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8/25

レイside

レイは、ここ最近どうにも落ち着かなかった。


 理由は、わかっている。


 ——リリー・エヴァレスト。


(……最近、様子がおかしい)


 そう思うたびに、自分のほうこそおかしいのではないか、とも思う。

 どこまでが彼女の変化で、どこからが自分の変化なのか、判断がつかなくなりつつあった。


 彼女の動揺、震え、不自然なまでの緊張。

 前髪を直したときに真っ赤になった頬。

 視線が合うたび、はっとしたように逸らされる眼差し。


(まるで……俺を避けているようにも見える)


 そう考えた瞬間、胸の奥がきゅ、と小さく痛んだ。

 それは、初めて味わう種類の痛みだった。


◇◇◇


 その日の午前。

 レイはいつものように、レオナルドの執務室で書類を整理していた。


「レイ、どうしたのだい。朝から難しい顔をしているね」


「……していましたか」


「してるね。“無表情のまま静かに悩んでる顔”。いつもの“無表情のまま静かに怒ってる顔”とは微妙に違うよ」


「……わかりにくい分類です」


 レオナルドは扇子で口元を隠し、楽しそうに目を細めた。


「リリー嬢のこと?」


 手元の羽ペンが、ほんの僅かに止まる。


「……なぜ、その名前が」


「わかるさ。君は感情を顔に出さないようにしているが、視線の流れまでは隠せない」


 図星だった。

 最近、無意識のうちにリリーを探している自覚はある。


 レオナルドは続けた。


「君ね、少し“興味の偏り”が出てきてるよ。私は嬉しいけど」


「偏り、ですか?」


「そう。“仕事以外で特定の誰かを気にかける”なんて、君には珍しい」


 レイは静かに息を吐いた。


「……リリー嬢が、最近よく動揺しているように見えます」


「うんうん」


「俺の言葉や行動で……緊張しているような……」


「ほぉ?」


 レオナルドの目が、愉快そうに光る。


「それで? 何をそんなに考えているのかな」


 レイは少しだけ言葉を選んだ。


「俺は……彼女に、不快な思いをさせているのではないか、と」


 レオナルドは、心底おどろいたように目を見開いた。


「……真逆だと思うよ?」


「真逆?」


「むしろ、君からの供給過多で、彼女の心臓の耐久値が削られているね」


「供給……?」


「君の一挙手一投足が、普通の人間には刺激が強すぎる、という話」


 レイは瞬きをした。


「……俺は、普通に接しているだけですが」


「それが問題なんだよ。無自覚で落としていくタイプって、たちが悪いんだ」


「落とす……?」


 意味がつかめず、レイは小さく眉を寄せた。


 レオナルドは肩をすくめる。


「簡単に言えばね、“特別扱いしている自覚がないまま特別扱いをしている”んだ。リリー嬢にとっては、それが大きな衝撃になってる」


「……そう、なのですか」


 知らなかった。

 知ろうとしたこともなかった。


 レオナルドはしばらくレイの顔を眺め、ふっと笑った。


「ねぇレイ。君、リリー嬢のこと、“気にしている”どころじゃないんじゃない?」


「?」


「自覚はないだろうけど……たぶん、惹かれてるよ」


 心臓が、一瞬だけ跳ねた。


 だがすぐに否定する。


「それは……ないと思います」


「じゃあ質問」


 レオナルドは、楽しげな声で続ける。


「どうして君は、リリー嬢が誰かと話していると、あんなにじっと観察しているの?」


「観察……?」


「特に、男性と話しているとき」


 レイは、そこで固まった。


(……そんなことを、俺は……)


 思い返せば、他の文官がリリーに声をかける場面。

 内容を知りたいわけでもないのに、つい視線を向けていた。


 レオナルドは軽く笑う。


「理由もわからないのに目で追ってしまうのは、もう“感情が揺れている”証拠だよ」


 レイは視線を伏せ、胸の奥を押さえた。


(揺れている……? 俺が……?)


 そんなはずはない、と理性は否定する。

 だが胸の奥に広がるざわめきが、それを許さなかった。


◇◇◇


 その日の午後。

 廊下の先に、リリーの姿を見つけた瞬間——レイの足が自然と止まった。


 リリーは、別の文官と話している。

 内容は、おそらく書類の照合作業だろう。


 なのに、胸の奥がざわつく。


(……また、この感覚)


 文官の男性が、リリーの肩越しに資料の一点を指さす。

 リリーが「ここですか?」と小さく首を傾げる。


 その距離が、ほんの少し近いだけで——胸の奥がじりじりと熱を帯びる。


(なぜ……こんなことで)


 理解できない。

 だが感情は、理解を待たない。


 気づけば、レイは二人に向かって歩き出していた。


「その書類ですが」


 文官が振り返る。


「あ、レイ様。こちらの集計がどうも合わなくて」


「それなら、昨日の数字と照合したほうが早いかと。補足を付けておきます」


「なるほど、助かります」


 文官は頭を下げ、その場を離れた。


 残されたのは、レイとリリーだけ。


「れ、レイ様っ!? い、いつの間に……!!」


 リリーは、ほとんど悲鳴のような声を上げた。


(……そんなに驚くものだろうか)


 胸の奥が、ちくりと痛む。


「邪魔をしてしまいましたか?」


「い、いえ……ぜ、ぜんぜん……!」


 慌てて首を横に振る。

 その頬は、明らかに上気していた。


 レイの胸の奥に、温かいものがふっと灯る。


(……リリー嬢は、俺に対してだけ、こうなるのだろうか)


 もしそうなら——

 この反応が自分だけに向けられているのだとしたら。


 その想像だけで、胸がくすぐったくなった。


「リリー嬢」


「は、はいっ!」


「……またあとで、資料の続きを一緒に確認していただけますか」


「っ……! は、はい……!」


 声は震えている。

 だが、それは拒絶ではない。


 むしろ、どこか嬉しそうに見えた。


 その表情に、レイの心がまた静かに揺れる。


(……俺は、いったい何を感じている)


 答えは、まだわからない。

 だが——悪くない、とだけは思った。


◇◇◇


 午後の執務室。

 レイはいつも通り書類を捌いていたが、どうにも集中できなかった。


 視線が、何度も勝手に動いてしまう。


 ——リリーのほうへ。


 部屋の隅の席で、彼女は黙々と仕事をこなしている。

 だが、疲れているのか、ときおりこめかみを押さえ、深く息を吐いていた。


(……顔色がよくない。無理をしているのでは)


 胸の奥がざわりと揺れる。

 以前なら「部下の健康状態」として処理しただろう。


 だが今は違う。

 説明できない焦りのような心配が、胸をじわじわと満たしていく。


(どうして、ここまで気になる?)


 答えは出ない。

 けれど——ただ見ているだけでは、もはや落ち着かなかった。


 レイは静かに席を立つ。


「リリー嬢」


 声をかけると、リリーは椅子ごと跳ね上がりそうな勢いで振り向いた。


「っ!? れ、レイ様……!」


 大きく見開かれた瞳が揺れ、胸元へ添えられた手が小さく震える。

 明らかに、心臓の速度を落ち着けようとしている仕草だ。


 その様子が、なぜか胸に響いた。


(……かわいい)


 頭の中に浮かんだ単語に、レイは一瞬息を止める。


(かわ……? いや、これは……)


 自分への違和感を飲み込みながらも、視線は彼女から離れない。


 レイは、ほんの少し距離を詰めて口を開いた。


「顔色が良くないようですが……無理をしていませんか」


「へっ……!? い、いえっ……! だいじょ、ぶです……!」


「本当に?」


「ほ、本当に……!」


 言葉とは裏腹に、その声は震えていた。

 説得力は、ほとんどない。


 レイはわずかに眉をひそめた。

 自然と、心配が言葉になる。


「無理をする必要はありません。……あなたが倒れるのは、見たくないので」


「っ……!!」


 リリーの肩がびくりと震え、顔が一気に赤く染まる。


 執務室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。

 レイ自身の鼓動すら、耳に届く。


(……なぜ、こんな言葉を)


 今まで、部下に対してこんな言い方をしたことはない。

 言う必要がなかった、というだけでなく——

 ここまで踏み込めば、相手に誤解や期待を与えることも知っていたからだ。


 それでも、リリーには出てしまった。


 “倒れてほしくない”という願いが、理性より先に口をついて出たのだ。


 リリーは机の端を掴み、かろうじて立っている。


「れ、れれれ……レイ様……そういう、その……っ」


「そういう?」


 レイが小さく首を傾げると、リリーはさらに真っ赤になり、言葉を失った。


(どういう意味なのだろう……)


 わからない。

 わからないからこそ、知りたくなる。


 レイは、その理由を確かめるように、少し身を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。


 距離が、さらに近づく。


 その瞬間——


 リリーの呼吸がひゅっと止まり、目が潤む。


(……やはり、かわ……)


 その思考が最後まで形になる前に——


 アンネが、バンッ、と机を叩いて立ち上がった。


「ストップです!!」


 レイは反射的に肩を震わせ、そちらに視線を向ける。


「……アンネ嬢?」


「レイ様、近いです。あまり近づかれるとリリーは……あの、その……死ぬので」


「死ぬ……?」


 本気で尋ねると、アンネは頭を抱えた。


「無自覚に破壊力のあることを連発されるとまずいんです! もっと、距離を……!」


 アンネの必死の訴えに、レイは一歩退いた。


 距離が開いた瞬間、リリーはぐったりと椅子へ腰を落とす。

 アンネが慌てて駆け寄り、背をさすった。


「リリー、大丈夫?」


「……むり……しぬ……」


「ほら見なさい」


 アンネのぼやきが聞こえる。


 レイの胸が、ぎゅっと縮まった。


(……俺が、彼女を苦しめている?)


 違う。

 苦しめたいわけでは決してない。


 ただ——


(なぜ、俺の言葉であれほど揺れるのか……もっと知りたい)


 その欲求が、胸の奥で静かに広がっていく。


◇◇◇


 その日の帰り際。

 廊下の窓から差し込む夕陽が、リリーの髪を柔らかく照らしていた。


「リリー嬢」


「は、はい……!」


 振り向いた彼女の顔は、まだ少し赤い。


 レイは、言葉を選びながら口を開いた。


「……先ほどのことですが。俺の言い方で、迷惑をかけてしまいましたか」


「えっ」


 リリーはぱっと目を見開き、勢いよく首を振る。


「め、迷惑なんて……とんでもないです! そ、そそそんな……!」


「そうですか。では……」


 レイは、一歩だけ近づいた。

 また、リリーの肩が小さく震える。

 けれど、後ずさりはしない。


 その事実が、胸を温かくした。


「では、これからも。あなたの体調が悪そうなときは、声をかけます」


「っ……あ……は、はい……!」


 リリーは涙目で、それでも嬉しそうに頷いた。


 その反応に、レイは気付く。


 ——彼女の表情が変わるたび、胸が熱くなる。

 ——彼女の反応を見るたび、言葉が自然に溢れてくる。


 それが“恋”と呼ばれるものだと、このときの彼はまだ知らない。


 ただひとつだけ、はっきりしているのは。


(……リリー嬢の反応を、もっと見たい)


 その願いが、確実にレイの心を形作り始めている、ということだけだった。


 夕陽の射す廊下で、レイの胸は静かに——けれど確かに、音を立てていた。

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