18.パリの散歩道【後編】
アーサーに連れられて歩き回った場所は、パリ初心者向けの観光地ばっかりだった。凱旋門から始まり、ノートル・ダム大聖堂の鐘を聞く。聖堂に入ると、薔薇窓から覗く光の加減が美しかった。あの鐘をついているのはせむし男だろうか。マリーアンヌの今季のフリーを想起する。セーヌ川の雄大な流れを眺めて、ルーヴル美術館の前を通り、あの中に今も父はいるのだろうかと考えた。
「ミヤビのパパは美術が好きなの? 俺の父もそうなんだ。君のパパは誰が好きなの?」
「昔はドラクロワって言ってた。最近は……モネって言ってたっけ」
「それ全然違うじゃん。共通項がパリしかない。時代も作風も全然違う。結構何でも好きなんじゃないの?」
「じゃあアーサーのお父さんはなにが好きなの」
「決まってんじゃん、ミロのヴィーナスだよ。とてもセクシーじゃないか」
決まっているものなのか。それは。というかそれは、アーサーの意見なのではないかと思ってしまう。彼、女好きみたいだし。
街角で売っていた焼き栗を片手に、地下鉄も駆使して歩き回る。アーサーは話好きで聞き上手だった。俺はオフの時、音楽聴きながら料理してることが多いかな。後ギター。意外にインドアなんだねと私が言うと、出る時は出るよ? 遊びまわるの好きだし、と彼は答えた。ミヤビは何してるのと聞かれたので、雑貨屋巡りとか読書と答える。音楽は聞かないの? 聞くよ? 今聞いてるのはこれ。iPhoneとイヤホンを取り出して、片耳だけアーサーに渡す。最近好きなユニゾンの曲はアーサーも楽しんでくれて、言葉はわからないけどリズムが可視化されているみたいで面白いと言ってくれた。
ベージュのショルダーバックの中には、財布とパスポートとiPhoneぐらいしか入れていなかったけど、慣れない街を歩くにはこのぐらいの軽さが丁度良かった。焼き栗は甘さが丁度良くて、結構クセになる。修学旅行の自由時間のような自由さが楽しかった。
大通りを歩いている時、アーサーがある店の前で足を止めた。
「あ、ごめんちょっと、ここ入っていい?」
「ここ?」
「うん。ミヤビも入る?」
「あー、私は大丈夫。外で待ってるよ」
「そう、じゃあ、入り口で待ってて。時間かけないで帰ってくるから。でも、絶対にここから動いちゃだめだよ。念のためにね」
アーサーは軽い足取りで入っていった。……入れるわけがない。そんな勇気はない。彼にはレイチェルという恋人がいると言っていた。恋人に、プレゼントでもするのだろうか。マネキンがつけているような、布地が薄く面積の狭い下着を。
アーサーがここと指したのは、ランジェリーショップと化粧品店が併設された店舗だった。ショーウィンドウには下着しかつけていないマネキンが突っ立っている。流石に入るのは恥ずかしすぎた。
見ているだけで顔が赤くなるような店の前で立ちながら街並みを眺める。空が高い。3時を過ぎると少し風が冷たくなった。さっきまであまり寒さを感じなかったのは、歩き回っていたからだと思い知った。
ーー目の前を、カップルと思しき二人組が通っていく。黒髪の青年と、長い金髪が綺麗な女の子。指を絡めて手を繋いで、二軒先のカフェに吸い込まれていった。
繋がった手。互いしか見ていないような、幸せそのものの姿。青年の方は欧米人だったけれど、私の中でそれは細い背中に変換される。ハイトーンのディズニーヴォイスが混ざる。
頭の隅に嫌な映像が再生されて、息が苦しくなった。
あ、ダメだ。
ぼろっと出そうになるものを、どうにかして押さえ込む。
私はその場を離れて、すぐ近くの角を曲がった。大通りとは違う、建物と建物の間の少し暗い路地裏。
胸を抑えて、目をつぶる。息苦しさに痛みが加わって、体の奥をじくじくと炙る。さっきまでの楽しかった気分が、一気に萎んでいく。汗がひいて、途端に体が寒くなる。痛い。痛い。嫌だ。なんで最近、こうなっちゃうんだろう。大丈夫、大丈夫だって。
何度も呼吸を繰り返すうちに、どうにか痛みが引いていく。
早く戻らなきゃ。動かないでって言われていたんだから。顔を上げて足を動かそうとしてーー足が止めさせられる。
二人組の少年に呼び止められたからだ。
二人とも、私ぐらいの歳だろう。茶髪の少年と、金の巻き毛の少年。着ているものといい、顔立ちといい、どことなくフランスとは違う、異国の匂いがする。
「な、何ですか?」
え、ちょっと待って。目の前の金の巻き毛の少年の口から出ているのはおそらくフランス語で、何を言っているのかさっぱりわからない。英語で何か言おうとしても、とっさに言葉が出てこない。道案内? でも私は外国人だ。ナンパ? そうだったら怖すぎる。
ーー後ろから、いきなり手を掴まれた。
「てっちゃ……」
違う。私の手を掴んだのは、よく知った人の手じゃない。関節が目立つのは同じだけど、今掴んだのはそれよりも皮膚が分厚くて、掌が大きい。
アーサーだ。
アーサーは目の前の二人組に構うことなく、私の手を強く引いて、元来た道を駆け出した。一気に視界が明るくなる。人通りが多くなる。後ろを振り向いても、二人組は追ってこなかった。
「動かないでって言ったのに」
怒ったような厳しい顔にたじろぐ。
「……ごめんなさい。でも」
「ミヤビ、もしかして気がついてないの?」
バック見てみなよ、と言われてそちらを見やる。財布とiPhoneぐらいしか入れていないベージュのショルダーバック。
「……いつのまに」
唖然とした。バッグの口が空いて、財布が丸見えになっている。茶髪の方が、君から見えない位置から手を伸ばしてた、とアーサーは教えてくれた。
「気をつけて。イタリアよりも少ないけど、フランスにもスリだってジプシーだっているんだから。ギリギリだったよ」
父の言う通りだった。アーサーが来なかったら、財布もパスポートも取られてしまっただろう。
「ありがとう、アーサー。……最近助けられてばっかだね」
「だってミヤビ、今日あの後一人で帰ろうとしただろ? ダメだよ。こういうことだってあるんだから。一人きりで絡まれてたら、もっと危ない目に合っていたかもしれないんだよ?」
反論できない。迫力のある彼の顔から目をそらして俯く。迂闊なのは自分だ。こんな道に入らなければ。彼のいう通りに、戻ってくるまで動かなければ良かったのに。
あんな事を思い出さなければ。
黙りこくった私に、アーサーは目線を合わせてくる。小さい子に対する態度のようで、少しいたたまれなくなった。
「……実はさ、あの時からちょっと心配してたんだよ。試合であれだけ調子よかったのに、白い顔で現れたら誰だって気にするだろう? 何かあったのかなって。今のその顔だと、まだ全然解決できてないみたいだけど。……言いたくなければ言わなくていいよ。俺が勝手に世話焼いているだけだから。でもできれば、その暗い顔は解いてくれると嬉しいな。せっかくの可愛い顔が台無しだよ。さっきのこと、俺は怒ってないから」
ーーかっと喉が熱くなった。
可愛い。可愛いってなんだ。母も言っていた。
でもそれって、幼いとか、幼稚だとか、庇護する対象としての可愛さなんじゃないだろうか。
本当に見て欲しくて、言って欲しい人は何も言わないのに。
「……私のどこが可愛いの」
「ミヤビ?」
アーサーが目を白黒させている。当然だ。突然日本語になったのだから。
「私は、母さんやアーサーが言ってるほど可愛い女の子じゃないよ。幼稚だって、馬鹿にされてるみたい。ステイシーみたいに子犬みたいだって言ったほうがまだマシだよ。だって、あの人は私に何も言ってくれない。アーサーに言われてもあの人に言われなきゃ意味がない!」
自分の声の大きさにはっとする。
我に返ってアーサーの顔を見ると、彼は信じられないものを見る顔をしていた。
「ごめん。ごめんなさい。アーサー。あなたには関係ないのに」
最低だ。たとえ日本語になっていたとはいえ、助けてもらって、慰めてくれた人に最悪な言葉を吐いてしまった。言語が違うことなんて言い訳にならない。そして、吐き出た言葉も信じがたいものだった。後悔と恥と自己嫌悪が、じくじくと身を襲ってくる。考えていたことも支離滅裂でどうしようもない。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
視線を落とした両肩に、温もりが添えられる。
「……さっきの訂正。何があったの。今の君は、本当は誰かに聞いてほしいって顔しているよ」
責められても仕方がないのに。
声が優しすぎて、彼の顔が見られない。
*
父母には言いたくない。杏奈には言えない。杏奈はスケートアメリカで優勝したから、グランプリファイナルに行ける可能性は高い。次の試合は最終戦の日本大会だ。そんな大事な練習をしているなか、こんな馬鹿げた相談をして杏奈に心配をかけたくなかった。
あの一件以来、てっちゃんと話をしていないし、顔を合わせるのが辛くなった。何度か話しかけられて、聞かなかったふりして目を逸らしたことだってある。その時の私は、てっちゃんを傷つけたのかもしれない。自分でなんでそんな態度を取ってしまうのかわからない。普通にしたいのに。てっちゃんの邪魔なんてしたくないのに。傷つけたくないのに。
もちろん私だって、それだけを考えて生活しているだけじゃない。学校で授業は受けるし、練習にもちゃんと行っている。課題があるのは大変良いことで、スケートに打ち込んでいる間は忘れられる。でも、ふとした時に、ジョアンナと踊っていた背中を、彼女と抱き合っていたてっちゃんの腕の形を思い出してしまう。輝かしいディズニー・プリンセスの、邪気のない笑い声や、幸せそうな笑顔も。彼女を見つめた、てっちゃんの優しい顔も。
……それを思い出してどうして辛くなるのかもわからないのだけど。それだけで終わるのだったらよかった。
問題は眠った後にも起こるようになった。
出られなかったバンケットの夜に見た夢を、何度かみるようになってしまったのだ。硬い壁と深い霧に、たった一人で取り残されている夢。あの夢は結構、きつい。一人じゃないって言った手は、もう私の手を取ってくれることはないって否応なく思わされるから。
「そっか。そんなことがあったんだね」
てっちゃんの名前は出さなかった。ずっと一番近くにいた男の子がいたこと。その子が、別の女の子と抱き合っているところを見てしまったこと。お互いに幸せそうだったこと。それを見て、どうしようもなく悲しくなったこと。繰り返し悪い夢をみるようになったこと。……勘のいいアーサーは誰のことを私が話したのか、気付いたかもしれない。両手に抱えたカフェラテのカップが温かい。アーサーがこれ飲んで落ち着いてといって、近くの店でテイクアウトしてくれたものだ。
エッフェル塔がそのまま見えるシャン・ド・マルス公園。世界遺産の公園を歩きながら、その時のことを話した。エッフェル塔は高くそびえ立っていて、十一月のパリの街は冷たい風が時折吹いてもなお美しくて、私はダヴィデ像の顔を持つカナダ人にくだらない相談をしている。情けなくて涙が出そうだ。
「ごめんね。こんな話して」
「いいんだよ。俺が聞き出したんだし」
「なんできついかは、自分でもわかんないんだ。どうしてこうなっちゃったのかも。もっと普通でいたいのに。変な態度をとってあの人を傷つけたくないのに」
受け入れなきゃいけないのに。てっちゃんが幸せならそれでいいって思いたいのに。思おうとすればするほど、息が苦しくなって仕方がない。最初に手を振り払ったとき、てっちゃんは銃で打たれた人の顔をしていた。
あんな風に傷つけるつもり、なかったのに。
「不器用だなあミヤビは。そんなやつ、蹴っちゃえばいいのに。後から事実を知って、そいつが君を傷つけた事を死ぬほど後悔すればいいだけだし」
小さく笑いながら、首を横に振る。蹴る、というアーサーの発言が少し面白い。実際にはできっこないんだけど。
適当なベンチを見つけて、アーサーが腰をかけた。座りなよと促されて、私は少し間を持って座った。リュックサック一個分が入るぐらいの隙間。
「なんできついのかは、そのうち自分でわかるよ。俺が教えるのは簡単だけど、自分で気付いて欲しいな。俺が言えるのはさあ、ミヤビはミヤビのままでいいんじゃないのってこと」
アーサーはテイクアウトしたコーヒーを一口飲んだ。グレーの瞳が、柔らかい光を灯す。
「だって君は、自分を傷つけた相手にだって気遣える、とっても強い子だってことだよ。だから、君は君のままでいいの。そんなことがあったのに、今回もしっかり成績を残しているじゃないか。俺からしたらそっちの方がすごいよ」
「そんなことはないよ」
昔、マスコミやら周囲の期待やらで練習に身に入らなかった時、父に怒鳴られながら練習を中断させられた。やる気がないなら帰れ。そんな練習は時間の無駄だ、と。
後日、父はこうも言った。
「人にはそれぞれ事情があります。ですが、その事情を氷の上に持ち込んではなりません。練習の時も同じです。中途半端な練習は怪我の元です。周りにも迷惑ですし、あなた自身が持つ技術に対して失礼です。第一、練習の時に浮ついているようでは、本番はどうなるのですか」
「一流のスケーターは、どんな時でもプロフェッショナルな滑りをしています。練習であろうが関係ありません。氷の上では心を整えて臨みなさい」
父の言葉は正しい。その言葉があったから、練習中には辛い記憶を忘れていられるのかもしれない。
でも、それが上手くいかないことも多い。名古屋でのアイスショーの初日がそうだった。あの時も演技の前に、心が乱れてしまった。堤先生がいなかったら、私は最悪な演技をお客様に晒してしまっただろう。今思い出してもぞっとする。
「……私は強くないよ。今だってアーサーに頼ってしまっている」
もっと強ければ、きっとこんなに苦しくないのだ。もっと笑っておめでとうって言えるのに。
「頼っていいんだよ。それで少しでも、君の心が軽くなって前向きになれば、聞いた甲斐があるってもんさ。今辛くても昇華できる時がくるよ。それまでは泣いたって良いし、眠るのが怖くなったらいつでもLINEして良いんだよ」
時差があるからその場で返せないけどね。軽く笑うアーサーに感じたのは、守られているような安心だ。父とは少し違う感じの。
「……アーサーってお兄ちゃんみたいだね」
兄というものは、頼り甲斐があるものなんだろうか。体格だけじゃなくて、ひと回り人間が大きく見える。
「まぁね、俺は初めて会った時から、勝手に親近感は持ってたけどね」
僅かに目を見開く。初めて会った時っていつだっけ? そうだ、ジュニアの時、長野で開催されたGPシリーズで知り合った。それは2年前。その後確かに試合が重なったことが多かったけど……。
「うちの両親、君のパパと世代が少し被ってるんだよ。小さい時、よく父から君のパパがどんなスケーターだったか聞いたよ。その時かな。同じスケーターの両親を持つもの同士、ってね。ま、この世界ではよくある話だけど。……そうだ、これあげる」
アーサーは自分のバックパックから、簡単に包装された紙袋を取り出して、私の膝に置いた。
「……これ、どうしたの」
「いいから開けてみて」
言われるまま開いてみる。
出てきたのは、雪の刺繍が入ったシルクのハンカチ。触り心地が滑らかで、毛並みのいい猫を撫でている気分になる。
「ハンカチは今日付き合ってくれたお礼。本命はハンカチの中だよ」
ハンカチの中に包まれていたのは、無色のリップスティックだった。ハンカチもリップも、さっきの店で買ったのだろうか。今日は食事中も歩きながらも、ずっと唇がかさついていた。アーサーは気がついていたのだろうか。そう考えると少し恥ずかしい。
「友情の印さ。まぁ、俺にとっては君は妹みたいなものだけど」
「……受け取れないよ。だって、私はアーサーになにも返してない」
「何言ってんの。友情にものを返す必要はないんだよ。でももし、気になるんだったら、そのハンカチとリップを使ってあげてよ。それだけで十分なんだから」
「……ありがとう」
キャップを開けると、ほんのりと柑橘系の香りが漂ってくる。グレープフルーツのようだ。甘いだけじゃなくて、わずかな苦味も感じる。
早速使ってみる。色がついていないから安心する。グレープフルーツ風味のリップはすんなりと私の唇に馴染んだ。
「で、これで少しはぐらっとときめいたりしないの?」
思わず吹いてしまった。ここでぐらっと来たら、彼の友情に対して失礼だろう。
「しないしない。だって、友達だもん。それとも、お兄ちゃんって言った方が良い?」
「じゃあ、特別にアーチャって呼びなよ。妹よ」
ロシアではアーサーはアルトゥールになる。父や母は、俺のことアーチャって呼んでいるから。
「アーチャ兄さん」
照れくさいと思ったその呼び方は、意外にすんなりと私に口に馴染んだ。
アーサーは満足そうに立ち上がって、そこの通りのオープンカフェのルリシューズが美味しそうだった、どうせなら食べに行こうと提案する。私の話を聞きながら、よく見ていたものだと感心する。つられて私も立ち上がる。ルリシューズってどんなものなんだろうか。気になってきた。だけど、パリと言ったらマカロンじゃないのだろうか。そう首を傾げると、パリで美味しいおやつは、マカロンだけじゃないんだよと教えてくれた。
アーサーの包容力が成せる技か。誰かが自分の心を知っていると言う安心からか。無色のリップの力か。
ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。