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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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33/66

8.今日のさいたまは曇り模様

 学校の授業は特別なことがない限り、できるだけ普通に受けてきた。


 中学の成績は、上の中から中の上までを行ったり来たり。目立ってよくはないけど、人並みに良いぐらいをキープしてきた。高校では海外遠征や練習が重なって、義務教育の時ほど単純には行かなくなったけど、今のところ問題は起こしていない。

 なので音楽の授業も普通に受けてきた。五線譜は人並みに読めるし、西洋音楽の主要な作曲家の名前は知っている。


 それでも足りないなと思う時はある。


「水の変態」の曲を渡された時、系譜の読み方がわからなかった時とか。

 振付や技術面だけではなく、表現を深めるために何をしたらいいのか先生に相談したところ、「アナリーゼ」と即答された時とか。

 即答されて、紙袋一つ分ほどの曲に関する資料をわたされた時とか。


「うん、うん。ご飯はそんな感じ。とにかくスタミナをつけないとやっていけないから」


 横浜の堤先生の自宅。自室でiPhoneをハンズフリーにして、学習机にオケのスコアと楽典、音楽資料等を広げる。学習机は横浜に来た時に父から買ってもらったものだ。小学生用ではなく、高校生が使っても遜色ない立派なもの。釧路の実家のものは、そのまま実家に残っている。そんなに立派なものじゃなくていい、これからスケートに金がかかるからと当時父に言ったのだが、机だけは父が譲らなかった。


「これからお前が、何もなくスケートが続けられるかどうかはわからない。その時に自分を支えるものの一つは学力だ。選択肢が多いことは、悪いことじゃない」


 机を買うということは、父からの「どこに行っても、何をしても最低限の勉強は続けなさい」というメッセージが込められていた。堤先生も父に了承し、こうして当時小学生だった俺に不釣り合いなものが部屋に入った。


 そして今現在。学業の方も問題がなく、こうしてスコアや楽典を広げても十分な広さがあるので、父の言葉は正しかったと思い知った。


『あんた何か、アレルギーとかあったっけ? それから、体質的に太りやすいとか、筋肉がつきにくいとか』

「アレルギーはない。でも、意識的に肉食べてないと、すぐに痩せて筋肉が落ちる」

『その辺女子とは違うわよね』

「節制は大事だけど、女子だって食べた方がいいんだよ。食べた上で、ジャンプが跳べる体にならないと」


 過度な節制は摂食障害につながりかねない。体型変化が避けられないなら、節制以外でも「続けるための工夫」を重ねる必要がある。そのやり方は人それぞれだ。例えば、安川杏奈。彼女はシーズンインしたら甘いものを極力控える代わりに、シーズンオフの時はコメダ珈琲のシロノワールを食べまくる。メリハリを重視するタイプで、今のところ不調は聞いていない。


『うん、でも助かったわ。色々ありがとう』

「どういたしまして、姉さん」


 電話の相手は、四つ年上の姉だ。鮎川美咲。元スピードスケーター。現在は管理栄養士課程の大学に在籍している。


『今度は女子スケーターの話とか聞いてみたいかもね。あんたの彼女とかに』


 指の力が抜けて、シャープペンがスコアの上に落ちる。気にせずに、俺はこめかみを揉んだ。……またか。


「だから雅はそういう関係じゃないって。リンクメイトで、スケート仲間。何度言ったらわかるんだよ」

『私はあんたの彼女って言っただけで、あの子のことを言ったわけじゃないわ』


 ……このやり取りも、電話のたび、そして顔を合わせるたびに交わしている気がする。


「そういう姉さんはどうなんだよ」


 別に姉に懇ろな関係になる人について、興味があるわけではない。売り言葉に買い言葉だから、ついでに聞いているだけだ。再び楽譜に向き合う。


  

「あ、私彼氏できたわ」


 

 どれがどの音なのか。どれがどのフレーズなのか、譜面を見ただけだと頭の中で音が想像できなくなる時がある。対象の音を探している時に、姉の報告を聞く。彼氏ができた。彼氏ができた。ホルンのパートはどこだ。見るところが多いから、ちょっちゅう迷子になる。


「へぇ、それはおめでとう」


 自分でも思ったほど感想がなかった。それよりも、ホルンのパートが再びわかったことに感動する。


「……あんた、もっと何かないの?」 

「何が。姉さんは昔からしっかりしていたし、顔も綺麗だし、頭も悪くないし、人並みに優しいし、粘着質じゃないし、肝も座っているし。普通に考えて一緒にいたいって思うやつがいてもおかしくないだろ」

『嬉しいこと言ってくれるわね』


 これでもこの人の弟を16年やっている。決める時は決める人だ。だから高校でスケートもやめたし、新しい道にまっしぐらに進んでいる。おめでとうというのが正しいし、それ以上の感想は思い浮かばない。姉だからだろうか。それとも、長らく離れて暮らしているからだろうか。


 姉の彼氏は同級生で、同じ管理栄養士過程の学生のようだ。スポーツは見る専門で、スケートファン。そういえば4月に、姉は友人から弟のサインくれと頼まれたようで、俺は4月に帰省した時に一筆書いた覚えがある。その時の人かと聞いたら、そうだよとさらっと答えてくれた。

 彼女云々はさておき。


「もし雅に話を聞いてみたいなら、俺からまず姉さんのこと話してみるけど」

「本当? ありがとう」


 でもあんまり期待はしないで欲しい、とも伝えた。


『で、そうだ。次のジャパンオープンのチケット、余ってない?』

「なんでまた」

『翔一が生でフィギュアを見たいって言ってて。私もあんたの演技を久し振りに生で見たいし。ついでに東京観光したいし、授業もまだ本格化しないし。何より出場者が結構豪華じゃない』

「……そういう話はもっと早くいってくれ」


 チケットの関係者分は両親に送ってしまった。姉と両親は離れて暮らしているので、その中には入らなかったのだ。チケットサイトに早急に問い合わせ、ダメだったらもう一度連絡をくれと伝える。電話はそこで切れた。


 椅子の背もたれに身を預けながら、手と首を伸ばす。今日は氷上練習を午前中で切り上げた。代わりに、午後は3時まで筋力トレーニングをする。

 そして今。居候先である堤先生の家の自室で、フリーのオケスコアを広げている。iPhoneで時間を確かめると、夜の6時半。帰ってきてから2時間ぐらい、楽典とスコアと格闘していたことになる。マグカップの中のカフェオレは半分以上残っていて、経過時間の長さを如実に表していた。

 電話が終わるのを待っていたかのように、扉がノックされる。


「哲也ー、入るよ」


 いつのまにか帰ってきていたらしい先生が、黒いエプロンをつけて部屋に入ってきた。ロングのシャツとジーンズという私服だ。今日は先生も、仕事は終わりらしい。


「どう、アナリーゼは進んだ?」  

「あまり……。慣れてなさすぎて、頭がぐらぐらします。姉さんからも電話ありましたし」

「あらま。美咲ちゃん元気?」

「元気ですよ。相変わらず勉強熱心ですし、彼氏出来たって言ってました」

「へぇー、そりゃめでたい。……どの辺が難しい」


姉の話題をさっくりと切り上げて、先生が本題に入る。切り替えの早さに苦笑を返した。


「難しいっていうよりも、基礎的な知識が足りなさすぎて事典と楽典から意味を引く事から始めてます。あと音の意味合いとか読み取りたいんですけど、その前に音がどれだかわからなくなって混乱します」


 フリーの曲はクラシック。それも、オーケストラががっつり奏でる交響曲だ。独奏曲とは違う。さまざまな楽器の音が重なり合い、複雑に展開していく。

 アナリーゼ。楽曲を分析し、どう作られているか知る音楽特有の学問のことだ。曲の構造を知るためには欠かせない。また、作曲家の意思を問う学問なのではないかと思っている。どうしてこうやって転調させたのか、とか。この音はどう言った役割を持っているか、また、持たせたのか、とか。


 ここまでやる人が多いかどうかはわからないけど、と前置きをした上で、先生は次の言葉を吐いた。


「振付とは十分向き合ってくれているから、今度は曲と正面から向き合ってみるといい。ただ聞くだけじゃなくてね。向き合った上で曲の意味がわかってくれば、動きにも絶対に影響が出てくる筈だから」


 そう言って、スコアと資料等々を持ってきてくれた。

 フリーの振付は堤先生だ。フランツ・リストの思い出のために。そう言葉を残して、サン=サーンスが心血を注いだ最高傑作。


 今月に入ってから少しずつ進めていたアナリーゼだが、まだ自分の地肉になっているとは言い難い。


「ま、焦らずやることだね。とりあえず一旦置いて、飯にしよう。面のいい鶏があったから、今日は東南アジア風のトリメシだよ。パクチー大丈夫だっけ?」

「少しなら。……手伝います」


 机の上の楽典や資料を片付けて、自室の電気を消す。トリメシと何にするんですか? 大豆入りのミネストローネと、豆腐のサラダだよ。和洋東南入り混じっているが、見事なほど高タンパク低カロリーだ。

 この家での料理は9割先生が作っている。アスリートに配慮した栄養バランスを重視しているから、変わったものが出てくるわけではない。それでも先生が作る料理は、控えめに言っても美味しかった。


「それからさっき作り過ぎたからお裾分けでもらったんだけど、涼子先生お手製の」

「それはお断りいたします」


 秒速で俺は答えた。

 涼子先生。正体は、星崎雅の母、星崎涼子。フィギュアインストラクター兼振付師兼、管理栄養士。

 夫の星崎先生と同じく、堤先生の現役時代の指導者でもあり、振付師だった彼女は、アイスパレス横浜に在籍するスケーターの栄養相談も行なっている。体質的にこういうものを食べたらいい、とか、こういうレシピをお勧めする、とか。選手に合わせた事細かな指導が評判がいい。また彼女は、指導者になった後の堤先生に、「内弟子を持つなら、弟子の飯の管理や栄養計算ぐらい出来るようになりなさい」と言って栄養学と調理技術を叩き込んだ。今俺が、先生の元に居候して大変美味しいものが食べられるのは、涼子先生の力が強い。


 そんな涼子先生だが、時折頭のネジが取れた、いや、とてつもなく個性的な代物を作ってくる。作っては雅を実験台にし、作っては堤先生に試作品だと言ってタッパーに入れて渡してくる。どうやったら「生ニラとバターナッツカボチャのミルクスープ」なんて思いつくんだ。


「最後まで言ってないでしょ。もしかすると君の好物かもしれないよ?」

「……何をいただいたんですか?」

「デザートだよ。抹茶のパンナコッタ。あ、それに別タッパーにアサリで出汁を取ったジュレが入ってたよ。パンナコッタにかけて食べてねって言われた」

「……別で食べましょう」


 賛成、と言わんばかりに先生が両手をあげた。なお、堤先生は頭のネジが取れた料理を面白がることはあっても、自分で作ろうとはしない。

もしかしたら雅は、アサリのジュレがかかった状態でパンナコッタを食べたかもしれない。

 心の中で手を合わせてすまんと謝りつつ、夕食後のコーヒーと一緒にパンナコッタはパンナコッタだけで美味しく頂いた。


 今は9月下旬。今期の緒戦はプロアマ混合戦。10月第1週にさいたま市で開催されるジャパンオープンだ。その2週間後にはグランプリシリーズが始まる。エントリーは、第1戦のアメリカ大会と、第5戦のロシア大会。


 アメリカ大会では雅や杏奈と出場し……、ロシア大会では宇宙人とぶち当たる。

 技術はもちろんだが、表現面でもあの宇宙人に対抗しなければならない。そのためには別の牙も磨かなくては。 


「もう少しやってきます」


 だから正面から、使用する楽曲と向き合うしかない。

 夕食後、先生はソファの上であぐらをかいて、iPadで撮影された演技動画を見ていた。ワイヤレスイヤホンを外して、iPadから顔をあげる。見ていたのはジョアンナの演技だった。先日行われたイタリアの大会で優勝した時のもののようで、先生はその時の演技の振付をチェックしている。レベルが取れているか、振付が甘くなっていないか。確認をしたらメールを送るようだ。


「明日は休みの日だけど、休みだからって無理しないで切り上げるんだよ。あー、洗濯は、風呂入った後に回しといてね」

「はい」

「それからあと、コーヒーもう一杯」


 自分のカフェオレ用のコーヒーと先生のブラックコーヒーを淹れ直す。ブラックは好きだけど、勉強中に飲むと逆に集中力が散漫になる気がする。今の俺にはこのぐらいが丁度いい。


 ✳︎

 

 宿泊するホテルは大会スポンサーが用意してくれた。会場の最寄りはJRさいたま新都心駅。電車によっては、横浜駅から乗り換えなしでいける。ジャパンオープンは初めて出場する大会だから一応ルート検索はしていたのだ。

 だが。


「車が出るんですね……」


 不要だった。連盟が迎えを手配してくれたのだ。黒のセダンが横浜のマンションの前にやってきた。こういうものとはわからずに動きが止まっていたら、真っ先に先生が乗り込んだ。

 首都高を飛ばして着いたさいたまスーパーアリーナは巨大だった。たまアリは初めてだ。2014年の世界選手権は俺は出場しなかったし、全日本選手権もしばらくここで開催されていない。


 ジャパンオープンは地域別の団体戦だ。日本、北米、ヨーロッパの3地域で、プロアマ混合。そして、男女シングル各2名の、計4人の合計点数で順位を争う。


 大会の記者会見は先週行った。日本チームの女子は安川杏奈と里村理沙。杏奈は俺と同じ初出場。シニアデビューの試合がこの大会になった。そして男子は俺と……もう一人。


「哲也」


 公式練習の為に会場入りをして顔を合わせ、先に声をかけたのは彼だった。

 目元は涼しげで癖のない輪郭。真っ黒な杏仁型の瞳。少し広角をあげるだけで周りから花が出るような美貌。細身だが、しっかりとした筋肉がついているのがわかる。


「……出雲さん」


 俺がジュニアに上がる前までは、彼は練習拠点が日本だった。だから、合宿や大会で顔を合わせることも少なくなかった。その度に、自分の実力や実績を鼻にかけることをせず、誰とも、そして俺とも仲良くしてくれた。

 品行方正なアーティスティック・アスリート。


「久しぶりだね哲也。よろしくね。今回はチームメイトとして、一緒に頑張ろう」


 屈託無く右手を出してくれた。俺は同じ右手で握り返す。

 神原出雲、22歳。

 戦績は、全日本選手権4連覇中、世界選手権3連覇中。現世界最高得点保持者。現在世界ランキング一位のーーソチ五輪金メダリスト。


 現在はカナダを練習拠点とする出雲さんは、この大会のために来日してきた。17歳でカナダに渡ってから、連盟が主催するシニアの強化合宿にも顔を出せないし、アイスショーもカナダを中心に出演している。昔と違って、同じ日本代表でも試合ぐらいしか会う機会がない。最後に顔を合わせたのは……パリでの世界選手権だった。


「やーあ出雲、久しぶり」


 ……同期や関係者以外で、彼のことを呼び捨てで呼べる人間は少ないだろう。

 先生はその数少ない一人だった。 


「堤先生、お久しぶりです。お変わりなくて何よりです」


 折り目正しく、出雲さんが頭を下げる。……神原出雲は雑誌のインタビューではこう答える。尊敬するスケーターは誰ですか?。ーー堤昌親さんです。 


「今年も先生には振られてしまいました。残念です」

「だってねぇ。神原出雲の名前を汚しちゃうかもしれないし」

「俺の名前はヤワじゃないですよ。それに、今期の俺のプログラム見れば、考えが変わるかもしれませんよ」


 実は出雲さんは、頻繁に堤先生に振り付けのオファーを出している。それもショー用のプログラムではなく、競技用。出雲さんは「新しい俺を出してくれそうだから」という理由で。

 そしてその度に先生は断っていた。先生の場合、多忙もあるが一番は「本職のコレオグラファーじゃないから」という理由だ。


「まぁ、期待しているよ。君が今回、どんなものを見せてくれるかね」


 先生の言葉に満足したのか、出雲さんが言葉の代わりに微笑む。誰もが見とれるほど美しい微笑。もし彫刻家がいたら、その顔を掘りたいと思うほどの。だけど、両の瞳には確かな炎が宿っている。  

 戦うアスリートの顔だった。


「時間がなくなる。早く練習に行こう」


 どういう氷なのか気になるし、会場や観客席がどうなっているかも知りたい。出雲さんに促されて、リンクサイドに移動する。

 ーー思わず後ろをふりむいた。


「どうしたの」


 先生が訝しげな目線を投げてくる。


「……いや、なんでもありません」


 気のせいだと言い聞かせる。リンクサイドには不特定多数の人間がいるだけだ。ヨーロッパチームの四人に、北米チームの女子選手が二人、氷上練習を眺めている。


 北米の女子シングルの出場者は、一人はカナダのステイシー・マクレア。肩までのミルクティー色の髪にエメラルドグリーンの瞳の、聡明そうな女性。身長は雅より少し高いぐらいなので、女子選手でも小柄な方だ。24歳とベテランの域に達しているが、惜しみなく進化しようとする姿勢は無条件で尊敬に値する。


 もう一人はジョアンナだ。コーチのリチャードとリラックスした顔で談笑している。


 ……今しがた感じた寒けを振り払うように、俺は氷の上に降りた。気のせいかもしれないものよりも、氷上の方が冷たい。こちらの冷たさに早く身を起きたかった。


 ✳︎

 

 北米チームの男子は、アメリカのジェイミー・アーランドソンと、カナダのアレン・シェアバーグ。シェアバーグはバンクーバー世代のプロスケーター。正確なスケーティングが特徴の名選手だった。

 ヨーロッパチームは、男子はドイツのミハイル・シューバッハに、スイスのブライアン・メイスン。トリノ五輪の銀メダリストだ。


 女子はスウェーデンのレベッカ・ジョンソン。

 そして……現世界王者の、ロシアのエレーナ・マカロワ。


 男女シングルの現世界王者が2人出場するのが影響しているのだろう。観客席は満員だった。男子シングルの後、ゲストスケーターの演技を挟んで女子シングル。ゲストスケーターは紀ノ川彗。堤先生後の、そして、菅原出雲の前の日本の男子シングルのエースだったスケーターだ。


 この大会の場合滑走順がやや特殊だ。男子シングル6名の場合、北米選手、ヨーロッパ選手、日本選手という滑走順を二巡する。さらに、チーム2名のうち、世界選手権や世界ランキングが下の選手が前半、上の選手が後半の滑走になる。プロスケーターやジュニア上がりの選手も前半だ。

 つまり出雲さんと俺の場合、出雲さんの方が世界ランキングも世界選手権での順位も上なので、俺が三番滑走で出雲さんが六番目の滑走になる。自動的に、俺が日本選手のトップバッターを務めることになった。


「最初のジャンプ、躊躇わないでいつものように飛びなさい。次が肝心だから」


 フェンスを挟んで先生がアドバイス。……選手紹介も終わり、男子シングルが始まった。前二人の選手が終わった所だ。


「緊張してる?」

「まあ、どんな時でも緊張はしますよ」


 全く同じ状況、というのはないものだ。出場選手が12人だけの大会も始めてだ。不安要素だってたくさんある。でも、固まっても滑れる時は滑れるし、滑れないときは滑れない。変わらないのは、呼ばれたら滑らなくてはいけない、という事実だけ。


 ……少しは俺もタフになったのかもしれない。

 名前がコールされる。ーー三番、鮎川哲也さん。日本。


「それが言えれば十分だよ。さ、いってらっしゃい」

 余裕綽々で先生が送り出し、リンク中央部へと向かった。  

 


    

 燕尾服風とシャツどっちがいい? と衣装を作る段階で先生に聞かれた所、後者を返答した。滑っていて重そうだからということと、衣装負けしそうだからだ。


 最初のポーズをとってすぐに曲が始まった。

 フルート、ヴァイオリンの重なり。 

 音に合わせてターンをいくつか重ねーーバックスケーティングから最初は四回転サルコウからのコンビネーション。落ち着いて、ワンテンポ遅れるように踏み切って、腕をひきつける。去年始めて成功させた四回転。

 ……着氷、その後に左足のトウを突いて再び飛び上がる。回転軸をしっかりさせて、三回回りきっておりてくる。……安堵が、顔に出たかもしれない。あまり曲調にそぐわない顔を作りたくはないのだが、これで13点近く点がもらえるかもしれない。


 しかし安心してはいられない。

 問題は次だ。次は再び四回転。

 それも、新しく入れたループ。


 クラリネット、バソン、コントラバスが重く旋律にかぶさってくる。


「ーー!」


 しまった。音を聴きすぎて、タイミングがずれた。踏切が中途半端になり、三回転に解けておりてきてしまう。曲の盛り上がり部分だっただけに、クワドにしたかった。


 ここからリカバリーしないといけない。次だって単独のトウループの四回転だ。

 ……失敗を頭から振り払い、俺は次のジャンプに向かった。曲は終わってない。むしろ、重厚さを増すばかりだ。

 


 

 ーー長い4分半だった。終盤のステップは息切れしていたし、最後のスピンはよろけた。転倒はなかったけれど、三回転ルッツでオーバーターンしたり、四回転トウループもタイミングを測り損ねて二回転になったり、痛いミスをしでかした。


 目立って悪くはないけれど、手放しで褒められるような演技ではない。それでもそこそこ拍手をもらえた。


「お疲れ様」

「……ループ、タイミングが、ずれました」


 信じられないらい、肺が苦しい。肩で息をする。3種類3回のクワドを入れるのは、相当の体力を奪う。1種類2回の時と比べ物にならない。


「そんな時もあるさ。それよりも、単独のトリプルアクセルがステップアウトしたのが気になったね」


 俺の肩を叩く先生に、苦い笑いを返す。言葉が出てこない。新しいクワドを入れようが得意なジャンプを失敗するのは、痛恨のミスだった。得意なものこそ成功しないと点数が稼げないのに。


「おつかれー、哲也君」


 キス&クライに入ると、杏奈をはじめとするチームメイトが口々に労いの言葉をかけてくれた。……なるほど、これは確かに、他の大会では国別対抗戦や五輪の団体戦以外無い光景だ。個人ではなく、チームの勝利のために貢献する。


「すみません……」


 ……不甲斐ない演技をしたときは、ある意味拷問でもあると知った。個人だったら自分が沈黙するだけで済むのだ。それが団体戦になると、チーム全てに関わってくるわけだから。


「謝る必要ないわぁ。一番最初は緊張するもんやし、みんなようやるわ。それに、私らもおるしね」


 その言葉使いに、思わず笑った。

 間延びした特徴的な関西弁で話したのは、里村理沙。日本の女子シングルのエースは、大和撫子を絵に描いたような和風美人だが、たまにイントネーションのおかしい関西弁を話す。中学までは関東圏にいたけどコーチの移籍に伴って京都に引っ越したからーーというのは彼女の弁だ。


 一瞬気が抜けた先で点数がコールされる。ーー153.96。

 せめて160点台には乗せたかったのに。


「気にしない。あとは、俺たちに任せなさい」


 出雲さんの言葉をそのまま表すかのように、先生が柔らかく笑う。

 ……暗い顔ばかりもしていられない。俺の演技は終わったけれど、戦いは始まったばかりだ。


 ✳︎

 

 その後は日本チームの一員として、チームメイトの応援に徹した。


 各国の招待選手の演技も素晴らしい。プロスケーターのメイスン、シェアバーグ両選手は、ジャンプの難易度はやや劣るものの、現役選手顔負けの技術を披露した。


 ジェイミーはトリプルアクセルがダブルになったものの、クワド三本をキッチリ入れて演技をまとめた。コロラドで練習している彼の滑りは、今まで以上に芯の太いものになっていた。


 女子シングルでは現世界王者のエレーナ・マカロワが圧倒的な演技を見せたが、杏奈も里村さんも決して負けてはいなかった。ノーミスで、女子の最終順位で、里村さんが二位、杏奈が三位に食い込んだ。


 出雲さんに至っては……この人も本当に、ヴォルコフとは別の方向で、人間のかたちをした人外なのだろうと思った。まさか四回転ループをプログラムに入れてくるとは思わなかった。二位のジェイミーに20点以上差をつけて、男子シングルの一位を獲得した。


 結果、優勝は日本。二位がヨーロッパで、三位が北米。

 俺は六人中四位。

 チームとしては優勝したが、結局俺一人が足を引っ張る形で終わった。


 後からジャッジングスコアを見ると、ステップはレベル3で、スピンも一つレベルを取り損ねた。PCSも8点台が2項目と7点台が3項目とだいぶ辛いものだった。

 ……PCSに関しては納得せざるを得なかった。特に音楽解釈の項目は、俺がまだどう滑ったらいいか手探りなのが、ジャッジからは丸わかりだっただろう。今回の収穫といえば……それなりにミスを重ねても、スケーティングスキルの部分では8点台をいただけたことだろうか。


 この大会は競技が終わった後は、ゲストスケーターと競技者によるアイスショーになる。周りはアイスショーの準備のために動いている。スケーターは控え室で着替えたり休んでいる人が多いだろう。俺の出番は早い。廊下で一人、ストレッチをしている時に、華やかな顔が小脇にバランスボールを抱えてやってきた。


「出雲さん。どうしたんですか」

「君と同じ。廊下の方がやりやすいから、体をほぐしにきた」


 出雲さんはショーの大トリなので、まだ着替える必要はない。しばらく二人で、黙々とストレッチをした。

 再び出雲さんが口を開いたのは、ひとしきり体を温めた後だった。


「フリー、いいプログラムだね。まだ曲に振り回されている感じが強いけど、完成したらものすごい点が出るかもしれないね」


 この人は、人を和ませるような冗談は言うけれど皮肉は言わない。


「今度は勝負だ。……全日本の舞台で」


 強者の笑みで出雲さんが告げる。グランプリシリーズはそれぞれ別の大会にエントリーしている。次に俺が出雲さんと大会が当たるのは、全日本。二ヶ月以上時間が開く。

 ……俺だって今のままじゃない。


「負けません」

「俺も。全力で叩き潰しにいくから」


 それだけ告げて、この話はもう終わり、というように出雲さんは顔を崩した。


「そういえば、日本のショーは随分久しぶりだな。随分お客さん入っているみたいだよね」

「今日はなに滑るんですか?」

「今期のショートだよ。初公開だからみんな驚くかもね。引かないでくれたら嬉しい。君は?」

「『水の変態』です」

「あれユーチューブで見たよ。俺好きだな。冷ややかでクールジャパンって感じがして」


 ……大変光栄なことだ。感想がどこかで聞いたことのような気がする以外。


 あと30分ぐらいで、ショーが始まる。出雲さんはバランスボールを抱えて控え室に戻っていった。……わざわざ、これを話しにきてくれたのだろう。律儀だと思ったけれど、全く嫌ではなかった。


「テツヤ」


 再び、誰かに呼ばれる。出雲さんでもなく、堤先生でもない。ハイトーンなディズニーボイスは、女性特有のもの。

 声の方向を向いてーー思わず息を飲んだ。


「ジョアンナ?」


 深海の瞳に、ブロンドの髪。輝かしいディズニー・プリンセスは、その影を潜めて沈んでいる。

 女子シングル六位、ジョアンナ・クローン。そこそこというか、結構悲惨な演技だった。

 ……だからだろうか。青い瞳から、しずくがこぼれ落ちそうになっていた。

 



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