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情熱大陸

作者: 白亜恐子

 折からの西風に乗ってこの小さな島国まで到達した戦争は、世界の中心同士の争いから百八十度ほどずれて、大陸との一騎打ちにもつれこみつつあった。

 樫谷(かしや)はかつての無法地帯を散策していた。立ち並ぶビルと、そこここに転がるごみ以外はなにも見当たらなかった。人一人、鼠一匹残っておらず、いまや法があるもないも関係ない。街灯はつかなくなって久しく、街路樹はとうに枯れた。蝋に固められたような町は冷たく立ちすくみ、本来の質感もなく、黙りこむ。あまりに静かなので、樫谷は星のきらめきの鳴る音を聞いた。

 町の上は降るような星空だった。人が住んでいたころの地上の明かりが昇天し、青と赤と白と緑も加わり、ちょっとした混沌の様を呈している。月が見えれば満月のはずだったが、それはどこか建物の陰になっていた。

「そのほうがいい」樫谷は月の見えない空に向かって声を張った。「今夜は薬を飲んでいない」

 町の中心部に向けて進んでいくと、途中でごみの山につき当たった。家の二階部分まで届きそうなほどの高さだ。ねじの飛び出たラジオや画面の割れたテレビがごみ捨て場から溢れ、歩道を越え、車道にまで流れ出ているのだった。車が何台か乗り捨ててある。エンジンはかからなかった。

 鼻歌をうたいながら樫谷はごみ山を登った。冷蔵庫を踏み台にし、自転車のサドルに手を掛け、箱詰めにされた何十もの携帯電話に会った。頂上でエアコンの上に腰を下ろした。山の反対側には同じような道路が、ビルの谷間をまっすぐに続いている。その行きつく先はやはりビルだ。

 腕を広げ、

「なんてすてきな眺めなんだろう!」

 その声は白々しく町に響いた。樫谷は独り言と鼻歌に飽きた。

 かすかにメロディーが聞こえる。目の前の建物から一条の明かりがさしていた。

 樫谷は隣のパソコンに別れを告げ、山のでこぼこ道を駆け下りた。蝋の町に足音が反響する。近づくにつれ、ドアの隙間から漏れ出る音楽と灯火は確実だった。

『喫茶・情熱大陸』

 木の扉には目立たない文字でそう書かれていた。

 押し開けた途端に、音の波が打ち寄せた。ピアノ、ドラム、バイオリン、アコーディオン、ギター、フルート、チェロ、マラカス、ティンパニー、ベース、ハーモニカ――そして暴走するサックス! それぞれの楽器が互いを押し合い、殴り合いながら、巨大なひとつの塊となって樫谷の全身に迫った。ひどい演奏だ。誰かに聴いてもらうつもりはない。ただ自分たちが楽しむことだけを追求して、奔放に弾いているのだった。

 情熱大陸。

 樫谷は音の嵐の中からようやくその旋律を探し出した。

 シンバルが殺人的に盛り上がり、バイオリンが装飾音で遊ぶ合間に、ぴんと張った糸のような主題が流れている。サックスだ。

 樫谷の眼下には地下の店へと続く階段があった。海の向こうの新大陸、さらにははるか昔の大帝国へと導く道は、行ったら最後、二度と戻って来られないに違いなかった。

 樫谷は階段を下り、店のドアを開けた。

 ぴたりと演奏が止んだ。

『喫茶・情熱大陸』はさながら古代ローマの宴会場、人々が飲み、食い、吐くのを繰り返す、地に堕ちた楽園だった。テーブルを倒し、椅子を脇に押しやり、空いたスペースがステージになっていた。押し込まれた楽器たちの上げるぎゅうぎゅうという鳴き声がする。それは奏者のうちの誰かの腹が鳴っているだけかもしれなかった。皿に盛られた料理は床に落ち、ジュースはグラスが割れて飛び散っていた。吐瀉物の代わりにネックの折れたギターの残骸があった。薔薇の代わりに埃が舞う。

 狂乱のパーティーを中断させた闖入者に対し、奏者らは、一様に満面の笑みを浮かべた。

「やあいらっしゃい!」

「弾ける楽器は? いやなにも弾けなくても構わない! ちょうどトライアングルいなくて困っていたのさ」

「その前になにか飲むかい? おい、マスター!」

「久々のお客さんだよ!」

 彼らはげらげらと笑った。

 ピアノが歩み出て丁寧に礼をした。

「やあ、失礼。閉店中の看板を出し忘れておりました。しかしこれもなにかの縁。ご注文を承りましょう」

 彼は黒いチョッキを着ていた。髭を蓄えたロマンスグレーだ。

「星条旗」

「はい?」

「アメリカの国歌が聞きたいな。高校の音楽の教科書に載っていて、これはいい歌だと思ったんだが、それ以来聞いていなくてね」

「外国の国歌が? 日本の学校の教科書に?」ピアノは上品に笑った。「かしこまりました。この店にない商品はございません」

「おじさんはなにか弾かないの!」

 アコーディオンがぴょんと跳ねた。

「おじさんは観客だよ」

 樫谷が言い終わるよりも前にサックスが第一声を発した。

 聞くに堪えない演奏が始まった。それはかろうじて音楽の体裁をとり、樫谷の脳にずかずかと踏み込んだ。ドラムのがなり立てる音がこだまする。ベースの音は地鳴りのように身体に響く。マラカスの刻む一定のリズムは神経に触る。振動した空気を吸い込むと肺の中にまで音楽が入り込んだ。鼓膜が破れそうだった。限界を超えて樫谷が耳をふさごうとしたとき、ようやく静寂が訪れた。余韻をたっぷり残す空間に漂う間もなく、次の曲が始まった!

 樫谷はこの拷問のようなステージを前に一人笑いだした。その声は店の扉を突き抜け、町を越え、はるか彼方、戦場の首脳まで届いた。演奏は止まった。樫谷の笑い声だけが響き渡る。

「おじさん!」再びアコーディオン。「どうしてそんなに笑ってるの?」

「それはね、坊や」樫谷は少年の頭をなで、「君たちの演奏が素晴らしいからさ。まったく愉快だ!」

 ひとしきり笑ったあと、樫谷はテーブルの上のグラスに残っていたオレンジジュースで乾ききった喉を潤した。

「本当にひどい音楽。それでよく楽器が壊れないもんだ。ところで、きみたちはこんなところで一体なにをしているんだい?」

「見ての通り」と言ったのは美しいハープ。「いえ、聞いての通りよ!」

「得意の楽器を持ち寄って」これはピアノ。

「たとえば僕は青春の歌」ハーモニカがナルシスティックにうたえば、

「そして私は恋の歌」フルートが青年に見惚れている。

「外は戦場、くだらない。人々が空を横切る飛行機にいちいち怯えている間に俺たちはこの地下に潜った。勉強しなくても怒られないし、仕事なんて始めから課されていない。地上に降る雨はここまで届かない。もちろん戦争もね。ここには食べ物もあるし恋もある。俺たちはこの楽園で、自由の自由を謳歌するのさ」

 バイオリンはハープの腰を抱き、唇に熱烈なキスをした。もちろん楽器は持ったままで。

「自由に必要なのは音楽」チェロは愛しそうに楽器を抱く。

「だから寝る間も惜しんで演奏するんだ」そう言う傍からアコーディオンが眠りについた。

 少年のために皆は少しずつ声量を落とした。カップルたちの囁き合う声が奇妙な存在感を持った。

 ティンパニーが奥から毛布を取ってきて、アコーディオンにそっとかけた。大きな体に不釣り合いな優しく繊細な手つきだった。

「いつから?」樫谷はサックスに聞いた。「いつからここにこうしてるんだ?」

 太った男は目に暗い光を宿していた。ステージの中央、すべての楽員を見渡せる位置にいる彼こそが指揮者だった。身にまとう雰囲気は頭から足先まで胡散臭い。だが魅力的な匂いだ。それは憂色の虹彩を持ちながら軽薄そうな印象を与える所以である。男は突然にやりと口元を歪めた。

「創世の始まりから」

「今に至るまで?」

「ずっと、絶え間なく」

「なにがずっと? なにが絶えない?」

「俺たちの音楽」

「そうじゃなくて」

「戦争が。海の上で争いごとがあるたびに――」

「君たちはこの地下に帰ってくる」

「地下じゃないさ」

「海の下?」

「国境なんてない地底」

「つまりそれこそ――」

「情熱大陸!」

 サックスが、ギターが、馬頭琴が、ホルンが、同時に叫んだ。旋風が巻き起こり、天も地もなかった始めから現代にいたるまでの歴史が樫谷の脳内を駆け抜けた。ネロが炎の中で歌っている。楊貴妃の歌舞は国さえ滅ぼす。十字軍の戦線に流れる讃美歌こそ今この国に必要だ。情熱大陸には音という音が満ち溢れていた。樫谷は床に放り出されたアコーディオンを拾った。指揮棒はサックスの体が発する汗であり、フェロモンであり、そういったもののすべてだった。バイオリンがカウンターの上に飛び上がりハープに向けて愛を告げた。平凡な言葉は彼自身の音楽にかき消された。ハーモニカがフルートの首に腕を回し楽器を吹いた。絡み合った二人は腰をくっつけて踊りだした。ドラムが内に溜まった欲情を奇声に託した。ベースがハープの足元に倒れこんだ。ティンパニーは酒をラッパ飲みにした。アコーディオンは眠り続けている。チェロは哀歌を奏でた。バイオリンがテーブルに飛び乗り、ワイングラスを蹴り落とした。赤い液体がフルートの白いドレスに染みついた。床に這いつくばったベースが彼女の脚にはねたワインをなめた。くすぐったいと身をよじるフルートの音が乱れる。ティンパニーは口から濁った液体をこぼした。それが髪にかかるのにも構わず、ハープはスカートのすそを持ち上げてチェロの気を惹こうと必死だった。ピアノの上にバスケットが乗っていた。樫谷はそれを取り上げ、中に入っていた不死鳥の羽をまいた。天井から赤と金の雨が降る。

「不死鳥の羽なんて、どうして持ってる?」

「二千年ほど前にエジプトで手に入れてまいりました」

 ピアノが答えた。


 目覚めたとき、樫谷は炎の中にいた。

 『喫茶・情熱大陸』の店内は燃え上がり、埃も羽も焼きつくした炎の粉が舞っている。楽器は投げ出され、楽員たちはまだそれぞれの眠りの中にいた。やがて火はカウンターに移り、ワインセラーも飲み込んだ。

 樫谷はピアノの頬を叩いた。

「あんたの店が燃えてるぞ! 早く逃げなきゃ」

 サックスの顔にコップの底の水をかけた。

「起きろよ。みんなを指揮して外に出すんだ」

 アコーディオンを背負い、ハーモニカを蹴り起こした。

「その自慢の顔を黒焦げにしたくなかったら走れ!」

 樫谷が奔走する横で、炎に包まれたワインラックを見たピアノが、

「あんなに一気に飲んで、酔っぱらっているだけでしょう。水でもやればじきに大人しくなります。逃げる必要などありませんよ」

 サックスが楽器を探している。樫谷はピアノの下にそれを見つけ、吹いた。音は出なかった。

 アコーディオンがわめき出した。

「下ろしてよ! 僕の楽器はどこ?」

 楽員たちは各々自分の体の一部を探して走り回る。バイオリンが炎に包まれたが、誰もそれを見ていなかった。すでにステージの半分以上が炎に覆われ、視界は煙に覆われている。柱が倒れ、ドラムとチェロが下敷きになった。ハープが悲劇の女を演じた。

 樫谷は一人店を後にし、地上につながる階段を上った。

 ドアを閉める。

 静穏な夜の町が変わらずそこにあった。

 彼方から風に乗ってきた赤い紙を、樫谷は捕まえ、懐に入れた。

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