10.肉まんで緊張をほぐす方法 ――2015年3月8日 その2
今シーズン、ノービスからジュニアに上がる選手やシニアに昇格する選手などもいたが、基本は去年と変わらない面々と戦った。カナダのアーサー・コランスキー、アメリカのジェイミー・アーランドソンなどはGPシリーズでもファイナルでも戦い、同じように表彰台に上がってきた。
……怪我の情報も、噂も何もなかった。
ただ一人の選手が大会に出てこないというだけの話なのだ。だが。
噂も新しい情報も何もない、というのが妙に不気味だった。
シーズン中。忘れられないその名前はどこにもなかった。
*
――呼吸が止まった。
今、あいつは、何を飛んだんだ。
6分間練習から一度バックステージに引き上げて、いい感じに集中を高めていたところだった。
背中に、嫌な汗が流れた。
フィギュアはたった一つの技だけで勝負が決まる競技ではない。スケートの滑らかさ、ジャンプの質、スピンのポジションの的確さ。全ての技から、総合的に点数を出すのだ。
……だが、あのたった一つのジャンプは、それだけで全てが決まるような説得力さえ持っていた。
目の前で、次々と想像の範囲を超えた技と空間が展開されていく。
眼をつぶって、慌てて固まりきった手で再びヘッドホンを耳に当てようとする。指がうまく動かなくて、ヘッドホンが床に滑り落ちる。
俺が間抜けなことをしている間にも、牧神の午後の音楽は止まらない。超絶的な演技は止まらない。
プラスティックの安い音を立てて落ちたヘッドホンを拾った時、無為のうちに床に指先が振れた。
少なからず驚いた。リンクに近くて冷たいはずの床が、自分の指先よりも暖かく感じたことに。……あまりにも強い衝撃を受けたときは、精神よりも先にまず体が何かの反応を示すらしい。
強く拳を握っても震えが止まらなかった。
そして――ふと、ひとつの考えがよぎった。
もしかしたら彼の姿がシーズン中全く見えなかったのは、完璧な四回転を習得する為だったのでは。もしくは、誰もが認めざるを得ない程の圧倒的な力を身に着けるためだったのではなかろうかと。
――それはこの空間を見た誰もが感じたことだろう。
*
――爆発するような歓声から。
エッジカバーを外して、演技の終わったヴォルコフと入れ替わりに氷上へ。エッジの乗り、氷の具合などを確かめながら体を慣らしていく。演技直後の歓声は収まったものの、浮ついた空気が流れているのを肌で感じる。
いやな空気だ。まるであの演技ひとつで、客に見えてしまったかのようだ。
……心臓が引きつったような痛みを訴える。滑れば滑るほど、冷え切った指先から、さらに体が凍えていく気がする。浅い呼吸を何度も繰り返すと、自然と喉が渇いてきた。
「氷、どう?」
「6分練習で滑った時と、あまり」
「足は?」
「何とか大丈夫です」
「ルッツどうする?」
「……まだ決めかねてます」
軽く流して水を飲みに戻ってきたら、先生が軽い調子で聞いてくる。……怪我を押して苦手なジャンプを跳ぶことに、何か意味でもあるのだろうか。
さっき見たものに比べたら、氷の問題など大したものではない。足も痛みを感じない。もっとも今の状態なので、滑っていくうちに変わっていくだろうが。
フェンスに両手をついて足を曲げると、白銀の氷だけが目に映る。今の顔を、たとえ先生といえど見られたくなかった。
……体が温まらない。氷上から立ち上る冷気が、全身に濁った血を凍らせていくような錯覚さえ覚える。
今、怖いものはたくさんある。演技中の失敗。怪我の悪化。何よりも……。
これから演技を行っても、ジャッジすらまともに見ないのではと考えると。
たとえ運よくミスなく終わっても、評価に値されないのではと考えると。
その想像が一番怖かった。
……マイナスの思考回路になるのは好きではない。好きな人間もいないだろう。だが、今の俺にさっきのあれを否定するだけの力も、マイナス思考を振り払うだけの力もないのだ。
「……あー、哲也」
しまらない先生の声。
「これでもさ、俺は少し反省したんだよ。一年前、もう少し気の利いたこと言えなかったのかって」
……何も変わらない先生の声に、少しだけ安心する。
去年の世界ジュニアの事だ。先生にしても、俺ががちがちに緊張するのは珍しかったのだろう。それに演技直前、俺は先生の言葉がまったく聞こえていなかったのだ。先生が言った事なんて、当時だって全然覚えちゃいない。……去年よりも直前に見たものの衝撃が強い今、そうなっていないのは奇跡に近しい。
……或いはこれが諦めというものなのだろうか。
どうしようもなく突出したものを目にした時の諦め。自分に、何も手がのこされていないと宣告された時の、絶望ではなく仕方がない、と流れる時の雰囲気。
足の問題。順位の問題。……さっき見てしまったものの異常性。
その全てがマイナス要素として我が身に降りかかってきた。
「だから今日は逆にどうでもいい話をしよう。――初めて会った時のこと覚えてるよね?」
今、何を言い出すんだか。
9年前だが、覚えてない筈がない。空腹で青い顔をしていたことも飯をせびられたことも大好物の肉まんを取られたことも、全てが合わさってだめな大人だと思ったことも。のちにスケーターとして凄い人間だと知ったのだが、第一印象が良くなかったせいか、この先生に敬意を持つまで結構な時間がかかった。
……この場ではどうでもいいことの極みなのだが。
「俺あの時君の肉まん取っちゃったけど、本当は肉まん嫌いなんだよねー」
だからこのタイミングで話されて困るのだ。が……
いきなりの言葉に、瞬きを三回してみる。
緊張というか、頭に住み着いたあらゆるマイナスイメージやら浮かびかけた諦観が、ふっととんだ。
斜め右方向から飛んできた言葉によって。
「は?」
顏を上げると、いつもと変わらない、どころか、いつも以上にへらへらとしたしまらない先生の顔が写っていた。
……ちょっと待て。
それは一体どういうことだ?
確かあの時のだめな大人は、見ず知らずの子供のものを文字通り横取りしてしかもこの世の幸福のような顔で食ってなかったか?
「あんまんの方が好きなんだよ。これ、ホント」
「ちょっと待ってください」
もう一回整理してみよう。9年以上前の出来事だが、インパクトが強すぎたから細部までしっかりと覚えているのだ。
……確かあの時のだめな大人は、この世の幸福のような顔で全部食いやがったよな。俺あんまんより肉まんの方が好きなんだよねぇとか言いながら。それで、昆布くれなかった君が悪いんだよとかそんな手前勝手なこと言ってなかったか? ていうか、この人の神経はどうなっているんだ。今そんなこと言ってる場合じゃないだろうがよ。
だが……今のカミングアウトが気になって仕方がないことも事実だ。あの顔が演技とは思い難い。
「じゃああれは」
「嘘だようそ。だって肉まんっておやつにするんだか主食にしていいんだかわかんないじゃん。中国だと主食なんだよ? で日本だとおやつ。ヘンじゃん。どーもそれがうまいっていう感覚が分かんなくてさー」
当の本人はだらしない笑いを強くして、当時の事を軽々と否定した。理解しがたい理屈とともに。
……そのしれっとした感じが癪に障る。
「……それだったら何で横から取ったんだよ!」
……あのこと――今以上にへらっとしたしまらない行動を思い出したら、それだけで腹が立ってきた。今がふざけている場合ではないことも、敬語が取れることも忘れて先生に問い詰めた。
「腹減って死にそうだったし」
「昆布じゃ駄目なのかよ!」
「昆布くれなかったじゃん。てゆうか、かまってくれないから、つい」
「何だそれ!」
「まーあの時、嫌いなものをさも好物かのように食べていた俺の努力も褒めたたえたまえ。結構無理してたんだよ。」
「知るかそんな事! 肉まんはおやつなんだ! 俺の肉まんを返せ!」
「あーわかったわかった。代わりはあの時あげたけど、そんなに言うなら肉まんの一つやふたつぐらい奢ってあげるよ。これからの4分間無事に滑ってこれたらね」
体が跳ねた。何気なく用意された一言から、肉まんから現実に引き戻される。
だが、さっきまでの緊張や固さが己の身に戻ってくることはなかった。冷え切っていた血の巡りが戻って……。
「……先生」
思わず睨んでしまう。……全くこの人は。
「とっておきは肝心の時まで明かさないものだよ。これで普通に滑れるさ」
薄い笑いを浮かべる先生。……俺自身、睨みながらも、口の端は吊り上っていた筈だ。相当引きつっていただろうけど。本当に何を言い出すんだか。一歩間違えれば余計シャレにならなかったんじゃないのか。
まぁ……。
「無理、なんじゃないですか?」
すぐに楽観的になれるほど俺は能天気に出来ちゃいない。
「いやいやいや。前の彼がめっちゃ凄かったかもしんないけど、これからの君とは別物さ。さっきより顔が良くなったから、いつも通りに滑れる確率は、俺は高いと思ってるよ。今の君の場合、怪我もあるだろうけど。まぁ……」
いったん先生が言葉を切る。少しばかり躊躇っているようにも見えた。何を言うか考えあぐねている、というよりも、今からの言葉を俺に渡していいかどうかを決めかねているように見える。
演技直前は必要以上に神経質にもなる。ぎりぎりまで糸を引っ張った状態になっているものだ。直前に下手なマネをされたら、それでこそ演技に影響が及びかねない。……今回の場合、集中が途切れて極限にまで達した固さに支配されていたわけだが。
だから思わぬ角度から緊張から解放されたのは嬉しい。だけど、もう少し精神的なコンディションが向上する必要がある。
最終滑走者を告げるアナウンス。――再び先生が口を開いて、
「何があっても君の責任ぐらい俺が取れるから。思いっきり滑ってきな」
何時もの口調で、なんの気負いなく、その言葉を放った。
その一言で。
「……思いっきり当たって、バラバラになって帰ってくるかもしれませんよ」
「大丈夫。全部砕け散っても、俺がちゃんと拾ってあげるよ」
――火が付いた。
*
すぐに位置につかず、失格になる時間ぎりぎりまで足を滑らせる。
……さっきの先生の言葉を思い出す。その言葉の重さは先生も、いや、先生が一番知っているのだろう。爆弾を抱える選手に与える一言ではない。だが、俺には確かに必要なものだった。
いい成績が出したくない選手なんていない。怪我をしたい選手なんていない。どんな選手も、たとえ怪我を負っていたとしても、どんな状況に陥ったとしても、常にベストな演技をしたいと思うはずだ。
そして――ヴォルコフのおかげで気付いた。
俺がスケーターとして現在持ち得ているものは、小さいものなのだと。それはただスケート技術を指すだけではなく、その4分間で他者に何を見せられるかも入っている。悲観的ではなく、事実として認めざるを得なかった。
もしかすると、彼の実力に嫉妬すら覚えているのかもしれない。今は、四回転も飛べない。クリーンなルッツジャンプの成功率も低い。いくら完成度の高い演技をしたとしても、現実離れした神の如き空間を作れはしない。
だけど。
だけど負けたくない。
たとえ今、手の届かない相手だとしても勝負には負けたくない。
それだったらこれからの四分間に持てる全てを込めるしかない。
……何もかも足りない自分にも出来ることはある。
先生の言葉は、沈みかけた自他共に認める俺の負けず嫌いに火を付けた。
一桁の順位が取れないかもしれない。来季の枠が思うように取れないかもしれない。――怪我が悪化して帰ってくるかもしれない。
先生はたとえそうなったとしても。妥協して帰ってくるなと言ったのだ。
思うことはただ一つ。
……このまま終わってたまるものか。
これからの4分間、極限まで攻めて、意地でも滑りきって――
――空気を変えてやる。