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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017
27/66

2.横浜デート【後編】

 その後。まず私は駅ビルの中の百円ショップに行き、薄いニットの帽子を買ってアンドレイ――ルーティカの頭にかぶせた。大丈夫だとは思うけれど、週刊誌のネタにならないためのちょっとしたカモフラージュだ。これで顔さえじっくり見られなければ、「フィギュア界が誇るトップアスリートのアンドレイ・ヴォルコフ」から「異常にかわいい外国人の男の子」になる。


 そしてスーツケースを片手に横浜市中を回った。彼にとって慣れない街だ。重い荷物を引っ張って歩くより、手ぶらなまま街中を見てもらった方が楽しめるだろう。スーツケースは意外に軽く、衣装と靴と着替え程度しか入っていないのが伺えた。

 横浜駅の周りを少し歩いた後、みなとみらい線で海の方に足を延ばした。行先は赤レンガ倉庫だ。中華街かどちらかで迷ったけど、中華街の方がアイスパレス横浜までの距離が遠いことに気が付いたのだ。

 ……Suicaの使い方がわからないルーティカを、私が置いていきかけたのもハイライトシーンだ。


 赤レンガ倉庫の中にはバラエティに富んだショップが沢山ある。なんとなく冷やかしつつ、ショップを回った。この手のウィンドウショッピングは、私は嫌いじゃない。たまに杏奈と遊ぶとよくやるし。

男の子には退屈かなぁと多少は心配だった。しかしルーティカは、エスニック雑貨屋のモアイ像の置物にくぎ付けになっていたり、インテリア雑貨屋のアルパカの抱き枕をもふもふしたりグリーンティーカフェの抹茶ラテに顔を輝かせたりと、それなりに楽しんでいたようだ。


「この倉庫の横ね、冬は屋外リンクになるの。ちょっと狭いけど、皆で滑ったりしてね。夜になると周りがライトアップされて結構綺麗だよ」

 赤レンガを出た私は、冬季限定で赤レンガに現れるスケートリンクについてルーティカに話した。グリーンティーカフェで購入した抹茶ラテの紙カップを両手に持っている。相当気に入ったようだ。

「ここがリンクになるの?」

「うん」

「――赤の広場みたい。でも赤の広場と違うのは、海が近いところだ」


 モスクワの赤の広場には冬になると屋外スケート場ができる。聖ワーリシー寺院に見守られるリンクは、赤レンガのリンクとは比べ物にならないほど美しいのだろう。

 でもこのリンクはこのリンクでいいところがある。ルーティカは、そのいいところに気がついてくれた。多分ここにできるリンクは、世界で一番海が近いリンクだ。潮風と氷上。ライトアップと真っ黒ともいえる海。限りなく人工的なものと地球が誇る雄大な海が隣り合わせになっている。潮風と氷なんてそう一度に味わえるものではない。


「赤の広場のリンクは滑った事あるの?」

 ふるふると首を振る。

「寒いし、毎日リンクに行ってるから、わざわざ行かないよ」

 そりゃそうかと納得する。私だって赤レンガのリンクは一回ぐらいしか来たことがない。地元だし近いから行ってみたいけれど、きっかけがないと行く気にもならないものだ。

 再び赤レンガの広場をぶらぶらと回る。会話らしい会話は途切れがちだが、苦にはならない。ルーティカはルーティカで話したいときにしか口を開かない。変に気を遣わなくていいから楽なのかもしれない。


「あれ、何だろう」


 ルーティカが目を輝かせながら、あれ、と指したもの。時間をかけて巨大な円を描く、遊園地の代表各。乗ったことはないのだろうか。でもファーストフードも初めてだったみたいだから、多分、存在そのものを知らなかったのかもしれない。


 ――よこはまコスモワールドの大観覧車だ。


「乗ってみたい?」

「うん。ミーシャ」

 コスモワールドそのものの入場は無料だったから、お金は観覧車のチケットだけでいいはずだ。浜っ子を自称する私だが、この手の遊園地にはとんとご無沙汰していた。久しぶりに乗ってみるのもいいかも。


……ん? ちょっと待って。


「ミーシャって私のこと?」

 ミーシャって確か、男性名ミハイルの愛称だったのでは。私はミハイルではなくミヤビだし。聞き間違いだろうか。

 ルーティカが人形のように、こっくりと頷いた。

「うん。ミーシャ。ミヤビだと言いづらい。だめ?」

「ダメじゃないけど……」

「なら問題ない」

 駄目ではないが、私はミハイルではないし、そもそも男ではない。まだミヤーチカとかの方がわかりやすくないか?


 私の疑問とは裏腹に、ルーティカは観覧車の入り口に向かってとことこと前を進む。入る際にずいぶん可愛い彼氏だねと係のおじさんに言われる。彼氏? そう見えるのか? ちょっと不思議だ。彼は雲の上の存在にしてどこぞの国の王子のような箱入りスケーターだから、私は彼女というよりどちらかというと従者に近いのでは。


 観覧車はゆっくりと登っていく。ふわっと機体が地面から離れ、だんだんと窓から見える景色が変わっていった。その感覚が不思議らしく、ルーティカは暫く窓の外を眺めていた。「あっちがロシアー」と海を指してルーティカはのたまう。あっちはアメリカだよ、あれは太平洋だからと私が突っ込んだり。「あれがさっきいたとこー」と赤レンガを指して言ったり。


「ヨコハマって楽しいね。赤い倉庫にぐるぐる回る器械がある」

 思わず苦笑いしてしまう。観覧車ぐらいどこにでもあるだろうに。……本当に乗った事ないのか。


「今年の開催が横浜だったらもっと案内出来たんだけどね」

 こればっかりは連盟の決定だったら仕方がない。明日には新潟に行かなくてはならない。

「ミーシャはずっとこの街に住んでるの?」

「うん。生まれも育ちもここ」

「テツヤ・アイカワも?」

 ルーティカの口から初めて、チャイコフスカヤコーチと私以外の名前が出た。その名前に少し驚いた。失礼ながら、ルーティカは他人に対してあまり興味を抱かないと勝手に思っていたのだ。


 私は軽く首を振った。てっちゃん――鮎川哲也は北海道釧路市の出身だ。湿原とタンチョウの街。地元のリンクが閉鎖したため、フィギュアの練習のために横浜に来たのだ。


「テツヤは今回なんで出ないの?」

「あー……、てっちゃんは今デトロイトなんだ。帰ってくるのは来週末かな」

 そう。今回のエキシビションは出ないのだ。


 一応スケート連盟が主催していて、しかも日本代表のエキシビションなので、世界選手権代表のてっちゃんや世界ジュニア代表の私が出るのは殆ど義務に近い。欠場する時は実は連盟に理由を書かなければならないのだ。


 今回てっちゃんが欠場する理由は、デトロイトへと来シーズンのショートの振り付けに行くからだ。次のショートはデトロイトにいる有名振付師に依頼するようで、日程を調整していったら6月下旬になってしまったのだ。

 しかし、デトロイト、という場所が少し引っかかる。デトロイトって言ったらてっちゃんの師匠で私の兄弟子である堤昌親の元コーチがいる処で……。


 ジョアンナ・クローンの練習拠点だ。


 マリリン・モンローを溌剌としたアメリカンガールにしたようなルックスの実力者だ。昨季全米選手権2位、世界選手権7位。アメリカ人らしいスポーティで基本に忠実なスケートに、完璧な形のビールマン。仲がいいスケーターも多く、てっちゃんもその一人だ。

 ……私は、何か苦手なんだよな。どうもいつも睨まれているというか、表面上は出していないつもりらしいけど、私に対してとげがあるような……。


「楽しみにしてたのにな……」


 私が悶々と考えている時、ルーティカはルーティカでてっちゃんの事を考えていたみたいだ。明らかにしょんぼりした顔で俯いていて、まだ抹茶ラテの紙カップを抱えている。飲み終わっていなかったのか。


 私はてっちゃんがルーティカに拘っているのを知っている。ルーティカは彼にとって、エベレストよりも高い頂であり壁で、いつか必ず追い越したい相手だ。あの宇宙人め、とつぶやきながら練習するてっちゃんは、いつもちょっと楽しそうだ。

 前にてっちゃんが、大会の通路でルーティカに声掛けられたことを話していたな。本人は認めないかもしれないけど、それもかなり嬉しそうに。

 そして先に話を掛けたのがルーティカだとしたら……。


「その抹茶ラテ、てっちゃんも大好物だよ」


 私は目の前のロシア人に、鮎川哲也の情報を投げた。ルーティカはわかりやすく、顔をあげて私をまじまじと見つめてくる。

 多分ルーティカも、てっちゃんが彼に抱いているのと同じぐらい、てっちゃんに対して興味を持っているだろう。


「コーヒーも好きだけど、抹茶も結構好きなんだよ。それから、散歩が好きだよ。このあたりも音楽聞きながらよく歩いてる。ランニングもするときもあるけど。たまに実家の方に帰ると、何も聞かずに散歩したり湿原の中でぼーっとしているみたい。後は……全日本で表彰台に上がった時、堤先生からお祝いで天体望遠鏡もらってたかな」

「……よく知ってるんだね」

「家近いし、一緒に練習しているし。今度機会があったら話してみなよ。結構嫌がらないで聞いてくれるから」

「本当に?」

 ぱちぱちと鳶色の瞳を輝かせる。

「うん。絶対大丈夫。少なくとも、変な顔はしないから」


 私は自信を持って頷いた。目の前の彼は、むしろてっちゃんがこの世で一番雑に扱わない相手ではないだろうか。壁だ宇宙人だと思っているのは、誰よりもルーティカに敬意を持っている証拠でもある。


「テツヤの滑りはさ。見ていると不思議な気分になるんだ。うまくことばには表せないんだけど……」


 私たちが乗っている機体が、ちょうど円の真上に来た。これ以上高くは登れない。あとは降下するだけだ。


「なんて言ったらいいんだろう。……音があふれているって言えばいいのかな。ひとつの音を大切にしているって言えばいいのかな。やっぱりよくわかんないや。無理にことばにできない気もするし、しちゃいけない気がする。でも、そのよくわかんないところが、ぼくは好きだ」


 機体が降下する。その動きと全く比例はしないけれど、太陽も自らのペースで西に傾き始めた。今日は6月の梅雨らしい湿気がまとわりつくような天気ではなく、雲一つない晴天だった。オレンジ色の淡い光が、ぽつぽつとてっちゃんの事を語るルーティカの金髪を鮮やかに染め上げていった。


 そうか、ルーティカも私と同じように感じていたのか。

 てっちゃん、宇宙人は結構、あなたの滑りをちゃんと見ているよ。それも、かなり確信に近い形であなたの魅力を捉えている。


「ミーシャの滑りも」


「私も?」

 何となく誇らしい気分になっていたら……。そこで何故、私の話になるのだろうか。


「だって見てたもん。ファイナルはジュニアも一緒だし、今年の世界ジュニアもユーロスポーツで見た」

「……見てたの」

 衝撃的な事実だ。世界ジュニアはアレーナが録画してくれたから、とルーティカが付け足す。


「ミーシャの滑りは強者だよ。力強くて、潔くて。ぼくは好きだ」


 ルーティカの、ロシア語訛りの不安定な発音の言葉が、私に刺さった。去年の私のプログラムは、SPは『ロビンフッド』で、フリーはボロディンの『韃靼人の踊り』だった。

 見ちゃってくれていたのか、と思うと恥ずかしくもある。でも、見てくれていたのか、と思うと……彼に見られていたという事実がとても嬉しい気がした。


「ありがとう」


 私は刺さった理由は明かさずに、ルーティカに感謝を伝える。


 観覧車を降りるといい時間になっていた。そろそろリンクに行かないと、今日の午後の練習が全くできなくなってしまう。名残惜しそうにルーティカは観覧車を見上げ――さっきまでぶらぶらしていた赤レンガの方に目を向けた。


「またいつか遊びに来る。冬がいいな。ロシアナショナルが終わった後とか。海辺のリンクで、だらだら滑りたい」


 ……嬉しいことを言ってくれる。最初話した時は興味なさげだったのに。


「勿論。またおいで。じゃあ、私がモスクワに来たときは、赤の広場のリンクに連れていってくれるかな」

「モスクワに来てくれるの?」

 いつかね、いつか。いつになるかはわからないけど、そう遠くない時に行けたら。


 私はそう言って、再びルーティカのスーツケースを持って歩き出す。

 改札を抜けて電車に乗り――ぽつぽつとルーティカと話しながら、観覧車で彼に言われたことを思い出す。


 ――ミーシャの滑りは強者だよ。力強くて、潔くて。ぼくは好きだ。


 刺さった理由はしっかりとわかっている。ショック、というものではない。ただ、少しばかりとげのようなものとして私に残ってしまっていた。

 どんな時でも、私らしく滑りたいとは思う。だからルーティカにああいってもらえるのはめちゃくちゃ嬉しい。見ていてもらえたのは嬉しい。あなたの滑りが好きだ、と言ってくれたのは泣きたくなるほど嬉しい。


 嬉しいけど。


 ……それって女子シングルの滑りとしてはどうなのだろうか。自分らしく滑りたいとは別の次元で、そう考えてしまっていた。




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