1.横浜デート【前編】
2016年6月下旬。
アイスパレス横浜はJR横浜駅から徒歩10分と便がいい。私の家は横浜市だけど、通っている高校は鎌倉にあるので、横浜駅は毎日使うのだ。
今日の授業は5時間目まで。フルで授業を受けた後リンクに向かう予定だった。
――JR横浜駅のど真ん中で、彼を見かけるまでは。
「あれ……?」
氷上で演技を見るだけではなく、彼とは直接すれ違ったことが幾度かある。ホテルのロビー。大会の通路。間近で見る度に、氷の彫像のごとく人間離れした美しさを思い知ったものだ。だから見間違いではない。
……正直、驚いている。何故、横浜駅に彼が? 私服姿の彼を初めて見る。チェック柄のスキニージーンズに薄手のパーカー。細い体つきのせいか本人の素材がいいからか、ものすごくスタイリッシュに見える。帽子とか何もつけずに、月花のごとき黄金の髪を惜しげもなく晒している。握りしめているのはスーツケース。
「あ」
名前の続きを言おうとして、言えなかった。
彼が、じっと見ている私に気が付いたからだ。
「ミヤビ・ホシザキ」
距離にして二メートル。彼は私に向かってきて、ロシア語で何やら言ってくる。ソプラノとアルトの中間のような独特な声だけど、何が何やら意味が分からない。何、何、何を言って……。
「プリーズ、イングリッシュ!」
私の唐突な言葉に、彼は鳶色の瞳をぱちぱちとさせた。
「英語喋れるの?」
「少しぐらいなら」
親指と人差し指でほんの少し、と尺を作る。
フィギュアスケートの共通語は英語だ。記者会見やインタビューも英語で行われるが、それ以前に、外国の選手や振付師とコミュニケーションが全く取れなくなってしまう。何だかんだフィギュアスケートの本場はヨーロッパと北米圏だし、有名振付師も大体そこに集まっている。「喋れないからコンタクトが取れません。」なんて、洒落にならないのだ。そのお陰で英語の成績は学年でも上位だ。
「……どうして君がここに?」
「私があなたに聞きたいよ。あなたはどうして、今、横浜にいるの?」
私は生まれも育ちも横浜の、純度100%の横浜っ子だ。
実際、横浜はいい街だ。華やかだけど落ち着いているところは落ち着いていて、東京ほどごみごみしていなければ海も近い。港町だから、カモメの鳴き声が心地よく聞こえてくるときや潮風が通り抜ける時なんて最高に気持ちがいい。これはまぁ、自分が生まれ育った街の愛着というのもあるのだろう。実際、名古屋っ子の親友の安川杏奈は「名古屋は最高よ。だって50メートル先に別のコメダ珈琲があるもの」って言ってたし。
彼は再び鳶色の瞳をぱちぱちさせる。
「……ヨコハマ? ここはヨコハマっていうの?」
「は?」
今週末、新潟で日本代表のエキシビションがある。昨シーズンチャンピオンシップ大会――まぁ、世界選手権とか四大陸選手権とか――の代表になった選手による、昨シーズンお疲れさまでした&次のシーズンはこんなプログラムで戦いますという、慰労とファンへの感謝と新プログラムの初披露の会だと言えばわかりやすいかもしれない。
今年は日本の男子のエースの菅原出雲に、女子のエースの里村莉莎も出場するから中々に豪華だ。勿論、私も杏奈も出る。
このエキシビションは毎年海外からゲストを呼んでいる。去年は世界ジュニアを戴冠したばかりのマリーアンヌ・ディデュエールと、中国のクワドマスターことチャン・ロンが招致されていた。
今年は二人だ。一人は友人のレベッカ・ジョンソン。と、目の前にいるこの子。
しかし……ちょっと頭が追い付かない。
「ねぇ、えーっと。何て呼んだらいいのかな。そうだ、ミスター・ヴォルコフ。貴方はどうして横浜にいるの?」
ミスター・ヴォルコフ、からは英語だ。同じ質問を繰り返す。ミスターという単語がおよそ似つかわしくない。と、それはともかく。
今年のエキシビションは新潟の仮設リンクで行われる。例年通りなら私が練習拠点としているアイスパレス横浜で行うのだが、今年はなぜかスケート連盟が「新潟でやる」と決めてしまっていた。
そんな事情はともかく。だから彼が日本にいるのはおかしくない。……問題は質問の通りだ。
すると唐突に大量のガマガエルが一斉に鳴いたかのような盛大な音がした。
「もしかしてお腹減っている?」
こっくりと彼が頷く。
立ち話も変だ。それに、世界ジュニア3位の私と違って、彼はシニアの世界選手権銀メダリスト。世間一般の人も顔が知られているはずだ。現に、結構な数の人が遠巻きに彼を見つめている。
「じゃあ、お腹減っているならどこか食べに行こう。ほら、私についてきて」
人が集まりそうな気配がする。私は彼のスーツケースを持ち、強制的にその場から離れることを決めた。
2016年6月下旬。JR横浜駅のど真ん中で、
私こと星崎雅は、ロシアのエースを拾った。
*
とりあえず私は腹ぺこらしいアンドレイ・ヴォルコフを連れて近くのドトールコーヒーに入った。トップアスリートにファーストフードはいかがなものかとも思ったけれど、仕方がない。所持金は4000円ぐらいだし。
ヴォルコフを席につかせて、ミラノサンドのセットとコーヒーを一杯注文する。待っている間ヴォルコフの方に目を向けると、ファーストフード店が珍しいのかせわしなく顔を左右に動かしている。……ファーストフード店なんてどの国にもあるだろうに。
「どうぞ。遠慮しないで食べて」
「……スパシーバ」
ロシア語で感謝を述べると、両手で抱えるようにして食しだす。
席を挟んで向かい合い、頭の中で彼についての基本情報を整理させる。
アンドレイ・ヴォルコフ。先月で16歳になったロシアのエース。
主な実績は2015年世界ジュニア優勝、2015年ロシア選手権優勝、2016年ヨーロッパ選手権優勝。2016年世界選手権銀メダル。
……齢15歳にして世界選手権のメダリストに輝いたのは、彼の実力が年不相応にズバ抜けている証拠だ。世界ジュニアの戴冠から1年、あり得ない速度で成長し続けている。どうやったら四回転ルッツ+三回転ループのコンビネーションなんて飛べるんだ。
そして凄いのは技術面だけではなかった。氷の上に立てば滑り一つで、湖水で微睡む牧神に激情に駆られた革命家、ナルキッソスの化身に誇り高き皇帝陛下と姿を変え、圧倒的な表現力と存在感で他を圧倒する。
私の目の前でミラノサンドを至福そうに食べる人物は、スケート界が誇るトップアスリートだ。……うわ、手が小さいな。ミラノサンドがでかく見える。
ちびちびとサンドイッチを食べるヴォルコフは、そこで横浜まで来てしまった顛末を小さく話した。
……発端は彼の師であるアレーナ・チャイコフスカヤが今回一緒に来日できなかったことだった。最近のモスクワは6月も結構暑いようで、この2週間体調が芳しくなかったらしい。出発の2日前に高熱に倒れてしまった。
いつも一緒のチャイコフスカヤコーチがいないことに不安は覚えたが、『成田まで行けば日本スケート連盟が迎えを寄越してくれるから』と師に言われ、スーツケース一つを持ってモスクワのドモジェドヴォ空港から単身旅立った。
話の中で「そういえば機内のコマーシャルでイズモ・スガワラを見たよ。彼はいつも恰好いいね」とかぽろぽろと嬉しいことを言ってくれる。菅原さんは日本男子のエースだ。ソチ五輪の金メダリスト。……そういえば菅原さんのスポンサーだったな、そこの航空会社。
さて成田に着き、税関を通り抜けてスーツケースを持って待ち合わせ場所に行ったはいいが、日本スケート連盟のお迎えがきていなかったのだ。
約束の12時になり、1時間過ぎ、2時間過ぎても現れないからどうしたものかと日程を改めて確認すると、待ち合わせは「6月23日の木曜日 正午」となっている。
そして今日は6月22日の水曜日だ。……これでは来てくれるものも来てはくれない。
友人知人もこの場にはおらず、頼みの綱のチャイコフスカヤコーチはモスクワ。日本語は全く解せず、ロシア語訛りの英語では伝わりづらい。そもそも、自分がどこに行けばいいのかわからない。でも何だか道行く人が遠巻きに自分をちらちらとみている。
途方に暮れたヴォルコフは、そこで通りすがったバスに乗り込んだ。行先はわからないが、とにかくこの場から動きたかった。
そこから先の話は分かった。乗ったバスが横浜行きのバスだったのだ。横浜アリーナを通り、パシフィコ横浜を通り、終点の横浜駅で降ろされ、さあどうしようかと駅構内に入ってうろうろしたところ、私に発見されたというわけだ。
「はああ、災難だったねぇ」
航空チケットを間違えて買っちゃったのに気が付かなかったのか、それとも日本スケート連盟が実は間違ったチケットを用意したのか、私にはわからない。コーヒーをすすりながら聞く話は「ちゃんと確認しろよ」という感想が大半だが、彼にとって災難だった事には変わらない。
「うん。君がいなかったらどうしようかと思った」
……そういう割に意外に呑気だ。年の割に幼いと言っていいものか、変に肝が据わっているというか。私だったら焦りまくって両親に連絡するだろう。彼は何もせず、とりあえず流れに身を任せていたら私に出会った。幸運なのかなんなのか。あと一歩で迷子になるところだっただろうに。
とにかく彼は予定より一日早く日本に来てしまい、横浜にいる。
「で、ミスター・ヴォルコフ。これからどうする?」
「どうしようかな。全然考えてないや」
……そうだろうと思ったよ。
一番いいのはスケート連盟に連絡を取って保護……いや、言い方が悪いけれど、してもらうことだ。そうすればしかるべき対応を取ってくれるだろう。滞在するホテルの予約も連盟が押さえているだろうし。
座った席は窓際だった。話し終わったヴォルコフはミラノサンドを食べながらぼんやりと街中を眺めている。食べるのが遅くて、一向に減らないように見える。
「珍しい?」
「初めて見る街だし。普段もモスクワの街中をこうやって歩くことそんなにないから」
「え、でもランニングとかはしないの? 体力トレーニングとか」
「リンクとアレーナの家に器械があるから。外に出て走ったりはしたことがない」
「リンクへは……」
「アレーナの車で。ぼくはアレーナと一緒に暮らしているから」
さっきも店内を興味深そうに見まわしていたし、箱入り息子ならぬ箱入りスケーターなのかもしれない。
何故だか私の頭に、彼の日常が想像された。朝起きてストレッチ。その後、アレーナ・チャイコフスカヤコーチとスケートリンクに行って氷上練習。一日の大半をスケートリンクで過ごし、チャイコフスカヤコーチが運転する車で帰宅。この様子だと休みの日は一歩も外に出ない、なんてことがありそうだ。
出会ってから30分少し。それまで私はヴォルコフの事を「超人的なアスリート」としか見ていなかったと思い知る。彼と氷がそのまま符号で直結していたから、生活や日常的な事が全く想像できなかったのだ。
少しだけ知った彼の素顔は、思ったよりもぼんやりしていて、思ったよりも子供らしくて、そして思ったよりも世間知らずだ。注意力もそんなにない。本当にスケートしか知らないのかもしれない。
……ちょっとした好奇心が生まれる。そして、彼に対する親しみも。
「今日は街中をちょっと回ってみて、その後うちに泊まる?」
部屋なら客間もあれば、昔堤先生が使っていた部屋が残っている。ヴォルコフ一人泊めるぐらい問題もない。練習は……さぼりはしない。夕方にヴォルコフを連れてリンクに行こう。父さんに事情を説明して、スケート連盟の人に話を付けてもらおう。明日以降はそれから考えればいい。
「いいの?」
ヴォルコフが鳶色の瞳をぱちぱちと瞬きさせた。……驚いて、いるらしい。まさかそう提案されるとは思わなかった、というような。
「大丈夫だって。今日は面倒な話はもうよそう。横浜の中だったら、多少は案内できるよ。嫌かな?」
首を横にふるふると振る。金色のボブカットもそれに伴って動いた。
「嫌じゃない。ありがとう。……ミヤビ・ホシザキ。もう一つお願いがある」
「何?」
「その、ミスターは付けないで。ルーティカって呼んで」
ルーティカは、男性名アンドレイの愛称のはずだ。ロシアでは親や友人が親しみを込めて呼ぶのだろう。私もアレーナ・チャイコフスカヤが「ルーティカ」と呼んでいるのを聞いたことがある。
「いいの?」
今度は私が聞く番だった。私は彼とは親しくない。彼が私を認識しているとは驚きだったし、少しだけ人となりを知ったとはいえ、はっきり言って気が引ける。
「もちろん。君は今、初めてできたぼくの友達だから」
ヴォルコフの口角が少し持ち上がる。殆ど無表情に近いけれど、微妙に変わったニュアンスがはっきりと「うれしい」と言っている。
……そうか、氷の化身もこういう顔をするんだ。




