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7/25

距離が近づきすぎる日

王宮文官局の夕刻は、いつも慌ただしい。

 昼のうちに処理しきれなかった書類が机に積み重なり、誰かがひとつ溜息をつくたびに、紙束がふわりと揺れる。


 けれど、この日はいつにも増して喧騒がひどかった。


「急ぎの文書が追加だ! 至急分類して写しを取れ!」

「今日中に、ですか!? 本気で!?」

「騎士団との連名だ、遅れは許されん!」


 怒号と焦りが飛び交い、文官局はもはや修羅場である。


 リリーも例外ではなく、胸いっぱいに紙束を抱え、半ば小走りで席へ戻っていた。


「……今日、帰れるかな……?」


 徹夜という二文字を頭の隅に押しやりつつ、彼女は椅子に腰を落とすと、黙々と分類作業を始める。


 同僚たちが慌ただしく出入りする中、彼女の周囲だけは妙に静かだった。

 集中すると視界も聴覚も狭まるのは、いつものこと。

 “推しがいないときは現実の解像度が下がる”という、致命的な悪癖でもある。


 だから——その「気配」が近づいた瞬間にも、リリーは気づけなかった。


「手伝いましょうか」


 静かで、よく通る声。

 耳元に近い位置から降ってきたその声に、リリーは肩を跳ねさせた。


「えっ!? な、なんでこちらに……っ!?」


 紙を落としそうになりながら振り返ると、そこにはレイが立っていた。

 いつもの落ち着いた表情。けれど、その琥珀色の瞳には、周囲を冷静に観察する光が宿っている。


「レオナルド様の代理で来ました。急ぎの書類は、こちらでも把握しておく必要がありますので。それに——」


 レイはリリーが抱えていた紙束へ視線を落とし、ほんの僅かに眉を寄せた。


「……量が多いですね。無理をなさらないほうがいい」


 淡々とした言葉なのに、不思議と温度がある。


 コトリ、と机に湯気の立つカップが置かれた。

 両手で包むと、優しい熱がじんわりと指に染みこむ。


「こ、これは……?」


「集中力が落ちると効率も下がります。温かい飲み物は効果的ですよ。皆さんにもお配りしています」


 レイが淹れた紅茶——

 ただその事実だけで、心臓が条件反射で跳ねた。


「ぁ……ぁの……ありがとうございます……」


 声が微妙に震える。

 隣の席からアンネの視線が飛んできた。


(近い……近いって……! 本当に距離感おかしいってあの人……!)


 全身でそう訴えているような、呆れ半分・諦め半分の目だった。


 レイは紅茶を置くと、ごく自然な仕草でリリーの書類の一部を手に取る。


「こちらは僕が進めます。リリー嬢は、分類を優先してください」


「は、はいっ……!」


 隣でペンが滑る音がするたび、意識がそちらへ引き寄せられる。

 背筋がぴんと伸び、呼吸が浅くなるのを自覚しながらも、どうにもならない。


 そんな様子に気づいたのか、レイがふと覗き込んだ。


「……手が震えていますよ」


「ひゃいっ……!」


 情けない声が勝手に出る。止められない。

 レイは動揺の理由が分からないらしく、わずかに首を傾げた。


「……本当に、大丈夫ですか?」


「だ、だいじょ……ぶで……す……」


 言葉が溶けていく。

 本当はまったく大丈夫ではない。


 距離が、近い。

 紙一枚どころか、髪の毛数本で触れ合いそうな近さ。

 彼の影が重なるたび、心臓が跳ね、胸の奥がじんわり熱くなる。


 レイは気にする様子もなく、淡々と作業を続けた。


◇◇◇


 どれくらい時間が経った頃か。


「——目に、髪が入っていますよ」


 唐突な指摘とともに、視界の端でレイの手がふわりと動いた。

 前髪がそっと整えられ、邪魔だった一房が耳に掛けられる。


 他意はない。

 ただ視界を確保するために髪を払った、その程度の仕草。


 ——なのに。


 リリーにとっては、完全に致死量だった。


「っ……!」


 息が止まる。

 本当に、肺が一瞬動きを忘れた。


 視界がぐらりと揺れ、椅子の脚がキイと嫌な音を立てる。

 バランスを崩しかけた瞬間、レイの腕が素早く支えた。


「危ない。……やはり、少し休まれたほうがいいですね」


「あ、あの……ありがとうございます……」


 甘い声でも、特別な笑みでもない。

 それなのに、分かりやすく滲む優しさが、かえって効く。


 鼓動が、耳の奥でいつまでも鳴り続ける。


 遠くの席から、いつの間にか様子を見に来ていたレオナルドが、扇子で口元を隠しながら小さく呟いた。


「今日はだいぶ進展したねぇ。面白い」


 アンネは眉間を押さえながら、心底疲れたようにため息をつく。


「……供給量、限界突破しましたね。絶対あとで倒れるわ、これ」


 リリー自身も、自覚はあった。

 今の一連の出来事は、彼女にとって“致死量の優しさ”だ。


 指先が震え、顔はきっと真っ赤。

 それでもレイは、リリーから視線を逸らさない。

 むしろ——彼女の反応を、静かに観察しているように見えた。


 ——この距離は、心臓に悪すぎる。


 けれど、その距離を拒むという選択肢自体が、リリーには存在しなかった。


◇◇◇


 時刻は夜半に差しかかっていた。

 文官局の明かりは幾分か落とされ、紙とペンの擦れる音だけが、規則正しく響いている。


 リリーの精神は、限界ギリギリだった。

 頭の回転は鈍くなり、先ほどの「肩支え事件」の余韻で、手元も震えがちだ。


 なのに、妙な気力だけは残っていた。


 ——レイが、すぐ隣にいるから。


(ちょ、ちょっと待って……ほんとに、距離……)


 肩が触れそうな近さ。

 少しでも体を動かせば、彼の腕や胸に触れてしまいそうで怖い。


 レイ本人は、まったく気付いていないのだろう。

 「効率のための最適な距離」に座っている、ただそれだけの認識に違いない。


 だが、リリーには刺激が強すぎる。


「リリー嬢、こちらの確認をお願いします」


「ひゃっ……! あ、はい……!」


 書類を受け取る指先が震える。

 レイは、そのわずかな揺れを見逃さなかった。


「……本当に、無理をしていませんか?」


 表情は変わらない。

 けれど、その声色だけはほんの少し柔らかくて、優しい。


「だい、じょうぶです……っ」


「顔が赤いです」


「っ……そ、それは……っ!」


(あなたのせいです……! なんて口が裂けても言えない!!)


 レイは、小さく息を吐くと、そっと椅子から立ち上がった。

 そして、そのままリリーの背後へ回り込む。


「す、すみまっ——」


 言い終わる前に、肩にふわりと温度が触れた。


「姿勢が崩れています。少し、肩の力を抜いてください」


「っっっ……!!??」


 肩越しに伝わる体温。

 耳の後ろに落ちる影。

 ほんのわずかな距離の変化が、世界をひっくり返すほどの衝撃に変わる。


(む、無理無理無理……死ぬ……!)


 レイは気付かないまま、静かに彼女の両肩へそっと触れて、ごく軽く押した。

 ただ姿勢を整えただけ。

 本当に、それだけのつもりだった。


「これで、だいぶ楽になるはずです」


「は、はひ……っ……」


 情けない返事が裏返る。

 遠くの席で、アンネが頭を抱え込んでいた。


(完全に過剰供給……明日、確実に寝込むやつ……)


 レイの中にも、さすがに違和感が芽生え始めていた。

 前髪を直した時も、肩に触れた時も——

 リリーの反応は、どう見ても「過剰」だ。


 自分のささいな動作に対して、あまりにも敏感に揺れる。


(どうして……こんなに、反応する?)


 疑問は、そのまま興味へと姿を変える。

 琥珀色の瞳の奥に、淡い好奇心が灯った。


 気付けば、その視線はリリーの横顔を追い続けている。


 リリーは必死に書類へ目を落としているが、耳まで真っ赤で、ペンの動きもどこかぎこちない。

 その不器用な反応が、どうにも目を離させてくれなかった。


「……リリー嬢」


 低く落ちた声に、距離がさらに一段近づく。


「えっ……な、なんでしょう……?」


 レイは、ほんの一瞬だけ迷うように視線を泳がせ——そして、言葉を選んだ。


「あなたは……見ていて、面白い人ですね」


「っ……!!?」


 意味を噛みしめる前に、心臓が大きく跳ねた。

 胸の奥がぎゅっと縮み、息が止まる。


 口調はいつも通り淡々としている。

 特別な微笑みも、甘い響きもない。

 それでも、その言葉は真っ直ぐに心臓へ刺さってきた。


 ——致死量。


「っ、あ、あの……ありがとうございます……っ」


 限界だった。

 リリーは椅子から立ち上がると、ほとんど反射的に書類を抱え、逃げるようにその場を離れた。


 レイはその背中を、静かに見送る。

 深く息を吸い、ゆっくり吐き出すと、思考をまとめるように視線を伏せた。


(……どうして、あれほど彼女を見ると感情が揺れるのか。

 その理由を、知りたい)


 もっと、近くで。

 もっと、長く。

 彼女の表情を、反応を、声を——見ていたい。


 自覚のないまま、彼はすでに一歩、踏み込んでしまっていた。


◇◇◇


 リリーはふらふらと廊下を歩きながら、心の中で絶叫していた。


(慣れてきたと思ってたのに!! 近い、近すぎた……!!

 なんであんな自然体で触れるの!?

 こっちはもう、寿命の残りカスで動いてるっていうのにーー!!)


 その夜。

 自室へ戻った彼女は、布団の上で転がり続ける羽目になる。


「むりむりむり……っ!

 なんであんな……自然に……肩とか……前髪とか……っ!

 ひぃ……しぬ……!!」


 床がミシ、と小さく鳴るほど悶えながら、脳内はレイの仕草と声で埋め尽くされていた。


◇ レイ side ◇


 同じ頃。

 レイは伯爵家の自室で、暖炉の前に置かれた椅子に腰掛け、静かに紅茶を口にしていた。


 しかし、その琥珀色の瞳は、遠くを見るように宙を漂っている。


(前髪に触れただけであれほど動揺し、

 肩に軽く触れただけで震える……)


 理由が、分からない。

 けれど——


(もう少し、見てみたいと思ってしまっている)


 最初は、執事としての「観察癖」だった。

 客人や主の反応を読み取り、先回りして動くための職業的な習慣。


 だが、リリーに対して向けられているそれは、少しだけ違う。


 もっと近くで見ていたい。

 もっと、知りたい。


 その欲求は、もはや単なる“観察対象への興味”ではなかった。


 本人だけが、その変化に気付いていない。


◇◇◇


 そして翌日。

 文官局では、噂がさらに勢いを増していた。


「昨日、レイ様と遅くまで一緒だったらしいぞ……?」

「いや、距離近すぎないか? あれもう、そういう……」

「リリー嬢、絶対何かあるよな……」


 リリーは机で小さく丸まりながら、心の中で泣き叫ぶ。


(お願いだからっ……せめて私に聞こえないところで話して……! 本当にお願い……!!)


 隣のアンネは、淡々と現実を告げた。


「……社内恋愛って、大変ねぇ」


「してない……してないから……!」


「はいはい、そういうことにしといてあげる」


 一方その頃、少し離れた席で紅茶を啜っていたレオナルドは、満足そうに目を細めていた。


「いいねぇ、青春してる」


 王宮のストレス社会において——

 “リリーとレイ”という存在は確実に、職員たちの新しい「癒し」として定着しつつあった。

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