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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン1  2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権
14/66

13.現実に見ていたこと ――2015年3月8日 その4


 衣装に着替えると緊張が走る。パンツスタイルが解禁されて10年経ったが、未だに物珍しい目で見られている。だが、少なくとも今回の私のフリーは、このスタイルが正解だと思っている。

 もう杏奈とは別行動だ。男子シングルの全てが終わり、女子シングルのフリーが始まった。今は第三グループ。

6分練習が終わって、今は第5滑走のジョアンナ・クローンが演技を実行している。プログラムは映画『ピンクパンサー』。幾度か見たことはある。軽妙な音楽とコミカルな演技のプログラムだが、次に控える私はなるべく見ないようにしている。

――観客の反応から察するに、かなりいい出来みたいだ。三回転フリップ+三回転トウもきれいに決めたらしい。おそらく、SPで失敗した三回転ルッツも。いまいち苦手な選手だが、実力者であることと私情は無関係だ。

 ……リンクサイドでフリーの振り付けを軽く確認しながら、目をつぶって、さっき見た美しいものを思い出す。


 *


 ――風を切る音から飛び上がる。

 幅とキレのある、流れるような美しいトリプルアクセル。一体の美しい動物が、天に向かって駆け上っていく様を連想させる。――本人はもっと高さが欲しいと言っていたけれど、てっちゃんのアクセルは本当に魅力的なのだ。

その姿は、一体の白い竜だ。狩衣を模した衣装の袖が、一歩進むたびにふわりと優雅に舞いあがる。白い水の化身。白い、水の竜。一体の孤独な生き物だった。

 ルッツジャンプを終えて二つのスピン。……このジャンプが何よりも心配だった。怪我の原因にもなったジャンプだったから。私の位置からだと、踏切がアウトサイドだったかそうでないのかは明確には分からない。

でも転倒しなければ、プログラムは壊さない。

 スピンを回るほどに、彼の周りの空気が澄み切って行く。それは空虚な空間を作り出すのではなく、単純で、純粋で、そして――

 当たり前にあるはずの美しい色彩を私に想起させた。

どこまでも続く釧路の青い空。掬い取ろうとして指の間から滑り落ちる水。水底に眠る忘れられた石ころ。石の隙間から生まれる雑草はどこまでも力強い。川で羽を休める湿原の神。

 いつまでも共にいるはずだったもの。

 だが、完璧な空間ほど、簡単に崩されてしまう。

 壊されたものを大事に抱えたまま、彼はプログラムを進めていく。だんだんと少し右足が重そうに見えてくる。膿のようなものが溜まって行っているのだろう。

……一つずつ技を決めていくごとに、ぞくりとした畏怖を感じていく。

 ここにいるのは、誰だ。いや、一体何なんだ。

 ヴォルコフの、甘くて、一種狂気ともいえる紙一重の世界でもない。かといって、マリー=アンヌの醸し出す絶対的女王としての貫録でもない。

 勝利に対する渇望が全く見えないわけではない。……ダブルアクセルからの三回転コンボは、勝ちを譲らないという彼の意思の表れだ。痛くても痛くても意地でも転倒しないのは、自分の先に滑ったあの化け物に少しでも報いたいからだ。

 だけど……それだけだと絶対にあらわれないものが、薄い水の膜になって彼のまわりにまとわりついている。私はその正体が何かわからない。多分、この場にいるすべての人も理解しがたいものだ。……わからないから、その滑りに、私も杏奈も、ほかの観客も、どうしようもなく惹かれてしまう。目をそらせない。今の彼は、川の神なのだろうか。鋼の精神を持つ強いアスリートなのだろうか。本当に、一体の美しい生き物になりきっているのだろうか。それとも……。


 ふっと。


 何かが彼の滑る先に佇んだ。


 私の目がそれを認知し……大きく見開かれていく。

赤い頭頂部。黒い光彩。それは真っ白な大きい翼を休めて、飛び散った氷を啄んでいる。

あれはタンチョウだ。――雲一つない青空の中、むき出しのスケートリンクから飛び去って行った。あの時、てっちゃんはたった一人であそこにいて湿原の神を見送った。その先には……。

「――てっちゃん!」

 これは紛れもない幻だ。あんなものが競技中の室内リンクにいるはずがない。だけど。

 ……タンチョウの先に、私がいる。何も知らない、何も出来ないころの無力な私がいる。私はその時のてっちゃんの目が忘れられない。全ての情熱を失った人の目だった。

 それでも。

 昔でも今でも、私は同じことが言える。

「――大丈夫、絶対大丈夫だよ!」

 目の前に神が立ちふさがっていても。抑えきれない痛みを抱えていても。……何があっても、あなたは絶対に大丈夫。

 いつの間にか私は、前のめりに身体を突きだして、大声でそう叫んでいた。

 ――何かのスイッチが入ったかのように、てっちゃんのスピードが上がる。遠目にも分かるぐらいエッジが深くなる。力強さが増し……


 前向きに一回、二回、三回飛んで――


 ――空へ。高く高く舞い上がる。


 そこから先は上手く言葉に表せない。言葉にすると軽くなってしまう。

……あえて言葉を費やすと、トリプルアクセルと三回転トウのコンボの後は彼の世界だった。

 すべてのベースは滑りだ。滑りから音が発生されている。その音は時に言葉になり、水になり、自分ではない誰かになる。そしてその誰かは、音の先にあるはずの何かを見つめている。

 ――滑りながら、彼は誰かの手を重ねている。誰かを思いながら、自ら音を発生させ、自由自在に60×30のリンクにものがたりを描いていく。それは神だった筈の竜の少年と、誰かのものがたり。演じているてっちゃんはは、誰よりも優しい顔をしていた。勿論私の想像でしかない。彼はもっと別のことを思って滑っているのかもしれない。だけど、見ている誰もが共通して感じている。――彼の滑りは、音の鳴る方向に従って、どこまでも優しくて、美しい世界を構築しているのだと。

清冽な滑りに誰もが目を奪われる。彼を覆っていた水の膜は、いつの間にかあたり一帯へと飛散していった。変幻自在なステップシークエンスは、風を切って進んでいく。エッジは深く、自由だった。隣にいる杏奈の目線が足元へと移る。このステップのすべてを目に焼き付ける。そんな熱い瞳をしていた。


 戻ってきた。

 あのてっちゃんが、戻ってきた。



 *


 最後のスピンを解き、音が途切れると、彼は深く、長く息を吐いた。……息と共に何かが抜け落ちていったような気がする。

瞬間の、割れるような歓声。花束やぬいぐるみがリンクに投げ込まれる。ほぼすべての人間が立ち上がっていた。杏奈も、もちろん私も。惜しみない称賛は先のヴォルコフにも負けてはいなかった。

 現在1位のヴォルコフの優勝は確定されたようなものだ。トリプルアクセルを2本完璧に決め、エッジエラーもついていない5種類の3回転をきちんと入れ、なおかつ4回転を飛んだのは彼だけだから。それだけではない、ショートプログラムの点差もある。この点差を覆すのは極めて難しい。

 だけどてっちゃんが今作り出した世界は。ヴォルコフの狂気にも負けない。

「雅……」

 杏奈が、ぎゅっと私の手を握った。

 私は重なった杏奈の手を握り返した。杏奈のやわらかい手のひらから、静かな闘志が伝わってくる。

 私たちは頷き合い、手をつないだまま席を後にした。


 *


 ……瞳を開き、大きく息を吐いて、今の自分の位置を確認する。最終種目、女子シングルフリー。私はショート8位。フリーは第三グループ6番滑走。

 演技を終えたジョアンナ・クローンがリンクサイドに引き上げる。入れ替わりで私がリンクイン。氷の感触をとらえるエッジを研ぎ澄ませ、スピードを上げて徐々に体を慣らしていく。心拍はかなり早い。

 ルッツ、フリップを確認したあと、一回水を飲みに戻る。そのときに、ジョアンナの得点と、キス&クライでの溢れんばかりの彼女の笑顔がスクリーンに映し出された。これがメダルの獲得のためのボーダーになるだろう。フリーだけでも、私の国内のパーソナルベストの、20点以上は上だ。

 6分練習でトライしたダブルアクセルは4回中、一度も綺麗に決まらなかった。よくて回転したうえでステップアウト。悪くて転倒。

 父と軽く握手を交わし、2,3個アドバイスをもらう。

「最後まで勢いを消さないこと。音をよく聞いて、動きを小さくしないこと。……アクセルを飛ぶとき、躊躇わないこと」

 ……今、アクセルを跳ぶのが本当に怖い。だけど。

「行ってきなさい」

 名前がコールされ、父に力強く送り出される。

 緊張。高揚。不安。そして――

 さっき見たものの美しさを抱えて、リンク中央へ。

 私には私の出来ることを。もう、何もできない無力な子供ではないのだ。


 ――さあ、次は私の番だ。



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