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9/25

デート

 夕暮れの城下町に、鐘の音がゆっくりと響いていた。

 その余韻が溶けていくのを見届けてから、リリーは仕事場の扉をそっと閉める。


 今日は昨日に続いて、少し忙しかった。

 書庫の整理、書類の転写、依頼文の作成、会議の議事録──気を張る場面が多かったせいで、さすがに肩が重い。


「ふう……終わった……」


 外に出ると、空気はすでに夜の色を帯びていた。

 春が近づいているとはいえ、日が落ちればまだひんやりと冷たい。


 肩をぐるりと回し、門のほうへ向かおうとした──そのとき。


「リリー嬢」


 背後から、落ち着いた低い声がした。


 振り返るより先に、心臓が跳ね上がる。


(いま……呼ばれた……? 推しの声で、私の名前……!?)


 ぎこちない動作で振り向くと、レイが夕焼けを背に立っていた。


「……お疲れ様です」


「は、はいっ……! お、お疲れさまです……!」


(だめだ、顔見た瞬間に正気が吹き飛ぶ……)


 仕事を終えたからか、レイの表情はいつもよりいくぶん柔らかい。

 けれど、そのわずかな緩みがむしろ危険だった。


「今日は、ずいぶんと動き回っていましたね」


「あの、見て……いらしたんですか……?」


「正確には、視界の端に入ってきただけです。書庫に何度も出入りしていましたから」


「ひ……っ!! ひとつひとつ見られてる……!」


 思わず肩をすくめると、レイは少しだけ首を傾げた。


「顔色も、あまり良くありません。……帰り道、もしよろしければ、一緒にどうですか」


「えっ」


 唐突な誘いに、思考が一瞬止まる。


「この時間帯は、人通りも少なくなりますから。護衛……というほど大げさなものではありませんが」


 “護衛”という言葉で、ぎりぎり現実に戻る。


(そ、そうだよね! これはデートじゃなくて、あくまで安全配慮……!)


「……ありがとうございます。よければ、一緒に」


 なんとか言葉にすると、レイの表情がわずかに和らいだ。


「では」


 自然に並んで歩き出す。

 数歩進んだところで、レイが何か言いかけて──しかし、そのまま飲み込むように視線を伏せた。


(いま絶対なんか言おうとした……! でも聞けない……!)


 横顔には、どこか確かめるような満足げな色が浮かんでいた。


◇◇◇


 石畳を踏む足音だけが、少しのあいだ続く。

 その静けさを破ったのは、レイだった。


「今日は……夕食は、まだですか」


「あっ……まだ、です……」


「そうですか」


 レイは一度、夜空を仰いでから、ふっと息を吐いた。


「……この先に、仕事帰りによく寄る店があります。静かで落ち着ける場所です。もしよければ、軽く食事でもどうですか」


「っ……!!?」


 来た。

 来てしまった。


(いや、でもこれは……“いつも自分が行く店に、ついでに連れて行く”だけ……! たぶん……!)


「ご迷惑でなければ、ですが」


「め、迷惑じゃ……!」


 思わず声が大きくなり、慌てて口を押さえる。

 レイが、わずかに目を瞬いた。


「……では、少しだけお付き合いください」


 いつもより、ほんの少しだけ口調が柔らかい気がした。


◇◇◇


 連れてこられたのは、城下町の外れにある、小さな食堂だった。

 レイいわく「静かで、人目を気にせず食事ができる場所」だという。


 扉を開けると、木の温かい香りと、柔らかな灯りが二人を迎えた。


「すてき……」


 思わず本音が漏れる。

 レイはその反応に、わずかに口元を緩めた。


「気に入っていただけたなら、よかった」


 店の隅の席に案内され、向かい合って腰を下ろす。


(向かい合って座ってる……推しと……二人で……)


 頭の中で何かが盛大に爆発していたが、外側だけはどうにか平静を装う。


 メニューを開いて迷っていると、レイが穏やかな声で尋ねた。


「辛いものは、お得意ですか?」


「す、すこし苦手で……」


「では、こちらなどいかがでしょう。味は優しく、疲れているときにちょうどいい」


 指さした先には、太めのソーセージと大きく切られた野菜がごろごろ入ったポトフが載っていた。

 見ただけで、胃に優しそうだとわかる。


(推しおすすめメニュー……尊い……)


「ここの料理は、重すぎず、よく動いた日の締めにちょうどいいんです」


 淡々としているのに、どこか慣れた声音だった。


「レイ様、よく来られるんですか?」


「ええ。仕事帰りに、考え事をしたいときなどに」


 注文を済ませると、レイがふとリリーを見つめる。


「……少し、顔色が戻りましたね」


「えっ」


「ここに来る前よりも。血の気が戻ったというか……」


 そう言われて、思わず頬に手を当てる。


「そんなこと……」


「先ほどまで、少し無理をしているように見えましたから。少しでも楽になるなら、連れてきた甲斐があります」


 それは、仕事の延長線上のような口ぶりだった。

 けれど、“気にしていた”という事実だけで、胸が温かくなる。


(ずるい……そんなの、好きになるに決まってる……)


 やがて料理が運ばれてくる。

 優しい香りとともに湯気が立ちのぼった。


「ここのポトフは、野菜も多いですから。文官はどうしても座り仕事が多いですし、こういうもので誤魔化しておかないと」


「誤魔化して、ですか?」


「不健康な生活の自覚はあるので」


 淡々とした言い方なのに、どこか照れ隠しのようにも聞こえた。


(健康に気を遣ってる推し……尊い……)


 スプーンで一口すくって口に運ぶ。

 優しい味が、胃の奥にじわりと染み込んでいった。


「……おいしいです」


「それは何よりです」


 レイは短くそう告げてから、自分の皿にも手を伸ばした。

 その所作は、いつものように無駄がなく、静かで、妙に目を奪われる。


 ふいに、彼がぽつりと言った。


「ひとりで来るときは、どうしても仕事のことばかり考えてしまうのですが」


「は、はい……」


「今日は、あまりそれを考えずに済んでいます」


「……え?」


 レイは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから続けた。


「あなたが、よく喋ってくれるので」


「う、うわぁぁぁぁ!? わ、私……そんな喋ってましたか!? すみません、うるさかったら……!」


「いえ。……ちょうどいいです」


 少しだけ、口元が緩む。


「静かすぎると、余計なことばかり考えてしまいますから。これくらいのほうが、楽ですね」


「ら、楽……」


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 “心が軽くなる”“安心する”なんて甘い言葉ではない。

 けれど、それでも十分すぎるほど、あたたかい。


(そんなふうに言ってもらえるなんて……)


 リリーは視線を落として、スプーンをぎゅっと握りしめた。


◇◇◇


 食事を終えて店を出ると、夜風がひやりと頬をなでた。

 リリーが思わず首をすくめると、レイがすぐ隣へ歩み寄る。


「寒いですか」


「すこし……」


「では、城まで歩きましょう。送ります」


 自然な申し出。

 それなのに、心臓がまた跳ねる。


 レイはそっと立ち位置を調整し、風が直接当たらないように、さりげなくリリーの前に出た。


「っ……」


「これで、少しはましでしょう」


「ありがとうございます……」


 レイの歩幅は、リリーに合わせてゆっくりだった。

 そのひとつひとつの気遣いに、胸が温かくなる。


「今日は、顔色が悪い時間が長かったので」


「そ、そんなにでしたか……?」


「ええ。ですから──少しでもましになっているなら、誘って正解だったということですね」


 事務的な言い方なのに、どこか満足そうでもあった。


(私……こんなに優しくされて……どうすればいいの……)


 そんなリリーの横で、レイがふと口を開いた。


「……リリー嬢」


「は、はいっ……!」


 情けないくらい高い声が出てしまい、レイが小さく瞬いた。


「そんなに身構えていただかなくても、大した話ではありません」


「す、すみません……!」


「あなたは、時々とても極端な反応をされるので」


「えっ……」


「驚いた顔も、困った顔も。……見ていると、飽きません」


「──!!?」


 言い終えたあと、レイ自身が一瞬だけ黙り込む。


「……今のは、少し言い方が悪かったですね」


「い、いえっ!? あの、その……!」


「“可愛い”と言うべきなのでしょうけれど。ああいう言葉は、あまり使い慣れていません」


「っっっ!!??」


 リリーは全力で顔を背けた。


(可愛いって……! 今、さらっとすごいこと言わなかった……!?)


「不快でしたか?」


「ふ、不快じゃないです!! むしろ、その、えっと……!」


 口がもつれながらも、ようやく言葉を絞り出す。


「私なんかを可愛いって思ってくださるなんて……そんな、恐れ多いです……!」


「恐れ多い?」


「だって、レイ様は……すごく素敵な方なので……!」


 言いながら、自分で自分にクリティカルヒットを入れている自覚はあった。

 顔の熱が、もはや限界突破しそうだ。


 けれどレイは、言い慣れていないのか──

 むしろリリー以上に、瞳を揺らしていた。


「……あなたにそう言われるのは、悪くありませんね」


「っ……!」


 またひとつ、胸の奥に響く言葉を落としていく。


(この人……真正面から受け取るから、余計に刺さるんだよ……)


◇◇◇


 ゆっくり歩き続けるうちに、やがて城門が見えてきた。

 門のそばの街灯の下で、レイが足を止める。


「……今日は、このあたりまでですね」


「そ、そうですね……」


 レイは、息を整えるようにわずかに視線を伏せた。


「誘ってよかったと、今は思っています」


「はい……」


「あなたの顔色も戻りましたし。こちらの気分転換にもなりました」


 “気分転換”という言葉に、少しだけ胸が温かくなる。


「また、こうして……仕事帰りにでも、話ができればと」


「──っ!!」


 その一言に、息が詰まる。


 さっきまでの「心が安らぐ」「変わる」といった甘い言葉はない。

 けれど、“また話したい”という、はっきりした意思だけが残る。


「……嫌でなければ、ですが」


「き、嫌じゃないです……! むしろ……」


 “もっとご一緒したいです”と言いかけて、慌てて飲み込む。


 レイは、ほっとしたように息をついた。


「では、今日はここまでにしましょう」


「はい……」


 少しだけ名残惜しそうに見えるのは、きっと願望だ。

 そう決めつけないと、心臓がもたない。


「あなたのおかげで、思ったよりいい一日になりました」


「──!」


「ゆっくり休んでください。……では、また」


 その声音は、これまでで一番柔らかかった。


 リリーは胸の上でぎゅっと手を握りしめ、どうにか言葉を返す。


「……こちらこそ……今日は、本当に、ありがとうございました……」


 レイは小さく頷き、ゆっくりと背を向けた。


 その背中が遠ざかるたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。


(これ……どう考えても……恋じゃん……)


 認めたくない。

 認めたら、もう戻れなくなりそうで怖い。


 推しを好きになるなんて、恐れ多くて震える。


 それでも──


(好き、なんだよ……)


 心だけは、もうとっくに答えを出していた。


 リリーはまだ熱の残る頬を押さえながら、胸元で指をぎゅっと握る。


「好き……じゃない……」


 小さく呟いたその言葉は、夜風にさらわれていった。

 ──その声に、もはや説得力はなかった。


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