5.7月、キャッスル・オン・アイス【前編】
『そんな経緯があったんだ。新潟に行ったらいきなり雅がヴォルコフと仲良くしていたから、何事かと思ったわよ』
「正直、私もびびったよ。まさか横浜駅のど真ん中で会うとは思わないじゃない!」
『でも、話してみるとそうなっちゃったのも何か納得できたわ』
「でしょ!? 期間中、ずっと私の後をぺたぺたとくっついていたし」
『刷り込みってやつじゃない? まぁ、ヴォルコフは生まれたての赤ちゃんじゃないけど、初めてできた友達ってのが嬉しくて、『この人と一緒にいよう!』って思って、距離がわからないのかもね』
時計の針は8時を指している。明日に備えて、練習を早くに切り上げ、ご飯を食べて風呂前の休息の時間だ。学校の課題も広げつつ、パソコンを立ち上げて名古屋にいる杏奈とスカイプ中だ。パソコンは父から前使っていたものを譲り受けた。世代がちょっとだけ古いけど、ネットをする程度には申し分ない。
カレンダーは7月の半ばを過ぎ、学校は夏休みに入っている。課題はそこそこ出ているとか、休みの日にクラスの子と映画に行ったとか、そんな話からやはりスケートの話になり、ルーティカの話になった。
「それで滑り出したらねぇ…」
『うん、すごかったわね。そう言うしかない』
アイスショーでは人間離れした演技を見せるけれど、素顔のルーティカはものすごく世間知らずでものすごく幼かった。そのギャップにちょっとついていけないような、それもルーティカだなぁと思うときもあれば。
「時々、妙に鋭いんだよなぁ」
人の心をつくような言葉を、無自覚のうちに吐き出す。
『鋭い? そういえば雅、新潟にいる時もちょっと複雑そうな顔をヴォルコフにしていた時があったわね。基本的には仲がいいんだけど』
杏奈も鋭い。気づかれていたのか。私がわかりやすいだけなのか。
「実は・・・」
隠し事はしたくないので、私はコスモワールドの観覧車で言われたこと、自分が思ったことをそのまま杏奈に伝えた。なるべく悲観的にならないように。
『確かに、嬉しいけどそれはちょっと複雑ね』
「分かってくれる?」
画面の中で、杏奈が無言で頷く。
『それに、雅の滑りは女の子の滑りじゃないって言われているみたいで、私も心外だわ』
横浜駅で遭遇して、私とルーティカは友人になり、ルーティカの一面を知ることで、私は彼のことが友人として好きだな、とごく自然と思った。あの言葉だって、ルーティカの口から自然と出た最大級の賛辞だという事ぐらい理解できる。
ただ・・・。それとこれとは別なのだ。
私の滑りは女子シングルではないのだろうか。
『なんだかんだで私たちのいる女子シングルって、保守的でしょ? 女子だから優雅な滑り、女子だから清楚な滑り、女性らしい滑り、綺麗で大人な演技っていうのを無自覚的に求めているところもあるように感じる時があるわ。そう滑るのが正しい、みたいにさ。でもさ、雅』
「うん?」
『今まで女子らしく、とか、優雅に、とか、そのあたりを意識して滑った事ある?』
「……うーん、あんまりないかな」
『火の鳥』の時は「無理して大人っぽく滑らないで」と堤先生に言われた。去年の『韃靼人の踊り』やショーでアリエッティを滑った時もそうだ。腕の動きや指先は綺麗に見せても、女子らしさを特に意識したことはない。
――綺麗に見せることと優雅に滑ることはイコールで結べない、と言ったのは堤先生だ。
『もし女子らしさっていうのが一番に反映されるのだったら、演技構成点て出づらくなっちゃうよね。でも、雅の演技構成点って、結構出てるよね。スケートは綺麗だし、つなぎもあんまり無理している風がないし』
「そこは修羅の総一郎仕込みだから」
父親のことを修羅と呼ぶとは何事か、と別の父を持っていたら言われそうだが、私の父は星崎総一郎だ。「鬼になるよ?」と最初に言われた言葉は全く的が外れていなく、練習が厳しくて「鬼! 悪魔!」と言っても「だから言ったでしょう。わめいていても何も変わりません。さっさとやりなさい」と氷上に戻される。
……言われるまで思い至らなかったけど、去年の演技構成点は、杏奈と縮んできていたのだ。ジュニア1年目はかなり離れていたのに。
『でしょ? 品があって私もものすごく参考になる時あるもの。だからきっと、そのまま技術を伸ばしていって、雅が「優雅に滑りたい」と思った時にそうなればいいんじゃないかしら。その時が、そう滑る時なんだから。無理して、優雅に、とか考えたら、雅の滑りじゃなくなっちゃうわよ』
「そうかなぁ」
杏奈が、本気でルーティカの発言に違和感を抱いているのも、心の底から私を励ましてくれているのもわかる。そして杏奈が言ってくれたのは、「自分が思う私の滑りの魅力」ではなく、「客観視された私の滑りの長所」なのだ。
その長所がしかるべき評価を与えてくれているならば・・・。
「うん・・・。そうかもね、ありがと杏奈」
あまり思い悩む必要も、なかったのかもしれない。
話してよかった。何となく、てっちゃんには話しづらいことだった。てっちゃんに話せないから杏奈に話した、っていう事じゃないけど、同じシングルでも女子と男子で違うからあまり理解は得られない気がした。
男子シングルにその競技特有の悩みがあるように、女子シングルには女子シングルの悩みがあるのだ。
『どういたしましてー。ヴォルコフの事はともかく。明日名古屋に来るんでしょ?』
この週末、私は関西の名阪テレビ主催のアイスショーに招待されていた。『キャッスル・オン・アイス』と称されたこのショーは、名古屋と大阪の二か所で開催される。国内のスケーターに加え、海外から何人かのスケーターも招待されていた。
「うん。てっちゃんも堤先生も一緒だよ」
このアイスショーの名古屋・大阪両公演に、てっちゃんと堤先生も招待されているのだ。
どうも私は、てっちゃんと堤先生とセットでショーに呼ばれることが多い。星崎雅は星崎総一郎の娘で、星崎総一郎は現役時代の堤昌親の指導者であり、現役を終えた堤昌親は鮎川哲也の師匠になった・・・という関係性からだろうか。しかし、父も母もほかの生徒をほっとくわけにもいかないし、見知った大人の堤先生がいてくれるのはありがたいのだ。
「てっちゃんも新しいエキシ滑るみたいだし、堤先生も新プロ用意しているみたいだよ」
『堤先生の新プロ? それは楽しみね』
「ほんとにね」
『ま、なんにせよ。今はとにかく楽しみましょ。じゃあ、お休み。また明日』
そうしてスカイプが切れた。
暗くなったパソコンの横に、半透明のクラゲのストラップがある。てっちゃんからもらったものだ。デトロイトに2週間滞在していた時、息抜きで水族館に行ったらしい。その時のお土産だ。
私はおさらいに、今回のアイスショーのメンバーを確認する。里村理沙。紀ノ川彗。堤昌親。鮎川哲也。安川杏奈。星崎雅。
海外からはエレーナ・マカロワ。アレクサンドル・グリンカ。ジェイミー・アーランドソン。チャン・ロン。キリル・ニキーチン。ステイシー・マクレア。マリーアンヌ・ディデュエール。アイスダンスのエリュシカ・クローデル&カミーユ・ラインハルト組。ペアのメリッサ・ミリガン&スコット・ズベレフ組。
それから……ジョアンナ・クローン。
水族館に、てっちゃんが一人で行ったとは考えにくい。だけど堤先生は行っていないと言っていた。
彼女、なのだろうか。やたらと親しそうに話していた姿が目に浮かぶ。
いや、別にいいんだけど……どうも苦手なんだよな。滑りというよりも、人そのものが。
*
『キャッスル・オン・アイス』の名古屋公演は、土曜日の昼公演と夜公演、日曜日の昼公演の計3公演だ。次の週末に大阪公演も同じ日程で開催される。会場はモリコロパーク。それぞれのショープログラムの他に、オープニングとエンディングを始めとするグループナンバーがいくつか滑る。
2日間のリハーサルとグループナンバーの振付を経て、今日は名古屋公演の初日。アレクサンドル・グリンカのロシア民謡『カリンカ』からショーはスタートした。
さて。ショーの時、地味に待ち時間が退屈だったりする。
確かにウォームアップは必要だ。勿論、観客からお金を頂くわけだから、気の抜けた炭酸ソーダのような滑りは見せられない。だけど、競技と違って極限まで集中力を高めて点数を競うわけではないから、そこまでがっつりとやる必要もないのだ。
なので……
「うわ、杏奈、最近こんなの読んでるの?」
「こんなのとは失敬な! アイヌの文化が知れて面白いじゃないの!」
たまに、控室のモニターやリンクサイドからちらちらとショーの様子を見たり、杏奈と最近ハマった漫画をめくったりしている。スポットライトが当たっただけのリンクを端からみるのは結構新鮮だ。
私の出番は前半のラスト2番目だ。その次に、前半のトリの堤先生。後半のトップバッターが杏奈。キリル・ニキーチンを挟んで3番目にてっちゃんが滑る。なお、大トリを飾るのは日本女子のエース、里村さんだ。
出番までそんなに時間があるわけではないので、演技が近づくころに準備運動をし始めた。
今回の公演はエキシビションナンバーを滑ることにしている。衣装は、黒い模様が入った白いワンピース。丈は膝まであるから、ちょっと長めだ。前にアリエッティを滑った時も長かったから、丈の長いスカートで滑るなんて慣れている。慣れないとスカートが絡んじゃったり重くて気になったりするみたいだ。
持参したヨガマットを敷いて、背中をひねったりして体を温める。会場はかなり盛り上がっているようだ。滑り終わった顔でわかる。ウォームアップを控え室でやる人もいれば、廊下で行う人もいる。私は廊下でストレッチをやるのが好きだ。戻ってきた人の顔を見ると、私まで楽しくなってくる。ヨガマットの上で寝そべっていると、今度は会場の方からチャン・ロンが……じゃなかった。やってきたのは、二人分の楽しそうな声。特にハイトーンのディズニーヴォイスが。
戻ってきたのはてっちゃんだった。リンクサイドで演技を見ていたみたいだ。……もう一人のディズニーヴォイスは……。
慌てて私は、誰が通ったのか分からなかった振りをして、うつぶせのまま足を付け根からひねる。どうも私は、二人の……てっちゃんとジョアンナが二人でいるところに遭遇してしまう気がする。
ストレッチをしたままでも、感覚でわかる。私から少し離れたところで二人は立ち止まって、そのまま立ち話を始めた。
よくよく聞いてしまえば、何を話しているか分かってしまう。英語が上達しなければよかったと思うのはこんな時だ。てっちゃんが殆ど相槌打っているだけっぽいのが救いだ。
……無心、というわけにはいかなかった。ジョアンナのハイトーンはよく響く。それだけで、無と唱えたはずの心を、錐みたいなものでぐりぐりと抉られていった。特に「水族館」「一緒に行った」というようなフレーズが。
てっちゃんは私がいるのに気が付いているのだろうか。それとも、気が付いていないのだろうか。気が付いていたうえで、出番が近い私を気遣って何も声を掛けなかったのだろうか。
やがて話が終わったのか、二人が動く気配がした。やっと終わってくれた。ヨガマットの上から立ち上がると、てっちゃんの後ろ姿を確認する。その向こう側に、金髪の若いマリリン・モンロー。ジョアンナの深海の瞳と目が合った。
私を確認したジョアンナが軽く笑い……てっちゃんの手を引いて控室の方に歩いて行った。
*
脳みそが止まったような気がした。廊下に、私たち以外誰もいなくてよかった。温めたはずの身体も冷えて、石みたいに固くなっている。クラゲのストラップは、やっぱりジョアンナと行った水族館で買ったのか。なんで一緒に行ったんだろ。どうしててっちゃんは、一緒に行ってもいいと思ったんだろ。でも。でも。
話した内容よりも何よりも、最後の手が一番嫌だった。
なんで、あんな風に手を握ったりするんだろ。ジョアンナの白くて長い指は、てっちゃんの手に一本一本しっかりと絡まっていた。恋人同士がそうするみたいに。勝手に目頭が熱くなる。
ああだめだ。もうすぐ出番なのに。油断しているとぼろっと落ちそうになる。こんなことで泣きそうになるとか、私、頭おかしいんじゃないのか? なんでこんなにショックなんだろう。普通だって。大丈夫だって。
思考が暗闇に落ちていきそうだった。
「みーやーびーちゃーんー」
急に、能天気な声と共に、左肩に奇妙な重みがのしかかる。左頬に、自分ではない誰かの髪の毛が当たっている。背中には妙な圧迫感。
私の暗い思考をかき消すには十分な、軽すぎる声。
「へっ?」
誰だ? と思う暇もなく。
「ふっ」
「……ひゃあああああああ!」
左耳に微量な吐息をかけられた。瞬間、耳元から背中に伝わって、足の裏まで悪寒が走る。き、気持ち悪! こんな気持ち悪いことするの、一人しか知らない!
「堤先生、何するんですか!?」
さっと足を動かして、重かった左肩を解放させる。想像した通りの人物だった。背が高くて、すっきりとした端正な顔立ち。軽薄さが服を着て歩いているような雰囲気と、底知れない深さという、相反する二つの要素を併せ持った男。
「びっくりした?」
そんな私の兄弟子は、わざとらしく目を丸くして聞いてくる。
「び、び、びっくりしたも何も! 心臓に悪いです!」
「よかったー。雅ちゃんがびっくりしてくれて。ちょっと固い顔してたから、ちょっかいでもかければほぐれるかなーと思ったんだよ! これ哲也は慣れちゃったみたいで、『いい加減にしてください』って塩対応するだけなんだよ。ま、それはそれでいいんだけどね。成功して嬉しいよ」
よくない。慣れるほどてっちゃんの耳に息を吹きかけた堤先生も十分おかしいが、慣れるてっちゃんもかなり変だ。まだ体に寒気が残っている気がする。こんなの慣れたくないよ。というか。
「そんなに固い顔してましたか?」
「うん、かなり。緊張は分かるけど、俺が作ったせっかくのプログラムが台無しになっちゃう」
……バレてたかな。嫌な思いを抱えちゃったことに。さっき見たものに、勝手にショックを受けて落ち込んでいた事とか。気が付かれていたんだろうか。
「それにしてもこのショー、ちょっと俺浮いてない?」
いきなり話が変わる。
「そんなことないと思うんですけど」
堤先生の意図が分からないので、こう言うしかない。
「いやいや。だってさー、平均年齢20歳前後じゃん。俺最年長で、皆現役バリバリじゃん。彗やキリルとも結構年離れてるしさー。君ら世代からしたら、俺はおっさんじゃん。もう少しでアラウンドフォーティーよ? トリノ世代が10年前なら、ソルトレイク世代の俺は長老になっちゃうよ」
「そういうことですか……」
彗とはバンクーバー五輪の銅メダリストの紀ノ川彗のことで、キリルは、ロシアのキリル・ニキーチンのことだ。紀ノ川さんは堤先生の次の世代の、日本男子シングルのエース。また、堤先生は現役の最後の年、父の許可を得て少しだけロシアに行っていたことがある。その時にジュニアだったニキーチンの家にお世話になっていたみたいだ。
ショー自体、14年に引退した紀ノ川さんを抜けば、出演するのは現在世界レベルで活躍しているアマチュア選手だ。確かに年齢や経歴で言えば、この中で堤先生は浮いている。プロ10年、34歳。出場した五輪は98年長野大会と、02年ソルトレイクシティ大会。この中で、堤先生の現役時代とキャリアがかぶっている選手が殆どいないのだ。私なんてソルトレイクの頃は赤ちゃんだったし、長野の時は生まれてもいない。そもそもその時、両親は結婚してないし。
「ま、お呼びいただけるならそれでこそ地球の裏側まで行くけどね。お客さんが待ってるし、本物を見せなきゃね」
リンクに至るまでの道を、堤先生がしっかりと見据えた。いつも通りの余裕の笑顔。だけど、目だけは鋭く光っている。髪を後ろになでつけ、黒いシャツを第3ボタンまで外した堤先生からは、普段の軽薄さが消えていた。シャツの隙間から、よく鍛えられた肩と胸筋が垣間見える。
浮いているというか、際立っていると思うんだけどな。ルーティカを見るだけで「氷」という単語が連想されるように、堤昌親を表す単語は「スケーター」なのだ。プロ10年というキャリアは伊達じゃない。
急に、頭の上が温かくなった。大きな手のひらが頭の上に被さっている。そのままいう事を聞かない子供をあやすみたいに撫でられた。
「な、なんですか」
「よかった。さっきの顔に戻らなくて。あんな顔で滑ったら、お客さんに失礼だよ。俺たちはスケーターなんだから。どんな時でも一番綺麗な姿で滑らないとね。たとえ誰かに複雑な気持ちを抱いていても、ね」
「……バレていましたか」
まぁね、と堤先生は笑う。
「君の事は赤ちゃんの時から知っているから」
理解されていたと思うと少し恥ずかしい。でも、不快じゃなかった。
頭を撫でるのは、よく知った大人の手だ。ちょっと父さんに似ているかも。そう伝えると、今度は複雑な笑いを作った。そんな時に、私の前の前、カナダのステイシー・マクレアが充足した顔で戻ってきた。お疲れ、と堤先生とステイシーがハイタッチする。
「さ。もう出番だろう。次は俺なんだから。滑り出したら君は霧の城の中の、ちょっと不思議な女の子だよ」
裾から見ているからね。
堤先生に優しく見送られて、私はリンクサイドに向かった。
*
がらくたの山が泣いているかのような電子音と、彼方から届く太古の音。それらが重なり、暗闇から、パッと私に照明が当たる。滑り出し、そこで足元……氷の上に薄い霧がかかっていると初めて分かる。霧は、会場の人に頼んでわざと入れてもらったのだ。
3拍子のストリングスからヴォーカルが重なる。思わず抱きしめたくなるような哀切を含んだ、男の子のソプラノ。
ボーイソプラノは穢れを知らない無垢な天使の声。……だから私も、お客さんの為だけじゃなく自分が使うこの曲の為にも、演じる時に余計なことを考えたらだめだ。堤先生の言うとおりだ。
迷路のような薄い霧のヴェールの中、静かに私は滑り出す。
今の私は、霧の中の少女だ。