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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017
44/66

19.モスクワの茶話会【前編】

「おめでとう鮎川くん。初めてのファイナル出場ね」


 ……そう言ってくれたのは、スケート連盟の市川監督だ。50代前半の痩身の女性。姿勢がよくて、パンツスーツがよく似合う。海外ドラマの有能な弁護士のような監督は、バンケットの会場で供されたシャンパンを片手に、ものすごく機嫌がいい。


 今大会の男子シングルは、優勝は誰もが想像したであろう通り、地元のアンドレイ・ヴォルコフ。三位は、同じくロシアのキリル・ニキーチン。8月に27歳になったベテランが意地を見せた。

 GPシリーズ第5戦、ロシア大会。開催はモスクワのメガスポルトアリーナ。シリーズで成績が上位六人しか出場できないグランプリファイナル行きを決める戦いの終盤戦。


 今大会まででファイナル出場が決まっているのは、まずはチャン・ロン。スケートアメリカ、フランス大会の二大会で優勝。次に、スケートアメリカ三位で、中国大会で二位だったジェイミー・アーランドソン。今大会で優勝したアンドレイ・ヴォルコフは、中国大会でも優勝していたため、チャン・ロンと同様に文句なしにファイナル確定。


 そして、俺。スケートアメリカと同じく、今大会を二位で大会を終えたからだ。


 残りの二枠は、最終戦の日本大会次第だが、スケートカナダで優勝した神原出雲は固いとされている。フランス大会で四位に入ったフィリップ・ミルナーにも、最終戦次第でまだ可能性はある。


「ただまあ、あんまり浮かれてもいられないわね。優勝したヴォルコフと30点以上点差をつけられちゃったし」

「そうですねー。俺も、もう少しできると思ったんだけど。特にフリー」


 堤先生と市川監督の言葉がぐさっと心に突き刺さる。30点以上の差。もう少しできると思った。……全て事実なので、何も返せない。


「でもまぁ、ヴォルコフが良すぎたのよ。……ショーのときでも思ったけれど、あんなプログラムを持ってくるとは思わなかったわ」


 ヴォルコフのフリープログラムの初公開は、6月の新潟でのアイスショーだった。後に杏奈や雅に様子を聞いた時、二人は口を揃えて言っていた。「言葉に表せない」「凄すぎる」と。そのプログラムは動画で確認済みだったが、実際に見ると迫力が段違いだった。実物を見ると……怖気が立つほど繊細で、美しく、かつ……。

 神の言葉を滑ったかのようなプログラムだった。


「でも贔屓じゃなく言わせてもらうと、あなたのプログラムもヴォルコフのものに負けていないと思うわ。ジャンプ面はもう少し。四回転はループだけじゃなくてトウループの成功率も上がるといいわね。堤君、しっかり指導してね。日本は神原だけじゃないって知らしめなきゃ」

「はいさー」


 堤先生の能天気な返答を聞いて、市川監督はヒールを鳴らして俺たちから離れていった。ジャッジに挨拶するようで、男子のテクニカルジャッジを務めた大澤さんの周辺に向かっている。もちろん、情報収集をすることを忘れない。


「だってさ哲也。しっかり指導してっていわれちゃったよ」


 それには不満はない。技術面、演技面でも大分指導して頂いている。

 問題は俺にある。


「……フリー、この間のスケートアメリカで、富士山でいえば四合目ぐらいって言ってましたよね」

「言ったね」

「……今日の出来は何合目ですか」


 堤先生が右指を4本立てた。……つまり、進歩なし。


「ジャンプ以外も少し足踏みしている感じがするね。動きがどこの音に合わせるべきか、迷ってる感じ。旋律の蟒蛇を掬いとるなとは言ったけど、今回は気がそぞろで動きが全体的にちぐはぐしてる。だから、パフォーマンスと音楽解釈が7点台。この一ヶ月は試行錯誤をするだけして、その結果が少し出てないかな」


 正直俺も、よく二位に入れたものだと思っている。スケートアメリカではショートもフリーも、ベストの出来ではないがその時なりに纏められ、それが反映された結果になった。

 今回はショートの出来に救われた形になった。ノーミスのショートに対し、フリーでは四回転ループはステップアウト。トウループはパンクして三回転に。他にもステップがレベル3の加点がイマイチだったり、表現面以外でもそれなりにやらかしてしまった。


 一方のヴォルコフは。


 PCSでずらりと並ぶ9点台。のっけから重力を感じさせないほど軽く飛ぶ、四回転ルッツ+三回転ループのコンビネーション。密度の濃いプログラムを、無理を感じさせずに滑り切っていた。差を見せつけられた気分になる。


「だからまぁ、ファイナル決められてよかったよ。連戦になっちゃうけど、これで少しは演技調整できる。練習はしっかりやるけど、休む時はしっかり休んで調整していこうかね。……で、哲也」

「なんですか」

「最近君、どうしたの」

「どうって……どうもしてませんよ」


 1週間の大半の時間は練習に費やしている。学校で授業もそこそこ受けつつ、練習漬けの毎日を送っている……と思うのだが。


「いや、練習は問題ないよ。問題はさあ、それ以外の生活面。スケートアメリカから今日まで、ちょっと気が抜けすぎ。夕飯手伝ってくれるのは大変ありがたいんだけど、砂糖と塩を間違えるわ、気分転換で散歩に行ったまま帰ってこないと思いきや、ベランダでずっと黄昏てるわ、こないだの中間テストで得意なはずの古典が赤点スレスレだったり、洗濯物畳んでくれるのはいいんだけど、俺のところに自分の下着を入れるわ。俺、はいちゃったじゃん、君の下着」


 俺は目が点になった。この人今何て言った?


「……今、なんて言いました?」

「脱衣場の下着入れに、俺のところに君の下着があった。はいたらさ、なんか小さいなーと思った。よく見たら君のじゃん。びっくり」

「はく前に気付け! 大体、サイズが違うだろ!」

「あー、うん違うね。包むもののサイズが違うもんね。そりゃごめん」


 確かに間違えて入れてしまった俺にも非はある。しかし、恥と怒りで声が出てこないというのはこういうことを言うのか。俺は今、新手のセクハラにあっているのではないか。大体そういうの、公の場で堂々と言うようなことでもないだろうがよ。日本語だからいいっていう問題ではない。


「哲也」

「……なんですか」


 ようやく絞り出した俺に、先生はとびきりの笑顔を見せて、こう言った。


「怒った顔も可愛いよ」

「俺は今! 真面目に怒ってるんだ!」


 なんで試合直後のバンケットでこんな話してるんだ。馬鹿か。馬鹿なのか。この人は。


「まぁ、そう言う冗談はともかくとして。休みの時は多少腑抜けでも問題はないから。問題は私生活の腑抜けっぷりを練習に持ち込まないでね。理由は聞かないでおいてあげるから。なかなかオツだったよー? やたらとしょっぱいカレイの煮付けが」


 何も言い返せずに押し黙る。

 白い歯を見せて含みのある笑みを向けてくる堤先生が、大変憎たらしい時がある。何も言っていないのに、腹の中身をしっかりと知られているようで。


 砂糖と塩を間違える。散歩に行ったまま帰ってこない。ベランダでずっと黄昏ている。古典が赤点スレスレ。全部身に覚えがある。そして、ある人のことを考えている時が大体だ。古典のテストは源氏物語の夕顔の章だった。愛した女性が怨霊の嫉妬で殺される。しばらく試験問題を茫然と眺め、気がついたら一問も解いていないのに残り時間が10分になっていた。


 ふとした瞬間にちらちらと浮かぶのは。

 痛みに耐えたこぼれそうなほど大きな瞳。無理して作った、苦しい笑顔。震えるほど弱々しい声。手には、わずかな痛みが残ってしまっている。


 そう、何もない。あれは何もなかったのだ。何も感じなかった。

 ……スケートアメリカからの帰国する日。雅に手を振り払われたことなんて、俺は何も感じてはいない。





 スケートアメリカの時と同じ、バンケットの会場は滞在しているホテルの最上階だった。バンケットも終わり、ホテルの一室に戻ろうとした時だった。


「テツヤ」


 ソプラノとアルトの中間の声が、俺を呼んだ。こんな声を持つ人間は一人しか知らない。にわかには信じがたいのだが。


「ヴォルコフ……」

「やっと声掛けらた」


 去年よりも上達した英語。振り向くと、金髪のボブカットの少年がいた。人外を感じさせる美貌。今大会男子シングル優勝の、氷の化身。

 俺はアンドレイ・ヴォルコフの幼い顔と向き合っていた。


「ええっと……」


 話が続かない。彼は俺に、何故声を掛けたのだろうか。大会やバンケットで会っても、彼とはお疲れ様とか、いい演技だった、ぐらいしか言い合わない。俺は彼に、優勝おめでとうと言えばいいのだろうか。話題を必死で探していると、ヴォルコフの小さい口が動いた。


「……グリーンティーラテ好き?」


 なんの脈絡もなく、アルトの声が尋ねてくる。大会や競技のことじゃなかったのか。グリーンティーラテ。つまり、抹茶ラテ。好物だ。……そんな飲み物、どうして彼が知っているのだろうか。


「実はモスクワに、グリーンティーラテが飲める場所があるんだ。これから一緒にどう?」


 時計を見たら8時だった。モスクワの町事情がどうなのかは知らないが、これから飲める場所なんて限れている。そんな場所なんてあるのだろうか。ヴォルコフは俺の問いに、鳶色の瞳を輝かせてもちろんと頷いた。

 


 ✳︎


 

 日本車は人気だと話したのは、運転席にいる太めの女性コーチだ。トヨタのヴィッツ。ヴォルコフは後ろに座り、何故か俺が助手席に座っている。後部座席のヴォルコフは、バックミラー越しに見ると……。


「ごめんなさいね、テツヤ。この子、車に入るとすぐに眠ってしまうことが多くて」

「あ、いえ。お構いなく……」

「すぐに着きますから」


 すやすやと眠る子供の顔で、アンドレイ・ヴォルコフがまぶたを閉じている。


 ヴィッツは夜のモスクワを走る。淀みなくハンドルを切るのは、アレーナ・チャイコフスカヤ。輝く金髪と黒い毛皮のコートがトレードマークの、チャンピオンメーカー。……まさか、日本車を乗っているとは思っていなかった。威厳のある彼女には、ドイツ製の高級車こそ似合いそうなものなのに。フィギュアの選手や指導者で、車が趣味の人は多い。デトロイトのリチャード・デイヴィスがその筆頭で、彼の家にはアメリカのスケートバブルの時に購入したというカウンタックが堂々と車庫に入っていた。


 アレーナ・チャイコフスカヤの運転でたどり着いたのは、ホテルからもそれほど遠くない、瀟洒な造りの一軒家だった。暗いからよく見えないが、庭があり、それなりに整えられているようだ。言葉通り、すぐに着いた。車庫にヴィッツが入っていく。……少しどういうことかわからなくなる。


「あの、ここは……」

「私の家です。ロシア杯の後にあなたを招待したい、と言っていたのですよ、アンドレイが」

「招待したい?」


 鸚鵡返しに尋ねる。……意外すぎる言葉だ。


「あなたには意外かもしれませんが、彼は結構、あなたのことを気に入っているのですよ」


 初耳である。俺は勝手に、彼はあまり、他人に興味がないのだと思っていた。


 帰国は次の日の夕方のフライトになっていた。モスクワのドモジェドヴォ空港から成田までの一直線で帰る。乗り換えがないのは楽だ。大会が終わった今、帰る準備をするだけだ。ホテルに戻る時は、チャイコフスカヤコーチが送ってくれることになった。泊まってもいいのですよと穏やかに茶化す。その言葉は本気なのかもしれない。


 車庫に駐車をしたチャイコフスカヤコーチが、ロシア語で何がしか声をかけながら、頬を優しく叩く。氷の化身の鳶色の瞳が開かれた。俺にはわからない言語で二人が話し、彼は車から静かに降りた。


「さあどうぞ。我が家へ。私たち二人しかいませんから」


 眠そうなヴォルコフの肩を抱きながら、アレーナ・チャイコフスカヤが微笑みかける。

 前にも思ったが、彼らの関係は、フィギュアの師弟関係としては違和感がある。彼を目の前にすると、太めの女性コーチは、幼帝に使える乳母のようにも神に仕える司祭のようにも見えた。


 俺はそんな二人が暮らす家の中を、躊躇いながら踏み入れた。

 



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