワーガールが一生懸命ぬいぐるみを拾う。観客席をちらっと見ると、てっちゃんがいて、その隣の堤先生が立ち上がって惜しみなく拍手を送っている。小林君が生で見られなかったのは残念だっただろうな、と、ちょっと思う。彼は昔から、杏奈のことが大好きだから。

 息を切らした杏奈が観客に向かって手を振る。流石に疲労が隠せないらしく、一番負担がかかった右膝を労わりながら引き上げる。

 私はグリーンルームをでて、キス&クライに座る杏奈のもとに向かう。

 得点が表示される。……四回転は、多分減点されている。認定されていたら、もっと点が出てもおかしくない。それでも想像した結果は変わらない。


「杏奈!」


 私の声に、杏奈が気づく。私の顔を見るなり、杏奈は口角を釣り上げて笑った。

 私たちは硬く抱き合った。

 もし彼女の四回転着氷に、私のスケートが一役買っていたのなら。

 それはなんと喜ばしいことなのだろうか。

 

 ✴︎


 安藤美姫が最後に四回転サルコウを飛んだのは、09年グランプリファイナルだった。以来、練習している選手はいても、実際に競技に組み込んだ選手はいなかったはずだ。


 長い時を経て、一人の少女の戴冠と共に、そのジャンプが女子シングルのスコアシートによみがえった。




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