レイside
レイは、ここ最近どうにも落ち着かなかった。
理由は、わかっている。
——リリー・エヴァレスト。
(……最近、様子がおかしい)
そう思うたびに、自分のほうこそおかしいのではないか、とも思う。
どこまでが彼女の変化で、どこからが自分の変化なのか、判断がつかなくなりつつあった。
彼女の動揺、震え、不自然なまでの緊張。
前髪を直したときに真っ赤になった頬。
視線が合うたび、はっとしたように逸らされる眼差し。
(まるで……俺を避けているようにも見える)
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅ、と小さく痛んだ。
それは、初めて味わう種類の痛みだった。
◇◇◇
その日の午前。
レイはいつものように、レオナルドの執務室で書類を整理していた。
「レイ、どうしたのだい。朝から難しい顔をしているね」
「……していましたか」
「してるね。“無表情のまま静かに悩んでる顔”。いつもの“無表情のまま静かに怒ってる顔”とは微妙に違うよ」
「……わかりにくい分類です」
レオナルドは扇子で口元を隠し、楽しそうに目を細めた。
「リリー嬢のこと?」
手元の羽ペンが、ほんの僅かに止まる。
「……なぜ、その名前が」
「わかるさ。君は感情を顔に出さないようにしているが、視線の流れまでは隠せない」
図星だった。
最近、無意識のうちにリリーを探している自覚はある。
レオナルドは続けた。
「君ね、少し“興味の偏り”が出てきてるよ。私は嬉しいけど」
「偏り、ですか?」
「そう。“仕事以外で特定の誰かを気にかける”なんて、君には珍しい」
レイは静かに息を吐いた。
「……リリー嬢が、最近よく動揺しているように見えます」
「うんうん」
「俺の言葉や行動で……緊張しているような……」
「ほぉ?」
レオナルドの目が、愉快そうに光る。
「それで? 何をそんなに考えているのかな」
レイは少しだけ言葉を選んだ。
「俺は……彼女に、不快な思いをさせているのではないか、と」
レオナルドは、心底おどろいたように目を見開いた。
「……真逆だと思うよ?」
「真逆?」
「むしろ、君からの供給過多で、彼女の心臓の耐久値が削られているね」
「供給……?」
「君の一挙手一投足が、普通の人間には刺激が強すぎる、という話」
レイは瞬きをした。
「……俺は、普通に接しているだけですが」
「それが問題なんだよ。無自覚で落としていくタイプって、たちが悪いんだ」
「落とす……?」
意味がつかめず、レイは小さく眉を寄せた。
レオナルドは肩をすくめる。
「簡単に言えばね、“特別扱いしている自覚がないまま特別扱いをしている”んだ。リリー嬢にとっては、それが大きな衝撃になってる」
「……そう、なのですか」
知らなかった。
知ろうとしたこともなかった。
レオナルドはしばらくレイの顔を眺め、ふっと笑った。
「ねぇレイ。君、リリー嬢のこと、“気にしている”どころじゃないんじゃない?」
「?」
「自覚はないだろうけど……たぶん、惹かれてるよ」
心臓が、一瞬だけ跳ねた。
だがすぐに否定する。
「それは……ないと思います」
「じゃあ質問」
レオナルドは、楽しげな声で続ける。
「どうして君は、リリー嬢が誰かと話していると、あんなにじっと観察しているの?」
「観察……?」
「特に、男性と話しているとき」
レイは、そこで固まった。
(……そんなことを、俺は……)
思い返せば、他の文官がリリーに声をかける場面。
内容を知りたいわけでもないのに、つい視線を向けていた。
レオナルドは軽く笑う。
「理由もわからないのに目で追ってしまうのは、もう“感情が揺れている”証拠だよ」
レイは視線を伏せ、胸の奥を押さえた。
(揺れている……? 俺が……?)
そんなはずはない、と理性は否定する。
だが胸の奥に広がるざわめきが、それを許さなかった。
◇◇◇
その日の午後。
廊下の先に、リリーの姿を見つけた瞬間——レイの足が自然と止まった。
リリーは、別の文官と話している。
内容は、おそらく書類の照合作業だろう。
なのに、胸の奥がざわつく。
(……また、この感覚)
文官の男性が、リリーの肩越しに資料の一点を指さす。
リリーが「ここですか?」と小さく首を傾げる。
その距離が、ほんの少し近いだけで——胸の奥がじりじりと熱を帯びる。
(なぜ……こんなことで)
理解できない。
だが感情は、理解を待たない。
気づけば、レイは二人に向かって歩き出していた。
「その書類ですが」
文官が振り返る。
「あ、レイ様。こちらの集計がどうも合わなくて」
「それなら、昨日の数字と照合したほうが早いかと。補足を付けておきます」
「なるほど、助かります」
文官は頭を下げ、その場を離れた。
残されたのは、レイとリリーだけ。
「れ、レイ様っ!? い、いつの間に……!!」
リリーは、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
(……そんなに驚くものだろうか)
胸の奥が、ちくりと痛む。
「邪魔をしてしまいましたか?」
「い、いえ……ぜ、ぜんぜん……!」
慌てて首を横に振る。
その頬は、明らかに上気していた。
レイの胸の奥に、温かいものがふっと灯る。
(……リリー嬢は、俺に対してだけ、こうなるのだろうか)
もしそうなら——
この反応が自分だけに向けられているのだとしたら。
その想像だけで、胸がくすぐったくなった。
「リリー嬢」
「は、はいっ!」
「……またあとで、資料の続きを一緒に確認していただけますか」
「っ……! は、はい……!」
声は震えている。
だが、それは拒絶ではない。
むしろ、どこか嬉しそうに見えた。
その表情に、レイの心がまた静かに揺れる。
(……俺は、いったい何を感じている)
答えは、まだわからない。
だが——悪くない、とだけは思った。
◇◇◇
午後の執務室。
レイはいつも通り書類を捌いていたが、どうにも集中できなかった。
視線が、何度も勝手に動いてしまう。
——リリーのほうへ。
部屋の隅の席で、彼女は黙々と仕事をこなしている。
だが、疲れているのか、ときおりこめかみを押さえ、深く息を吐いていた。
(……顔色がよくない。無理をしているのでは)
胸の奥がざわりと揺れる。
以前なら「部下の健康状態」として処理しただろう。
だが今は違う。
説明できない焦りのような心配が、胸をじわじわと満たしていく。
(どうして、ここまで気になる?)
答えは出ない。
けれど——ただ見ているだけでは、もはや落ち着かなかった。
レイは静かに席を立つ。
「リリー嬢」
声をかけると、リリーは椅子ごと跳ね上がりそうな勢いで振り向いた。
「っ!? れ、レイ様……!」
大きく見開かれた瞳が揺れ、胸元へ添えられた手が小さく震える。
明らかに、心臓の速度を落ち着けようとしている仕草だ。
その様子が、なぜか胸に響いた。
(……かわいい)
頭の中に浮かんだ単語に、レイは一瞬息を止める。
(かわ……? いや、これは……)
自分への違和感を飲み込みながらも、視線は彼女から離れない。
レイは、ほんの少し距離を詰めて口を開いた。
「顔色が良くないようですが……無理をしていませんか」
「へっ……!? い、いえっ……! だいじょ、ぶです……!」
「本当に?」
「ほ、本当に……!」
言葉とは裏腹に、その声は震えていた。
説得力は、ほとんどない。
レイはわずかに眉をひそめた。
自然と、心配が言葉になる。
「無理をする必要はありません。……あなたが倒れるのは、見たくないので」
「っ……!!」
リリーの肩がびくりと震え、顔が一気に赤く染まる。
執務室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。
レイ自身の鼓動すら、耳に届く。
(……なぜ、こんな言葉を)
今まで、部下に対してこんな言い方をしたことはない。
言う必要がなかった、というだけでなく——
ここまで踏み込めば、相手に誤解や期待を与えることも知っていたからだ。
それでも、リリーには出てしまった。
“倒れてほしくない”という願いが、理性より先に口をついて出たのだ。
リリーは机の端を掴み、かろうじて立っている。
「れ、れれれ……レイ様……そういう、その……っ」
「そういう?」
レイが小さく首を傾げると、リリーはさらに真っ赤になり、言葉を失った。
(どういう意味なのだろう……)
わからない。
わからないからこそ、知りたくなる。
レイは、その理由を確かめるように、少し身を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
距離が、さらに近づく。
その瞬間——
リリーの呼吸がひゅっと止まり、目が潤む。
(……やはり、かわ……)
その思考が最後まで形になる前に——
アンネが、バンッ、と机を叩いて立ち上がった。
「ストップです!!」
レイは反射的に肩を震わせ、そちらに視線を向ける。
「……アンネ嬢?」
「レイ様、近いです。あまり近づかれるとリリーは……あの、その……死ぬので」
「死ぬ……?」
本気で尋ねると、アンネは頭を抱えた。
「無自覚に破壊力のあることを連発されるとまずいんです! もっと、距離を……!」
アンネの必死の訴えに、レイは一歩退いた。
距離が開いた瞬間、リリーはぐったりと椅子へ腰を落とす。
アンネが慌てて駆け寄り、背をさすった。
「リリー、大丈夫?」
「……むり……しぬ……」
「ほら見なさい」
アンネのぼやきが聞こえる。
レイの胸が、ぎゅっと縮まった。
(……俺が、彼女を苦しめている?)
違う。
苦しめたいわけでは決してない。
ただ——
(なぜ、俺の言葉であれほど揺れるのか……もっと知りたい)
その欲求が、胸の奥で静かに広がっていく。
◇◇◇
その日の帰り際。
廊下の窓から差し込む夕陽が、リリーの髪を柔らかく照らしていた。
「リリー嬢」
「は、はい……!」
振り向いた彼女の顔は、まだ少し赤い。
レイは、言葉を選びながら口を開いた。
「……先ほどのことですが。俺の言い方で、迷惑をかけてしまいましたか」
「えっ」
リリーはぱっと目を見開き、勢いよく首を振る。
「め、迷惑なんて……とんでもないです! そ、そそそんな……!」
「そうですか。では……」
レイは、一歩だけ近づいた。
また、リリーの肩が小さく震える。
けれど、後ずさりはしない。
その事実が、胸を温かくした。
「では、これからも。あなたの体調が悪そうなときは、声をかけます」
「っ……あ……は、はい……!」
リリーは涙目で、それでも嬉しそうに頷いた。
その反応に、レイは気付く。
——彼女の表情が変わるたび、胸が熱くなる。
——彼女の反応を見るたび、言葉が自然に溢れてくる。
それが“恋”と呼ばれるものだと、このときの彼はまだ知らない。
ただひとつだけ、はっきりしているのは。
(……リリー嬢の反応を、もっと見たい)
その願いが、確実にレイの心を形作り始めている、ということだけだった。
夕陽の射す廊下で、レイの胸は静かに——けれど確かに、音を立てていた。




