4.デトロイト恋物語【後半】
デトロイトでの合宿は2週間。長くて短いような時間を、ただジャンプの練習だけに費やしているのではない。
後半のステップに入る。ステップで形状を問わなくなって久しいけれど、リンク一杯使わないとノーカウントになってしまう。今は、ショートプログラムの確認中だ。ところどころのエッジの深さに苦戦しながらステップを終え、イーグルから直接トリプルアクセル。「フリーが壮大な曲だから、ショートは少し甘い旋律にしましょう」というのは振付師の談。最初は懐疑的だったけれど、滑ってみると意外に悪くない。自分の好きな曲が自分の滑りと合うとは限らないし、「微妙かな?」と思ったものが滑り出してみると腑に落ちるパターンもある。
「うん、いいわね」
滑り終えての感想をアンジェリカから頂く。アンジェリカ・ケルナー。元アイスダンス世界王者で、現在は振付師兼指導者。目鼻立ちのくっきりとしたラテン系の顔立ちに、すらりと長い手足がよく目立つ。引退して久しいが、元アイスダンサーらしい華やかさは全く失われていない。
「最後のスピンの時、もう少し余韻をもって終われないかしら? 徐々に回転を緩めて行って」
初めての振付師だったけど、アンジェリカの振付は滑りやすい。動きや滑りから、ドラマ性を感じ取りやすいからかもしれない。最後のところだけ滑って、アンジェリカは「OK!」と親指と人差し指で丸を作る。
アンジェリカの横では堤先生が今滑った振り付けをiPadで撮影していた。一通り確認して、頷きながら先生はipadをアンジェリカに渡す。今度は彼女がカメラを回す番だ。
「じゃあ哲也。次フリー行くよ。ジャンプは全部3回転でいいから。とりあえず通してみなさい」
問題は、フリーだ。
基礎錬とクワドの練習と並行して、今月の頭にはフリーの振り付けは終わっていた。「今年シニア2年目になるし、今季は一旦がっつりクラシックをやろう」という先生の意向により選曲した。
ジュニアの時に使用した「パガニーニの主題による狂詩曲」の18変奏の場合はオケの音源ではなく、日本人のギタリストが編曲したクラシックギター版だった。去年のプログラムも、SPは「天国の階段」で、フリーは「リバーダンス」。純粋にショパンのピアノ曲とか、ベートーヴェンのソナタとかは滑った事が殆どない。俺にとって近いようでいて割と遠い所にあったのが、純粋なクラシックだったのだ。
一通り滑ってみて。
「うん。悪くはないけど、まだまだだね」
堤先生にバッサリ切られる。・・・自分で滑って、まだ体になじんでいないのがわかる。全然ダメ、が出なかった分まだよかったのだろうか。
「もう少し滑りに立体感が欲しいんだよ。今のままだと旋律の蟒蛇部分だけ救い上げて滑っているだけだからねぇ。・・・まぁ、今の時点で完成されていてもね。試合で滑るとまた様子が違うし、徐々にならしていけばいいさ」
隣に立つアンジェリカも似たような反応だ。悪くないけどまだまだ。
その後、先生とアンジェリカからこまごまと指摘を受ける。そこの音と動きがあっていない。ステップのエッジが浅い。後半のトリプルアクセルの前のカウンターのエッジがいまいち。もっと明確に。場合によって先生が実際に動いて指導する。腕のおろし方や滑りでの間の取り方。スピードを出さずにゆっくりと滑っているだけ。アンジェリカがipadのカメラで動きを撮り、俺と先生の動きの比較を見る。たまにアンジェリカからも指摘を受けた。
「過剰に表情作る必要はないから。その代わり、単調で退屈なエッジワークにならないように気を付けて。ジャンプも大切だけど、このプログラムの一番のキモはステップだよ。得意だから超絶的に盛り込んだから頑張って滑ってね。全日本までにそこそこ出来るようになればいいんだから」
一通りのダメだしを受けつつ、要所要所の動きを確認する。
そうして午前中のプログラム練習は終了になった。
その後は昼休みを挟みつつ、いつもの基礎錬とジャンプ練習を繰り返す。リンクの上にはジョアンナもいる。時折、彼女と目が合うと彼女は笑顔を向けてくる。先日一緒に帰った後から、ジョアンナはずっと楽しそうだ。
明日は休みで、ジョアンナの「お願い」を果たす約束をする日。
・・・彼女の「お願い」は、俺にはかなり荷が重い気がした。
*
待ち合わせは10時で、場所はスケートリンクのフロア。土地勘のない俺に考慮してのことだろう。今日は休養日。先生は「今日は部屋の中でごろごろ映画でも見てる」らしい。映画好きの先生は、休みの日には必ず一本は映画を見ている。
「あっつ・・・」
まだ午前中だというのに日差しが痛い。日本のように湿気がない分マシなのだろうか。リンクに着くまでに浴びた太陽光の量を測ってみたくなった。
普段ここに来るときは練習道具一式を入れたスーツケースを引いている。服装もユニクロのジーンズで、上はやっぱりユニクロのパーカーを羽織っていることが多い。今は、スーツケースではなくボディーバック一つ。パーカーではなくてジャケット。去年、堤先生が高校入学祝で買ってくれたものだ。ラインが気に入っているので、出掛ける時は着るようにしている。
約束の時間の5分前にリンクにつき、「お願い」した人間はまだ来ていないことを確認する。俺の休養日がリンクの休みの日というわけではない。デトロイトのリンクは2面あり、一つがフィギュア、もう一つがホッケー専用の一回り狭いリンクだ。普通に一般開放の日でもあるし、午後からホッケーのリンクでは練習試合が行われると聞いた。
だからフロアにもそれなりに活気がある。空調が効いていて、炎天下から歩いてくると天国のように思われた。ジャケットを脱いでいたら、顔見知りになったダイアナさん――このリンクの従業員で受付と貸靴の管理をしている――に、あれテツヤ、今日練習? その割に荷物がないね? と受付のカウンター越しに話しかけられる。
「今日はちょっと出かけるんだよ。だから人を待っている」
「へぇ。誰と? ここってことは、リンク生でしょ?」
「ジョアンナと」
ダイアナさんは純粋に疑問からで、俺はそれに普通に答えたはずだ。しかしダイアナさんは、俺の答えに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「やだ、そういう事? そういう関係?」
……何を邪推しているのかは、俺でもわかる。違いますよ、そういうのではないです。ただ、スケートのプログラムの為に出掛けるだけです。いいのよ、何も言わないで。道理で今日かっこいいと思ったわ。わかってるから。……ちょっと待って。ダイアナさん、変な邪推をしてないよな?
そうこうしているうちに時間になり、ジョアンナがやってくる。柔らかそうな半袖のブラウスに、空色のリボンタイ。デニムのミニスカートに黒いストラップシューズを履いた彼女は、やはり結構な美人だ。
「テツヤ、お待たせ! ごめんね」
「いや、俺が5分早く来過ぎただけだから、気にしないでくれ」
俺も時間通りにやってきていればダイアナさんから変な邪推をされることもなかっただろう。自分の行動を少し恨んだ。
「ジョアンナ、おはよう。今日、とってもかわいいね。ねぇ、テツヤ」
「へ? あ、ああ。いいんじゃないのか」
……何でそこで俺に振るんだ、ダイアナさん。
「ありがとう、褒めてくれて嬉しい。テツヤも、凄くかっこいいよ」
俺の返答はほぼ脊髄反射で、別に褒めたわけではないような気がする。だから顔を赤くして過剰に喜ばれても申し訳ない。似合っているから、悪いものではないけど。
「じゃあ、行きましょ! チケット早く取らないと混んじゃうもの! じゃあねダイアナ、また後で!」
楽しくて仕方がない、というように、白くて長い手足を伸ばしてジョアンナがフロアから飛び出す。
ジョアンナの「お願い」。
それは「恋人とデートしている、という風体で一緒に出掛ける」ことだ。
チケットを買うために並びながら、先日のジョアンナとの会話を反芻する。
『一日だけ、恋人の振りをして一緒に出掛けてくれない?』
目を丸くしている俺に、いきなり驚かせてごめんなさい、と続ける。
『今年のプログラムのテーマは、ショートもフリーも「恋」なの。でも、さっきも言った通り、私は恋愛経験にも乏しいし、好きな人がいるけど一緒に出掛けたこともない。だから、想像してみたいの』
流石にそれを聞いた時は面食らった。確かに友人だが、俺よりも親しくしている友人はいるだろう。例えば同じアメリカ人のジェイミー・アーランドソン。例えばカナダのアーサー・コランスキー。例えばロシアのアレクサンドル・グリンカ。三人に共通しているのは「ジョアンナと仲がいい」ということだ。どう考えても俺よりこの三人のうちの誰かが適任だろうとは思うのだ。それに何もスケート仲間ではなく、普通の友人でもいいはずだ。
しかし。
『マサチカがデトロイトにいる間に、プログラムのイメージを掴んでおきたい。そうしたら少しステップアップしたアドバイスが貰えるかもしれないし』
そう言われると断りづらい。
彼女はプログラムの表現について悩んでいるのだ。その悩みが解決すれば、プログラムの完成に近づくし、セカンドマークにも反映される可能性もある。似たような悩みは俺も抱えているから、その辛さは理解できる。理解できるからこそ、余計に断りづらかった。
「はい、テツヤ」
思考を解き放つと、ジョアンナが口角を釣り上げてチケットを渡してくる。俺が考えている間に、二枚分購入してくれたようだ。
……深く考えても仕方がない。今、俺がすべきことは二つ。ジョアンナがプログラムのイメージを掴めるように、恋人らしく振舞おうとすること。そして、この状況を少しは楽しもうという心がけだ。
旅は道連れ、という昔の堤先生の言葉を思い出しながら。
*
「好きな魚、なに?」
「イワシかな。骨までおいしいし」
「ごめんなさい。言い方が悪かったわ。水族館の魚で、何が好きって意味」
「・・・クラゲ、かな」
「魚じゃないじゃない。じゃあ、マンボウは?」
「嫌いではないけど、クラゲほどでは」
水槽の中で、大量のマンボウが群れながら泳いでいる。言った通り嫌いではないが、特別に好きだと感じたことがないだけだ。
水族館という場所について。例えば池袋のサンシャインやスカイツリーのすみだ水族館の賑わいを思い出してみる。サンシャインは行ったことがないけれど、休日になれば「混んでいた」という話しか聞かないし、大分前にすみだ水族館に行った時は、ゴールデンウィーク後なのに人込みで酔いそうになった。
デトロイトの水族館もそこそこにぎわっている。小魚が泳ぐ水槽のトンネルを抜けて、ペンギンを見て、今、マンボウにたどり着いた。イルカのショーも見るべきなのだろうか。ヨロイザメの外見は勇ましく、シーラカンスはのびのびとまどろんでいた。ジョアンナと魚の話をして魚を眺めながら、彼女のペースで進める。
水族館は不思議だ。本来、水槽という閉塞的な場所にいるのだから、魚たちにとっては窮屈なのではないか、海の中ならもっと広く泳げるだろう、と思ったこともあった。
しかし俺たちフィギュアスケーターが不足なく60×30メートルのリンクで滑るように。水槽の中の魚も、自分が「泳げる」という事実だけが実は必要なのかもしれない。
「別に水族館の水槽の中って不自由じゃないよな」
日本語で呟く。隣にいたジョアンナが、何? と目で問いかけてくる。英語でそのまま伝えた。それもそうかもしれないけれど、と話し始める。
「こう、人に見られていると、魚も別の世界に憧れる気持ちも持ってしまう気がする。アリエルだって人間の世界のものがあったから、人間に憧れてエリックに恋をしたんだから」
そんなもんだろうか。
「誰だって憧れから入るものよ。憧れる気持ちが、その人間を魅力的に映して、きっと恋になるの。私がその人を好きになったのもそうだったわ」
彼女にとってはそういうものらしい。そう言われると、少しだけ理解はできる気がする。一つの事実として、星崎雅がスケートを始めた理由は俺だったから。違うと言われそうだが、俺にとっての一番近い参考例がこれだから仕方がない。
マンボウを通り過ぎて、暫くエンジェルフィッシュやらを見ているうちに、クラゲのエリアが近くなった。
青白いライトが水槽と中のクラゲを照らす。光と水とガラスが合わされば、どんなものでも綺麗になる。水族館の水槽が綺麗なのは、ガラスの中の水とガラスの外の光が相互関係を得るからだ。魚がいれば猶更神秘的に見える。
俺が思うに、その中でも筆頭的に美しいのはクラゲだ。
透明になったり不透明になったりするクラゲ。水の中で光を受けて輝くクラゲ。水槽の中のクラゲは、夜空の中の星に似ている気がする。一億年の彼方から地上に光を運んでくる星と、一億年の昔から変わらない形のクラゲ。
静かだった。人の話声も、会場の音声も、水とガラスを隔てた向こう側からぼんやりと聞こえてくる。
暫くクラゲを眺めていた。水槽から離れたところに、椅子があったのでそれに座る。隣で長い足をぶらぶらとさせるジョアンナと、クラゲについて話す。確かにこれは綺麗かも、と彼女は言ってくる。クラゲの水槽のあるエリアは、少し狭い上に地図上ルートから逸れている。静かなのもそのお陰だろう。だからか、俺と同年代の男女がいるぐらいだ。
恋人同士だろうか。指先まで絡めて手を繋いでいる。彼らも何も話さず、海の底のような空間の中でクラゲを眺めている。床に敷いてある黒いカーペットが、一層の静けさを演出している。
「あ」
彼らは、後ろに俺たちが座っているのに気付いてはいるのだろう。気付いてはいたけれど、気にしてはいないのだ。
水槽の目の前の男女。その男の方が、なんの前触れもなく女の顔を覗き込んでその唇にキスをした。素早い動きだった。水槽に映った女の顔が突然の接吻に驚いていたところで、顔を反らして床に目を向ける。
き、気まずい。ここにいるのも気まずいので正直さっさと動きたいが、ここで動くのも気まずい。打つ手がない。終りになってくれ、と思いながら、その想いは空しく、むしろ激しさを増している気配すらしてくる。これじゃ俺がデバガメしているみたいじゃないか。
時間にして一分ぐらい経過しただろうか。ようやくその気配が消えて、二人分の足音がカーペットに吸収されていった。
深く息をしながら顔を上げると、クラゲたちが揺れていた。クラゲたちにとってはこういう出来事も実は日常茶飯事なのかもしれない。一分間の出来事も知っているはずなのに、何も変わらないクラゲ。何てメンタルが強いんだ、クラゲ。
「びっくりした・・・」
間抜けな声が吐き出される。思わず言語が日本語に。
もっとも俺にとっては、ただただ心臓が悪いだけの出来事だった。俺と似たような年の男女という点が、余計に心臓を悪くさせた。
はーっと隣でジョアンナが息をつく。
「恋人同士って、あんな風にキスするのね」
「・・・見てたのか」
目をそらすタイミングでも逃したのだろうか。彼女に同情した。俺が言えることではないが、ジョアンナにとっても刺激が強いものだったのだろう。
無邪気な子供の声が響いてくる。家族で来たらしい一軍が、クラゲの水槽にやってきた。さっき見たものが幻だったのか、同じ場所とは思えなかった。幻にしては妙に生々しかったが。
不意に右手を握られる。白い手だった。白くて指が長い、少女の左手。爪は薄い桃花色で、左の薬指だけ赤かった。
「行きましょ、テツヤ」
俺の右手とジョアンナの左手の水かきがそれぞれ合わさる。
「さっきのカップルはこうやって手を繋いでいたわ。だから、恋人同士はこうするらしいわよ」
*
水族館の後は、イオンモールを倍にしたかのような大きさのショッピングモールに行った。フードコートの中で適当に昼飯を食べ、モール内の中をぶらついた。彼女によると、デトロイトの街は治安が良くないので、往来を歩き回るよりも建物の中の方が断然安全だそうだ。このモールはよく友人とも来るらしい。あそこに何があって、ここに何があってと教えてくれた。
……モール内でジョアンナの学友と遭遇し、朝ダイアナさんがしたような誤解を受け、また「恋人のように振舞う」という彼女の「お願い」上、否定もできずに冷や汗をかいてしまったのもハイライトシーンだ。
賑わう商業施設。手を繋いだまま隣を歩く少女。水族館がデートスポットの理由がはっきりと分かった。魚を見ていれば話をしなくても間が持つ。無理に人に合わせなくていい。水族館は、そんな利点がある場所だ。
退屈をしているわけではない。気まずいわけでもない。「手を繋ぐと恋人のように見える」というジョアンナの談は間違ってはいない。ジョアンナは友達だし、俺は友人としての好意を持ってはいる。話すのは苦ではない。だが。
……息を吐き出す。慣れないことに対する疲れは禁じえなかった。
ジョアンナは今、この場にはいない。手洗いと一緒にちょっと買ってくるものがあるようで、別行動をしている。深く息を吐いているところなんて、少なくとも今日だけは彼女の目の前では出来ない。ずっと楽しそうにしている分、猶更。
簡単にメッセージを送って、座っていたベンチから立ち上がる。土地勘はないが、モール内の同じ階にいれば大丈夫だろう。少し一人で歩きたかった。ジャケットを脱いで数歩進んでみると、肩の力が一気に抜けた。改めて見回ると、やはり女性向けのファッション売り場やアクセサリーショップが多い。
過剰にディスプレイを飾り立てる合間を縫って、その店はあった。
雑貨屋だった。本があって、雑貨があって、アクセサリーがあって、CDがある。置いているものはヴィレッジヴァンガードに近い。だが、ヴィレッジヴァンガードの宝箱をひっくり返したかのようなノリのいい愉快さではなく、綺麗に並べられた宝石箱のような落ち着きを持っていた。過剰な商業性ではなく、「入りたければどうぞ」という心地よい傲慢さも。吸い寄せられるように入ってみると、レジにいる日系の女性が少しだけ笑った。
装丁に凝ったSF小説があると思えば、ゾンビの置物がある。一粒パールのピアスがあると思えば、羊の毛で作られたもこもこの帽子ある。一貫性がないけれど、置いてあるものは全て質が良い。
こういう店は雅が好きそうだ。横浜の赤レンガ倉庫にも似たような店があるらしいし、教えたら喜ぶかもしれない。もっとも、デトロイトのショッピングモールに来るようなことがあれば、の話でもあるが。
雅と言えば、件の写真の後は「横浜で拾ったから友達になった。詳しくはおいおい」としか送られてこなかった。どこの世界でトップスケーターを拾うなんてことが起こるんだ。聞きたいことは色々あるが、そのうち雅が話してくれるだろう。
一つ一つ丁寧に並べられた商品を眺めていく。すると、妙に親近感のあるものに出会った。
スケート靴のペンダントだった。銀盤にふさわしい銀色のチェーンとスケート靴のペンダントトップ。スケート靴と一緒に、星のチャームも付いていた。星のチャームはダイヤっぽい何かがはめられていて、揺れるときらきら光る。
……疲労からだろう。スケート靴のペンダントを手に取ってみる。案外軽い。案外安い。そして、その軽さと安さが疲労から麻痺した感覚器官を動かしていた。
店を出て元の場所に戻ると、俺が座っていたところにジョアンナが座っていた。お帰り、何か面白いものあった? と聞いてくる。目を引くものならあったけれど、特にはないかな、と答える。
スターバックスでコーヒーを飲み、モールを出て駅に着くころには茜色の空が広がっていた。集合がリンクなら、解散は駅だ。
「今日はありがとう。とても楽しかった」
「プログラムの勉強にはなった?」
勿論、とジョアンナは答えた。
「今年はシニア2年目だから。ジャンプだけじゃなくて、もっと表現を磨かなきゃ。周りのスケーターはもっと凄くなっているからね。それに……とてもドキドキしたわ。帰るのが名残惜しいもの」
それはよかった。俺は特別何もしていないが、いるだけでも効果はあったらしい。
しかし彼女はこれでいいのだろうか。俺を代わりにするのではなく、彼女が好きだという本人に直接アクションした方がよかったのではなかろうか。恥ずかしいから今はできないのか。振られるのが怖いからできないのか。代わりの人間だったら、想像で好きな人にすり替えられるから楽しそうにもできるのか。
女性の心はよくわからない、と思っていたら駅前のロータリーにバスが入ってくる。番号を確認すると、ジョアンナがいつも乗っているバスだった。
俺の顔に何かついているだろうか。じっとジョアンナがこちらを見つめてくる。夕日の傾斜がだんだんと下がってくる。下がって、逆光になって、友人のフィギュアスケーターの顔を隠す。
それが触れたのは本当に一瞬だった。
ジョアンナの顔がそこから離れた。黄金の髪。深海の瞳。白い肌の、輝かしいディズニープリンセスの顔が間近にある。意識したのはなぜか、ボディーバッグの中にある、スケート靴のペンダント。
・・流石に戸惑う。今彼女、俺に何をした?
「これはただのお礼。だから、気にしないで。また一緒にどこかに行きましょ」
俺が何か反応するよりも早く、ジョアンナは笑って踵を返す。朝と同じように軽快な足取りで、バスに乗り込んでいった。
ジョアンナを乗せたバスが発車し、ロータリーを回って見えなくなるまで立ち尽くしていた。
「びっくりした……」
本日二度目の間抜けな自分の声。欧米人のお礼って大胆だ。
……いや、それとも。
頭に浮かんだ考えを速攻で打ち消した。彼女の好意は一周回って俺に向いている。そんな筈はない。
*
その後いつものように地下鉄に乗り、寄り道もせずにウィークリーマンションに戻った。長い一日だった。今日は、夕飯を食べたら何も考えずに空でも眺めたい。そうすれば少しはリセット出来る気がする。そんな思いで玄関を開けた。
「ただい」
「やっと帰ってきた!」
最後の「ま」は同居人によってかき消された。
「テツ! 新しいプログラムを作るから、今からリンクに行くよ! リチャードに話をつけてリンクを使わせてもらうから!」
その同居人である堤昌親は、玄関入ったところで仁王立ちして立ちふさがっていた。見れば、横には練習用のスーツケースが置いてある。今からリンクに行く。今から……て。
この人、何言っているんだ? 今何時だと?
「……今からですか?」
「そう、今から! 今すぐに行きたい!」
「今から、誰の、なんのプログラムを作るんですか?」
「誰のかは決めてない!」
この人、一体何を言っているんだ? 誰のか決めてないのにプログラムだけ作るのって、おかしくないのか?
「しいて言えば、滑ってほしーなーという人はいる。でもその人が滑ってくれるとは限らない。しかし! しかし俺は今すぐに、頭の中に出来上がったプログラムを作ってしまいたい! 君がいない間編曲もできたし。だからテツ、いつものようにアシスタントよろしく!」
堤先生が自分用のプログラムを作る時、俺は音楽をかけたり撮影したりと手伝いをするときがある。見せ方やどういう風に表現したらいいのかの勉強になるのだ。
だが、今日今からというと、スケートとは別の疲労が体を支配していたからか、あまり気が乗らない。
先生は氷の上の住人だ。指導者でプロスケーターで、たまに振付師になる。氷の上の創作者としての性が駆り立てられる時がたまにあり、こうなったら止められない。
止められないと知っていても、聞かずにはいられなかった。
「明日じゃダメですか・・・?」
「何言ってんの創作は水物なんだよ! 頭の中で案が浮かんだ瞬間にリンクに行かなきゃ! そして頭から離れないうちに作らなきゃ! ケッサクが生まれる瞬間をみすみす逃してなんていらんないよ! っていうのもさ、俺さっきめっちゃくちゃおもしれー映画見てさ! リチャードから借りてね、ヒーローものなんだけどヒロインの女の子がめっちゃ強くてガンアクションもやるし登場人物の誰よりも悪人を虐殺してキメる時も放送禁止用語のオンパレードでさ! ああああもうなんで俺、これを今まで見逃していたんだろう!」
「待ってください! ちょ、待てって言ってんだろ! 服を引っ張るな!」
カタパルト並みの勢いで堤先生が俺を引っ張っていく。
そういうわけで、これから俺はスケートリンクに行くらしい。
長い一日はまだ終わってはくれなかった。