29.そのままの君でいて 【2017年 四大陸選手権 ③】
その場にいながら、ああこれは夢だ、とわかる時がある。なるべく思い出したくない出来事を追体験されている時とか。霧の中にいる時とか。夢だからいづれ現実に戻されるけど、なかなかその時が訪れなくてもどかしくなる。
手元にはペットボトルの水。無数のカメラが向けられる。
真ん中にジョアンナ。記者団から見て左側に私、右側に杏奈が座る。ショートプログラムの後の公式記者会見中である。
ーーミス・ホシザキに質問します。ハイドロブレーディングからのトリプルアクセルはとても見事でした。あれは
誰の提案でしたか?
マイクの音量を調整しながら、通訳に入った村上さんに伝える。ーーありがとうございます。実は六分練習の最後に、振付師である星崎涼子先生に提案されました。この一ヶ月、トリプルアクセルの前に何かトランジッションが入れられないかと模索していました。プログラムにも良いアクセントが付けられたのではないでしょうか。
続いての質問も、私に対してのものだった。
ーーロシアのエカテリーナ・ヴォロノワ選手がヨーロッパ選手権でトリプルアクセルを決めたことについて。
少しもやっとする。ヴォロノワ選手はこの場にいない。この記者会見は公のものとして残る。それなのに出場していない大会で話題に出されるのはどうなのだろうか。
しばし考えて答える。ーー彼女は素晴らしいジャンパーで、スケーターです。私のジャンプと彼女のジャンプはタイプが違います。彼女のジャンプは踏切が美しく、幅があります。見ていてとても勉強になりますし、彼女がトリプルアクセルを成功させて、競技者としてとても嬉しく思います。
ーーミス・クローン、そして、ミス・ヤスカワに質問します。ロシアではミス・ヴォロノワが、ニッポンではミス・ホシザキがトリプルアクセルを飛んでいます。お二人は三回転+三回転のコンビネーションを、特にミス・ヤスカワは最高難度のものをプログラムに入れていますが、それよりも難易度の高いものを練習していたりしていますか?
先に杏奈に答えが促される。杏奈の通訳は村上さんではない、日本スケート連盟の市川監督だ。
マイクの位置を調整しながら杏奈が口を開いた。ーー夏の間、ハーネスで吊り上げる形で四回転サルコウを練習していました。まだプログラムに入れられるレベルのものではありませんが、近い将来、自分の技として組み込みたいです。安定してトリプルアクセルを飛び続けている星崎選手からは良い刺激をいただいています。
杏奈の言葉が終わり、市川監督が通訳する。四回転サルコウ、という単語に記者団が沸き立つ。杏奈が四回転を飛べば、それは見栄えがするだろう。ダイナミックだし、エッジジャンプは杏奈が得意だ。決めてほしいな、と思っているうちに、金髪のディズニー・プリンセスが口を開く。
ーー私は、自分自身の三回転+三回転の難易度を上げることが一番現実的かと思っています。私は曲芸家ではありませんし、ゴム毬みたいに難度の高いジャンプを跳ぶだけがスケートではありませんので、総合的な部分を底上げしていきたいです。
赤い唇から飛び出た言葉は、私に対する皮肉が確かに混じっていた。隣の村上さんが、そして、市川監督が、目を見開いて固まっている。
その後はフリーに向けての抱負を語って終了になった。
*
ホテルの朝食はビッフェ形式だ。私の皿に盛られた料理が少ないのを見て、母が首を傾げた。
「……ご飯、進んでないわね」
「そんなことないよ」
「今日はフリーだから食べ過ぎもよくないけど、食べなさすぎるのもダメよ」
目覚めは最悪だった。昨日の会見を思い出したのもあるが、問題は記者会見後にもある。再びてっちゃんとジョアンナが話しているのを見てしまったのだ。本人たちにとっては何てことも無いけれど、それを直に見るのはきつい。ましてやとんでもない皮肉を言われた直後だ。
あれがどう記事になるかはわからない。もう少しマイルドになるかもしれないし、そもそもあれが、周りが私への皮肉と捉えたのかも定かではない。しかし……あれをいう時に、ちらっとジョアンナが私の顔を見ていた。
あのジョアンナの目線は忘れられるものではない。考えすぎかもしれないが、少しばかりの敵意と小馬鹿にしたような眼差しを向けていた。
「昨日早く帰ったけど、少しは切り替えられた?」
「うーん。まぁまぁ……」
会見が夢に出てくるようなので、精神的にはマイナスだ。しかし、言葉にするともっとマイナスの方向に振り切ってしまう。そんな思いは、母にはバレバレだったみたいだ。
「あんまり引きずっているとね、雅」
「引きずってると?」
「私の鞄の中に入っている、辛いシシトウをヤンニョムペーストとハリッサと柚子胡椒で炊いたものを口の中に入れるわよ」
「……それは嫌だ!」
鞄から緑色のサムシングを取り出す。本当にあってビビる。なんでそんな激物を持ち込んでいるんだ、母は。
微笑む母の本気を受け取り、持ってきたものを口に詰め込み、早めに切り上げて部屋に戻る。うまく切り替えられていないが、今日が勝負の日だ。
「星崎さん」
公式練習の後、廊下で更衣室に向かっている途中に、市川監督が近寄ってくる。
「昨日はお疲れ様。調子はどう?」
「ありがとうございます。……悪くはない、と思います」
「公式練習見ていたわ。確かに悪くはないけど、大丈夫だった?」
一瞬、なんのことかわからなかったが、すぐに合点が入った。ジョアンナ・クローンがまた正面から突っ込んで来たのだ。
「大丈夫です、咄嗟に避けましたので」
「よかった。昨日のクローン選手の発言は驚いたわ。まさか三十年経ってもそんなこと言う選手がいるなんてね」
ダーウィンの進化論でも説いてやろうかしら、と市川監督が苦々しく笑う。
「でも星崎さんもそこで、『美人は特よね』とか思っちゃダメよ。昨日のクローン選手の演技は素晴らしかったけれど、あなたはあなたの演技が認められて二位になったんだから。それはジャンプだけじゃない。恥じることは何もないの。……それに、まだフリーが残っているからね」
「はい」
期待しているわ、と言い残して去っていった。
「徹底して実力主義。でもジャンプ至上主義じゃなければ、表現至上主義じゃないのが良いわよね。私は嫌いじゃないわ」
変わらないわね先輩は、と後ろに控えていた母が呟く。
市川美佳。日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長。アイスダンス出身で、母の一世代上で活躍していたらしい。スケーティングに対して厳格で、高難易度のジャンプに理解を示している。カップル競技の選手育成や普及にも熱心だ。
そんな彼女は、母の言う通り徹底した実力主義者だ。ジャンプが得意でもスケーティングがおざなりの選手に「コンパルをイチからやり直せ」と言ったり、逆にジャンプが苦手な選手に対しては「演技力があっても飛べなきゃ意味がない。顔を動かすよりルッツの練習をしろ」と練習を促したりしていた。
監督という立場から発言力も決定権もある。彼女の一言で世界選手権の代表が覆ったなんていう噂も多い。見込んだ選手をとことん氷上に送り出す。敵も批判も多いが、それも承知なのだろう。
一度ホテルに戻るには時間がないから、関係者席から別の競技を観戦する。氷上ではアイスダンスのフリーダンスが行われていた。今滑っているのは日本のカップルだ。小倉奈々、神月ヒカル組。ソチ五輪にも出場した日本代表の大先輩の二人は、リアルでも恋人同士だ。
二人が滑っているのは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』。母の作品である。振付を担当したからか、母は彼らの指導者の林田総士とともに、リンクサイドで演技を見つめている。長身で端正な顔立ちの神月さんはどこを切り取っても美男子だし、アイスダンサーにしては小柄でほっそりとした小倉さんははんなりとした京風の美女だ。
ユダヤの王女サロメが、自分を蔑んだ預言者ヨカナーンの首を無邪気に欲しがる。そして最後には本当にヨカナーンの首を切り落として、銀の皿に乗せて自分のものにする。オペラの「サロメ」は、そんなストーリーになっている。この場合、ヨカナーンが神月さん、サロメが小倉さんだろうか。
……最後までスピードが落ちずに、サロメがヨカナーンの首に口づけをして、神月組のフリーダンスが終わる。
その後の演技を見ながら、競技会で実際に好きな人と滑る、というのはどういう気持ちなのだろうと考えた。公私ともにパートナーのカップルも少なくないと聞く。信頼が勝つのだろうか。神月組のコーチの林田総士は母の元パートナーだ。そう考えると、母はどうして林田先生ではなく父を選んだのだろうか。
初めて滑った手を私は忘れていない。躊躇わずに私の手を取って、真っ直ぐに滑ってくれた。あの時から私のスケート人生は始まった。でも、二度とてっちゃんは私の手を取ることはない。
私は目を瞑って首を軽く振った。……余計なことを考えちゃダメだ。それにこれじゃ、私がてっちゃんのことを特別に好きみたいじゃないか。
気持ちを横に逸らして席を立つ。アイスダンスは最終滑走者のカナダカップルの演技が始まろうとしていた。女子は次だ。
演技が始まる前に立ち上がり、キャリーを引きながら私は更衣室に向かう。公式練習が終わった後、邪魔になるので一旦引き上げて手元に置いていたのだ。
甲高い悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。
……何? この声。ものすごく近い。周りを見回して声の主を探る。周りには誰もいない。今はカナダカップルの競技中で、関係者をはじめ大体の人は観客席か会場にいる。更衣室は地下1階。私がいるのは、1階の関係者用の廊下。ちょうど階段が近い。
周りに人がいない。ということは、階段下からだろうか。嫌な予感を覚えて、階段の方に目を向ける。
思わず息を呑んだ。
トラス階段式の階段。その踊り場に、金髪のディズニー・プリンセスが右足首を押さえて蹲っていた。
「ミス・クローン!」
倒れている相手。すなわち、女子シングルのアメリカ代表、ジョアンナ・クローンだ。
私は苦手な相手に駆け寄った。怪我して苦しんでいる姿から、彼女に対する嫌な映像や、近寄ることへの躊躇いはなかった。競技が始まる前なのにこれは一大事だ。
「ちょっと大丈夫?」
声を掛けるが顔を歪めたまま返答がない。
細い指が私の手を振り払おうとする。私はその手を無視して、右足の靴と靴下を脱がした。白い足の甲、桃色の爪に、真っ赤に腫れ上がった足首が顕になる。これはちょっとやばい。
彼女の荷物は何もなかった。USAのジャージ姿。ウォームアップ中だったのか、それとも、手ぶらでアイスダンスを観戦していたのだろうか。
私はキャリーを開き、応急処置セットを取り出した。こういう時のために、応急処置を母から多少教わっていた。いつも誰かがいるとは限らない。大会の時に怪我や古傷が腫れ上がることもあるから、応急処置用の救急セットを持っていたのだ。取り出すのは湿布。それから冷却スプレーと、テーピングテープ。
患部にスプレーをひとかけすると、ジョアンナの青い瞳が私を鋭く睨んでくる。私の手助けはいらない、と言っている。
「何。文句を言うなら後にしてよ。嫌ならそのままにしておくけど」
……使用言語が日本語になる。もちろん、そのままにはしておかない。スプレーを当てた後は湿布を貼る。土踏まずを起点にテーピングをしていると、ロックバンドのギタリストのような外見の男性がやってきた。
「ジョー、どうしたんだ!」
ジョアンナ・クローンのコーチ。堤昌親の元師匠の、リチャード・デイヴィス。
「ミス・ホシザキ。これは一体どう言うことなんだ?」
当然ながら、デイヴィスコーチが説明を求めてくる。確かに、自分の受け持った生徒が怪我をして、ライバル選手が処置していたら、誰だって何事かと思うか。嘘を伝えてもどうしようもないので正直に話す。
「廊下を歩いていたら、悲鳴が聞こえたんです。聞こえた方に行ったら、踊り場で彼女が足首を押さえてうずくまっていました。失礼を承知で触れたら、腫れ上がっていて」
そのままにもしておけず応急処置をしました、でも不完全だし素人だから、チームドクターにちゃんと見せてもらったほうがいいですと伝えた。デイヴィスコーチが驚きからわずかに目を見開いた。
「君が?」
「はい」
デイヴィスコーチが意外そうに私を見返す。そして口元を綻ばせて、私に頭を下げた。
「わかった、すぐにドクターに診せる。ありがとう。ジョー、立てる?」
デイヴィスコーチがジョアンナの手を取って起き上がらせ、肩を貸す。その間も、青い瞳は私を睨みっぱなしだった。デイヴィスコーチに支えられながら、右足に負担をかけないよう引きずって歩いていった。
*
女子シングルショートプログラム一位 ジョアンナ・クローン棄権
アイスダンスの表彰式中に、その知らせが届いた。
*
デイヴィスコーチが私の元にやってきたのは、女子シングルの第一グループの途中だった。アイスダンスのケアから戻ってきた母と合流し、廊下でウォームアップをしていた時だ。
「先ほどはありがとう。失礼を承知で聞くけれど、周りに誰かいた? 彼女が言うには、誰かに突き飛ばされた感覚があったらしいけど」
周りには人気はなかった。おそらく彼女は、歩いていて階段を踏み外したのだ。競技前なのに、不運だ。
「いいえ。私しかいなくて。なので、デイヴィスコーチがすぐに来てくれて助かりました」
「……君はジョーのことが嫌いだと思っていたが」
ジョー? ……ああ、ジョアンナの愛称か。
「怪我したら、そういうことは関係ないと思います。もし逆の立場なら、彼女も同じことをするんじゃないですか?」
私はジョアンナが嫌いなのだろうか。苦手なのは認めるし、たまに嫌な気持ちになる。でも、演技で失敗して欲しいとか、怪我をしてよかったなんて、思えるはずがない。
それに、私を振り払おうとした手は、私の大事な人が取ったものだ。私の気持ちは関係ない。てっちゃんが大事にしたものなら、苦しくても、決して粗末にしては駄目だ。……もちろんこれは言わなかったけれど。
「そうか。……なら、気にしないでくれ。嫌な質問をしてしまった」
悪かった、と謝まられる。デイヴィスコーチが謝るなんて、変な話だ。
「彼女の様子はどうなんですか?」
「捻挫の割には酷い。君の処置が遅かったら、もう少しひどく腫れ上がっていたかもしれない。本当にありがとう」
フリーも頑張ってと言って、デイヴィスコーチは去っていた。
「……何があったかわからないけど、雅」
母には、踊り場での出来事を話してない。そして後ろで控えていた母は、私とデイヴィスコーチのやりとりを見守るだけで口を挟まなかった。話が終わった後、母は壁から背中を離して、私に手を伸ばしーー
「な、何? どうしたの母さん!」
背中に手を回されて、母の体に引き寄せられる。胸に感じる柔らかい感触。何この状況。なんで私、今母に抱きしめられてるんだ?!
「私はあなたが誇らしいわ。あなたは、あなたが思っている以上に強いのよ。だから、先輩が言うように、あなたは何も恥じることはないし、そのままでいいの」
「わかった。わかったから、母さん!」
「んー? ちょっと親子の愛情を確かめてるだけなのにー? 何か問題でもー?」
「苦しい……」
流石に恥ずかしい。肩越しに、杏奈が足を止めて、何事かと私と母を凝視しているのがわかった。ステイシーといい、母さんといい、ハグする力が強すぎる。パッと音が立つように、母が手を離した。思わずつんのめる。そんな私を、にこやかな瞳で見つめ……。
「ま、このままウォームアップ進めましょ。変な演技をしたら、バジルペースト入りのカニ味噌を直に口に突っ込むからね」
「それも持ってきてたの?!」
悪魔のような言葉を吐いた。
もちろんよ、といいながら、母が鞄から小さい瓶詰めを取り出す。グロテスクな色のペーストの存在にびっくりしながら、気が抜けて笑う。
最終グループが近くなってきていた。




