11.桜の乱 【2016年スケートアメリカ その②】
流れのあるコンビネーションジャンプに、三日月のようなレイバックスピン。豊かな音の世界を、極上の演技で彩っていく。
最高の演技をした後の親友の演技は格別だ。キス&クライの特等席から見る杏奈の演技は、夢のように美しかった。……今まで見たショートの中でも、1番の出来だったかもしれない。今日一番の拍手が湧き上がる。多分、私よりも多い。何か日本語で叫んでいる人がいたようだけど、私の気のせいだろう。
「嬉しそうですね」
父の言葉に、私は大きく頷いた。キス&クライから立ち上がって拍手を送る。演技が終わったのだから、杏奈にその席を譲らなくてはならない。
「嬉しいよ。だってこのプログラム好きだもん」
「彼女の演技は、あなたの点数を抜くでしょうね」
それにも私は頷いた。この細かさ、この美しさは今の私には出せない。でも。
「でも背中は遠くない」
それが何よりも嬉しい。
「……あなたも少しはアスリートらしくなりましたね」
父は少し複雑そうに、そして少し嬉しそうに笑った。
杏奈の得点が出て、私は3分天下の終わりを告げた。……ただ、少し驚いたことに。技術点は私の方が上だったのだ。
……父の言った意味とは違うけれど。
少しは私もアスリートらしくなったみたいだ。
その後、合流した杏奈と互いの健闘を称え合い、バックステージのカメラで最後まで演技を確認した。カテリーナ・リンツ。エカテリーナ・ヴォロノワ。ジェシカ・シンプソンと実力者の演技が続く。カテリーナはステップアウトしてもなお華やかで、ヴォロノワは先月のネーベルホルンよりもショートプログラムの完成度が上がっていた。シンプソンも地元の応援を受けてノーミスの演技を披露した。
それでも。
「……嘘、だよね?」
「現実よ雅。受け入れないと」
そう言った杏奈にも、確かな興奮が交じっていた。いやいやいや、ないでしょ。流石にジュニア上がりの選手が二人揃って現時点でワンツーとか。何かの間違いじゃ。
「ジャッジがみんなに点数入れ忘れたってないよね?」
「流石にないわよ。どんだけ疑ってんのよ」
話している間に、最終滑走ジョアンナ・クローンの演技が進んでいく。苦手な選手だが、実力者には変わりない。去年の全米女王、世界選手権七位の実力者は……。率直に言えば気の毒な演技だった。結果は六位。
モニターを見返す。驚くことに、ショートプログラム二位で折り返すことになった。
*
中央は杏奈。私はその左で、杏奈の右に三位のシンプソンが座る。ショート三位のシンプソンが私と杏奈に軽く手を振る。お疲れさま、二人ともいい演技だったわよと言ってくれた。
テーブルに置かれた水。テーブルに三つの椅子。初めてではないけれど、あまり慣れない。上位三人のみに用意されるから、名誉なことではあるのだが。
「緊張する……」
滑ることよりも緊張すること。
私にとってその一つは、公式記者会見だ。
「大丈夫よ、リラックスして。素直に答えればいいんだから」
そう答えてくれたのは、私と杏奈の真ん中に座る女性だ。長い黒髪の落ち着いた雰囲気の女性。フリーライターの村上市子さんだ。小声で呟いた私の不安を、しっかりと聞いてくれていた。
いくら同世代より英語が喋れていても、細かいニュアンスは伝わりづらい。また、緊張して英語が上手く出てこない可能性もある。だから、ライターとしても通訳としても活躍されている市川さんにお願いした。杏奈も彼女の訳を通すことになっている。
「ちゃんと伝えるから。でも間違ったらごめんなさいね」
「はい……」
私は改めて目の前の記者たちを眺めた。日本のマスコミの姿も3割ほど。多い。でもその他は殆どが北米の記者だろう。日本の記者も含めて、この中でどれだけスケートに熱心な記者がいるかはわからない。が……。
なんだろう。
空気が、痛い。
敵意とまでは行かないが、少なくとも私と杏奈は、好意的には受け止められていない気がする。
司会の女性がマイクの確認をする。
「それでは始めさせていただきます」
最初は今日の演技を終えての感想。全体へ向けての質問は、一位の選手から順番に答える。杏奈がマイクに口を近づける。ーージャパンオープンがいい出来だったので、あまりそれを意識せずに滑りました。いい時の演技を意識し過ぎてしまうと、逆に失敗してしまいますので。
「星崎さん、番だよ」
「はい。えっと。シーズン序盤では最高の出来になったと思います。終盤にコンビネーションジャンプを飛ぶのはリスクが高かったのですが、最終的には飛んで良かったと思っています」
フラッシュは禁止になっているから、カメラの光が放たれることはない。時折パシャパシャ音がするから、写
真を撮られているのは分かる。
私の後のジェシカ・シンプソンが淀みのない英語で語る。ーーニッポンの二人が素晴らしい演技をしたので、私も負けていられないな、という気持ちで演技に挑みました。そういう演技をしてくれたミス・ヤスカワとミス・ホシザキに感謝します。シニアデビュー、おめでとう。……大体こんな言葉だと思う。私はミス・シンプソンに軽く会釈をした。
「ミス・ホシザキに質問します。トリプルアクセルの安定感が昨年度よりも増した気がしますが、何か特別な練習でもしたのですか?」
多分、アメリカの記者だと思う。ううん。よく見てるな。よくよく見てみれば、この質問の人には見覚えがある。フィギュアスケート界では有名な記者だ。
「特別……とまではいいませんが、昨年、星崎先生から無駄な力を使わないよう、一からスケートを直されました。それが今シーズンは序盤から効果が出てきたのだと思います」
別の記者が挙手をする。次も、私だ。
「トリプルアクセルさえあれば、ご自身は安泰だと思われますか?」
……なにこの質問。
飛び出たのは……アメリカの記者だ。チャーリー・ブラウンから愛嬌をなくしたような顔立ちの、少し意地が悪そうな。隣の杏奈が、必殺仕事人のような目つきでその記者を睨んでいる。ありがとう杏奈。
「いいえ。トリプルアクセルは一つの技に過ぎません。現に、私はトリプルアクセルを含めてミスなく滑りましたが、PSCはミス・シンプソン、ミス・ヤスカワの方が上です。フィギュアスケートは、一つの技で決まるような競技ではないと思います」
……言い過ぎたかな。でも、スコアシートみれば分かるものだし、こんな質問普通飛び出てこないだろう。他意がない限り。トリプルアクセルとジャンプの大きさ以外で、二人に優っているところをあげるほうが難しいのだ。
次に挙手したのは別の記者だった。私に今質問した記者の隣の人。
「ミス・ヤスカワ、それにミス・ホシザキ。ベテラン勢が後退して、これであなたのうちどちらかの優勝は決まったようなものですか」
彼が口を開いた瞬間、空間がざわついた。
ざわついた、というよりも、殺気だった。
私はその質問に体が固まった。とっさに反応することができなかったのだ。さっきっから何なんだ。村上さんも困惑している。なんて返したらいい? というかこれは、返すような質問なのか。
ーーいきなりの衝撃で、目の前のペットボトルの水が机の上で跳ねた。
椅子を引いて、杏奈が立ち上がる。衝撃は、杏奈が机を叩いた音だ。さっきの必殺仕事人のような顔ではなく、感情がスッと消えた無表情。全身から醸し出す雰囲気は、怒りだ。
「まだフリーが残っている。勝負が決まったわけではない。私は現時点での一位にすぎません。そんな質問はあらゆる選手に失礼です。あなたは今、あなたの国の選手も侮辱したのですよ」
怒りを宥めながら杏奈から出てきたのは、流暢な英語だった。村上さんの訳をすっ飛ばして、親友はその質問をした記者を睨み据えた。
「ミス・ヤスカワの言う通りです」
今まで黙っていたシンプソンが、ゆっくりと口を開いた。
「そこのあなた。あと、その前に質問した方。どちらの記者ですか。それともテレビ局の関係者ですか」
カードを見せてください、とシンプソンが、二人の記者に身分を明かすように要求した。記者は、苦虫を百匹ぐらい噛み潰した顔で、プレスカードをシンプソンに渡した。その顔をシンプソンは、忘れないようにマジマジと見つめる。迫力のあるダークグリーンの瞳に睨まれるとたじろいでしまうのだろう。
……怯んだのは瞳の強さだけが理由ではない。彼女自身が持っている実績と実力も確実に理由の一つに入っている。
「お二人共NYウィークの方ですね。あの、ゴシップ紛いのことを書く。……よく覚えておきますよ」
記者会見を続けてください、とシンプソンが司会者に促す。
その姿は、長年競技に身を捧げてきた人間特有の貫禄があった。
*
「ありがとうございます」
記者会見が終わった後、私と杏奈は深々とシンプソンに頭を下げた。
一悶着の後も会見は続いたけれど、刺々しい空気は最後まで払拭されることはなかった。特に、ミス・シンプソンに対する風当たりが強くなった。私たちを庇ったからだ。
日本のマスコミが海外の選手に失礼な質問をした例はたくさんある。
だけど、海外の記者からこんな刺をもらったのは初めてだった。
会見が終わり、プレスルームを出たところで、シンプソンが話しかけてくれたのだ。ーー二人とも、お疲れ様。さっきはよく対応したわね、と。
「いいのよ。あなたたちがいい演技をしたのは喜ばしいことだし、アメリカ人はアメリカ人が大好きな風潮があるから。マスコミや一般人が求めるのは、スター選手かシンデレラなのよ」
ミス・シンプソンはそこで自嘲気味に笑った。私はスターでもシンデレラでもないから、と。亜麻色の髪にダークグリーンの瞳。23歳のベテラン選手は、世界選手権のメダリストでもある。
「日本のマスコミも多くきてるからね。それが気に食わないうちの国のマスコミも多いわ。ここはスケートジャパンか、って言っていた人もいるしね。……もしかしたら、こういう質問をして、あなたたちから浮かれた言葉でも引き出そうと思ったのかもしれない」
昔、日本のマスコミが自国の選手の活躍に浮かれて、公式記者会見の際ににとんでもない質問をした、というエピソードを思い出した。その大会は、今回と同じくスケートアメリカだったような。……あなたが失敗して、これで日本の優勝争いになったわけですが、と。
「そうすれば少しは牽制になるから、ですか」
「そうね。バッシングまではいかなくても、否定的な記事はいくらでも書けるから」
杏奈の言葉をシンプソンは肯定する。
アメリカ人の心になって考えてみる。今でも十分強豪国だが、かつては現在の比ではない。かつてのアメリカは、五輪金メダリストも何人も出した超大国だ。だが、今では人気もあまりなく、実力者はいても絶対的にその競技に君臨する強い選手がいない。例えば、ロシアで言うアンドレイ・ヴォルコフとエレーナ・マカロワ。日本で言うと、神原出雲。実力者ではだめなのだろうか。
正直私は、どんなに苦手だろうとジョアンナにショートだけでも勝てるとは思っていなかったし、今日の私の演技がたまたま当て嵌まってミス・シンプソンの上に行っただけだ。
だが。
自国のホスト大会で、自分の国の選手よりも他国の選手が活躍していたら、メディアとしてはそれは面白くもないのだろう。
調子に乗るな、と言いたい気持ちも少しだけ理解できる。……理解できるのと、私の心情は別物だが。
「記者が全員が全員、スケートやスポーツに精通しているわけではないからね。これは覚えておいた方がいいわ。ゴシップ紛いのことを書くやつだって、額面しか見てないやつだっているから。ーーインタビューや会見の時は、相手の言葉を吟味して、自分の言葉で自分を守るのよ」
シンプソンのキャリアは相応に長い。バンクーバーは16歳、ソチ五輪は20歳で出場した。……その間に、メディアと一悶着とまで行かなくても、何某かの食い違いやスレがあったのは、想像に固くない。
「でもまぁ、二人とも大丈夫そうね。ちょっと意地の悪い質問されても冷静に対応していたし。少し安心したわ。若い子はこういう対応に怖気付いちゃう子も多いし、それも仕方がないことだけどね」
私と杏奈は顔を見合わせて笑った。杏奈と一緒に認められている、と思うと少し嬉しい。
ぱん、と手を叩きながら、シンプソンは笑った。この話はもうこれで終わり、と言うように。
「これから男子のショート見に行くんだけど、どうせなら二人とも一緒に見ない?」
「いいんですか?」
思わぬ提案を受ける。
「もちろんよ。それから、ミス・シンプソンではなくジェシカでいいわ。どうする?」
断る理由はない。せっかく声を掛けて頂いたんだし、知り合った縁もある。杏奈と顔を合わせて、よろしければ是非、と答える。
「……と。ジョアンナ!」
少し離れた隅で小さくなっていたのは、金髪碧眼の女子選手。
ショートプログラム六位の、ジョアンナ・クローンだ。普段は明るいカラッとした女の子……というのはてっちゃんの談だが、その様子は今は影を潜めている。
自国の先輩には逆らえないのか、ジョアンナは素直にこちらにやってきた。
「あなたも来なさい。今日の出来は引きずりすぎていても仕方がないわ」
「……でも」
「悪い理由なんてないわ。二人とも、いいかしら?」
杏奈がちらっと私の方を見た。目が、大丈夫か聞いている。杏奈は、私がジョアンナを苦手だと知っている。
……彼女のことが苦手でも、さっきの演技は気の毒だった。失敗して欲しいとは思わないし、良い演技をしてほしいとは思う。それと私の感情は別だけど。でも……。
心の中で出てきた映像を必死で振り払った。あれは関係ない。それに。彼女が来て私が去ったら、ジェシカに不審がられるだろう。そういう事態は避けたい。私は杏奈に大丈夫だよ、と念を込めて笑った。
「はい、勿論です」
隣には杏奈がいるし、何よりてっちゃんの演技を見たい。失礼なようだけど、当たり障りなく話して隣にいるだけ、と考えればいい。気にしないように。
笑って答えられた筈だ。目の前のジョアンナも、張り付いたような笑顔で私を見つめていた。
関係者席に座ると、第一グループの6分間練習が始まるところだった。
この話で登場した村上市子さんですが、「その日私は神に出会った」という番外編で登場しています。
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