デート
夕暮れの城下町に、鐘の音がゆっくりと響いていた。
その余韻が溶けていくのを見届けてから、リリーは仕事場の扉をそっと閉める。
今日は昨日に続いて、少し忙しかった。
書庫の整理、書類の転写、依頼文の作成、会議の議事録──気を張る場面が多かったせいで、さすがに肩が重い。
「ふう……終わった……」
外に出ると、空気はすでに夜の色を帯びていた。
春が近づいているとはいえ、日が落ちればまだひんやりと冷たい。
肩をぐるりと回し、門のほうへ向かおうとした──そのとき。
「リリー嬢」
背後から、落ち着いた低い声がした。
振り返るより先に、心臓が跳ね上がる。
(いま……呼ばれた……? 推しの声で、私の名前……!?)
ぎこちない動作で振り向くと、レイが夕焼けを背に立っていた。
「……お疲れ様です」
「は、はいっ……! お、お疲れさまです……!」
(だめだ、顔見た瞬間に正気が吹き飛ぶ……)
仕事を終えたからか、レイの表情はいつもよりいくぶん柔らかい。
けれど、そのわずかな緩みがむしろ危険だった。
「今日は、ずいぶんと動き回っていましたね」
「あの、見て……いらしたんですか……?」
「正確には、視界の端に入ってきただけです。書庫に何度も出入りしていましたから」
「ひ……っ!! ひとつひとつ見られてる……!」
思わず肩をすくめると、レイは少しだけ首を傾げた。
「顔色も、あまり良くありません。……帰り道、もしよろしければ、一緒にどうですか」
「えっ」
唐突な誘いに、思考が一瞬止まる。
「この時間帯は、人通りも少なくなりますから。護衛……というほど大げさなものではありませんが」
“護衛”という言葉で、ぎりぎり現実に戻る。
(そ、そうだよね! これはデートじゃなくて、あくまで安全配慮……!)
「……ありがとうございます。よければ、一緒に」
なんとか言葉にすると、レイの表情がわずかに和らいだ。
「では」
自然に並んで歩き出す。
数歩進んだところで、レイが何か言いかけて──しかし、そのまま飲み込むように視線を伏せた。
(いま絶対なんか言おうとした……! でも聞けない……!)
横顔には、どこか確かめるような満足げな色が浮かんでいた。
◇◇◇
石畳を踏む足音だけが、少しのあいだ続く。
その静けさを破ったのは、レイだった。
「今日は……夕食は、まだですか」
「あっ……まだ、です……」
「そうですか」
レイは一度、夜空を仰いでから、ふっと息を吐いた。
「……この先に、仕事帰りによく寄る店があります。静かで落ち着ける場所です。もしよければ、軽く食事でもどうですか」
「っ……!!?」
来た。
来てしまった。
(いや、でもこれは……“いつも自分が行く店に、ついでに連れて行く”だけ……! たぶん……!)
「ご迷惑でなければ、ですが」
「め、迷惑じゃ……!」
思わず声が大きくなり、慌てて口を押さえる。
レイが、わずかに目を瞬いた。
「……では、少しだけお付き合いください」
いつもより、ほんの少しだけ口調が柔らかい気がした。
◇◇◇
連れてこられたのは、城下町の外れにある、小さな食堂だった。
レイいわく「静かで、人目を気にせず食事ができる場所」だという。
扉を開けると、木の温かい香りと、柔らかな灯りが二人を迎えた。
「すてき……」
思わず本音が漏れる。
レイはその反応に、わずかに口元を緩めた。
「気に入っていただけたなら、よかった」
店の隅の席に案内され、向かい合って腰を下ろす。
(向かい合って座ってる……推しと……二人で……)
頭の中で何かが盛大に爆発していたが、外側だけはどうにか平静を装う。
メニューを開いて迷っていると、レイが穏やかな声で尋ねた。
「辛いものは、お得意ですか?」
「す、すこし苦手で……」
「では、こちらなどいかがでしょう。味は優しく、疲れているときにちょうどいい」
指さした先には、太めのソーセージと大きく切られた野菜がごろごろ入ったポトフが載っていた。
見ただけで、胃に優しそうだとわかる。
(推しおすすめメニュー……尊い……)
「ここの料理は、重すぎず、よく動いた日の締めにちょうどいいんです」
淡々としているのに、どこか慣れた声音だった。
「レイ様、よく来られるんですか?」
「ええ。仕事帰りに、考え事をしたいときなどに」
注文を済ませると、レイがふとリリーを見つめる。
「……少し、顔色が戻りましたね」
「えっ」
「ここに来る前よりも。血の気が戻ったというか……」
そう言われて、思わず頬に手を当てる。
「そんなこと……」
「先ほどまで、少し無理をしているように見えましたから。少しでも楽になるなら、連れてきた甲斐があります」
それは、仕事の延長線上のような口ぶりだった。
けれど、“気にしていた”という事実だけで、胸が温かくなる。
(ずるい……そんなの、好きになるに決まってる……)
やがて料理が運ばれてくる。
優しい香りとともに湯気が立ちのぼった。
「ここのポトフは、野菜も多いですから。文官はどうしても座り仕事が多いですし、こういうもので誤魔化しておかないと」
「誤魔化して、ですか?」
「不健康な生活の自覚はあるので」
淡々とした言い方なのに、どこか照れ隠しのようにも聞こえた。
(健康に気を遣ってる推し……尊い……)
スプーンで一口すくって口に運ぶ。
優しい味が、胃の奥にじわりと染み込んでいった。
「……おいしいです」
「それは何よりです」
レイは短くそう告げてから、自分の皿にも手を伸ばした。
その所作は、いつものように無駄がなく、静かで、妙に目を奪われる。
ふいに、彼がぽつりと言った。
「ひとりで来るときは、どうしても仕事のことばかり考えてしまうのですが」
「は、はい……」
「今日は、あまりそれを考えずに済んでいます」
「……え?」
レイは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから続けた。
「あなたが、よく喋ってくれるので」
「う、うわぁぁぁぁ!? わ、私……そんな喋ってましたか!? すみません、うるさかったら……!」
「いえ。……ちょうどいいです」
少しだけ、口元が緩む。
「静かすぎると、余計なことばかり考えてしまいますから。これくらいのほうが、楽ですね」
「ら、楽……」
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
“心が軽くなる”“安心する”なんて甘い言葉ではない。
けれど、それでも十分すぎるほど、あたたかい。
(そんなふうに言ってもらえるなんて……)
リリーは視線を落として、スプーンをぎゅっと握りしめた。
◇◇◇
食事を終えて店を出ると、夜風がひやりと頬をなでた。
リリーが思わず首をすくめると、レイがすぐ隣へ歩み寄る。
「寒いですか」
「すこし……」
「では、城まで歩きましょう。送ります」
自然な申し出。
それなのに、心臓がまた跳ねる。
レイはそっと立ち位置を調整し、風が直接当たらないように、さりげなくリリーの前に出た。
「っ……」
「これで、少しはましでしょう」
「ありがとうございます……」
レイの歩幅は、リリーに合わせてゆっくりだった。
そのひとつひとつの気遣いに、胸が温かくなる。
「今日は、顔色が悪い時間が長かったので」
「そ、そんなにでしたか……?」
「ええ。ですから──少しでもましになっているなら、誘って正解だったということですね」
事務的な言い方なのに、どこか満足そうでもあった。
(私……こんなに優しくされて……どうすればいいの……)
そんなリリーの横で、レイがふと口を開いた。
「……リリー嬢」
「は、はいっ……!」
情けないくらい高い声が出てしまい、レイが小さく瞬いた。
「そんなに身構えていただかなくても、大した話ではありません」
「す、すみません……!」
「あなたは、時々とても極端な反応をされるので」
「えっ……」
「驚いた顔も、困った顔も。……見ていると、飽きません」
「──!!?」
言い終えたあと、レイ自身が一瞬だけ黙り込む。
「……今のは、少し言い方が悪かったですね」
「い、いえっ!? あの、その……!」
「“可愛い”と言うべきなのでしょうけれど。ああいう言葉は、あまり使い慣れていません」
「っっっ!!??」
リリーは全力で顔を背けた。
(可愛いって……! 今、さらっとすごいこと言わなかった……!?)
「不快でしたか?」
「ふ、不快じゃないです!! むしろ、その、えっと……!」
口がもつれながらも、ようやく言葉を絞り出す。
「私なんかを可愛いって思ってくださるなんて……そんな、恐れ多いです……!」
「恐れ多い?」
「だって、レイ様は……すごく素敵な方なので……!」
言いながら、自分で自分にクリティカルヒットを入れている自覚はあった。
顔の熱が、もはや限界突破しそうだ。
けれどレイは、言い慣れていないのか──
むしろリリー以上に、瞳を揺らしていた。
「……あなたにそう言われるのは、悪くありませんね」
「っ……!」
またひとつ、胸の奥に響く言葉を落としていく。
(この人……真正面から受け取るから、余計に刺さるんだよ……)
◇◇◇
ゆっくり歩き続けるうちに、やがて城門が見えてきた。
門のそばの街灯の下で、レイが足を止める。
「……今日は、このあたりまでですね」
「そ、そうですね……」
レイは、息を整えるようにわずかに視線を伏せた。
「誘ってよかったと、今は思っています」
「はい……」
「あなたの顔色も戻りましたし。こちらの気分転換にもなりました」
“気分転換”という言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
「また、こうして……仕事帰りにでも、話ができればと」
「──っ!!」
その一言に、息が詰まる。
さっきまでの「心が安らぐ」「変わる」といった甘い言葉はない。
けれど、“また話したい”という、はっきりした意思だけが残る。
「……嫌でなければ、ですが」
「き、嫌じゃないです……! むしろ……」
“もっとご一緒したいです”と言いかけて、慌てて飲み込む。
レイは、ほっとしたように息をついた。
「では、今日はここまでにしましょう」
「はい……」
少しだけ名残惜しそうに見えるのは、きっと願望だ。
そう決めつけないと、心臓がもたない。
「あなたのおかげで、思ったよりいい一日になりました」
「──!」
「ゆっくり休んでください。……では、また」
その声音は、これまでで一番柔らかかった。
リリーは胸の上でぎゅっと手を握りしめ、どうにか言葉を返す。
「……こちらこそ……今日は、本当に、ありがとうございました……」
レイは小さく頷き、ゆっくりと背を向けた。
その背中が遠ざかるたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
(これ……どう考えても……恋じゃん……)
認めたくない。
認めたら、もう戻れなくなりそうで怖い。
推しを好きになるなんて、恐れ多くて震える。
それでも──
(好き、なんだよ……)
心だけは、もうとっくに答えを出していた。
リリーはまだ熱の残る頬を押さえながら、胸元で指をぎゅっと握る。
「好き……じゃない……」
小さく呟いたその言葉は、夜風にさらわれていった。
──その声に、もはや説得力はなかった。




