距離が近づきすぎる日
王宮文官局の夕刻は、いつも慌ただしい。
昼のうちに処理しきれなかった書類が机に積み重なり、誰かがひとつ溜息をつくたびに、紙束がふわりと揺れる。
けれど、この日はいつにも増して喧騒がひどかった。
「急ぎの文書が追加だ! 至急分類して写しを取れ!」
「今日中に、ですか!? 本気で!?」
「騎士団との連名だ、遅れは許されん!」
怒号と焦りが飛び交い、文官局はもはや修羅場である。
リリーも例外ではなく、胸いっぱいに紙束を抱え、半ば小走りで席へ戻っていた。
「……今日、帰れるかな……?」
徹夜という二文字を頭の隅に押しやりつつ、彼女は椅子に腰を落とすと、黙々と分類作業を始める。
同僚たちが慌ただしく出入りする中、彼女の周囲だけは妙に静かだった。
集中すると視界も聴覚も狭まるのは、いつものこと。
“推しがいないときは現実の解像度が下がる”という、致命的な悪癖でもある。
だから——その「気配」が近づいた瞬間にも、リリーは気づけなかった。
「手伝いましょうか」
静かで、よく通る声。
耳元に近い位置から降ってきたその声に、リリーは肩を跳ねさせた。
「えっ!? な、なんでこちらに……っ!?」
紙を落としそうになりながら振り返ると、そこにはレイが立っていた。
いつもの落ち着いた表情。けれど、その琥珀色の瞳には、周囲を冷静に観察する光が宿っている。
「レオナルド様の代理で来ました。急ぎの書類は、こちらでも把握しておく必要がありますので。それに——」
レイはリリーが抱えていた紙束へ視線を落とし、ほんの僅かに眉を寄せた。
「……量が多いですね。無理をなさらないほうがいい」
淡々とした言葉なのに、不思議と温度がある。
コトリ、と机に湯気の立つカップが置かれた。
両手で包むと、優しい熱がじんわりと指に染みこむ。
「こ、これは……?」
「集中力が落ちると効率も下がります。温かい飲み物は効果的ですよ。皆さんにもお配りしています」
レイが淹れた紅茶——
ただその事実だけで、心臓が条件反射で跳ねた。
「ぁ……ぁの……ありがとうございます……」
声が微妙に震える。
隣の席からアンネの視線が飛んできた。
(近い……近いって……! 本当に距離感おかしいってあの人……!)
全身でそう訴えているような、呆れ半分・諦め半分の目だった。
レイは紅茶を置くと、ごく自然な仕草でリリーの書類の一部を手に取る。
「こちらは僕が進めます。リリー嬢は、分類を優先してください」
「は、はいっ……!」
隣でペンが滑る音がするたび、意識がそちらへ引き寄せられる。
背筋がぴんと伸び、呼吸が浅くなるのを自覚しながらも、どうにもならない。
そんな様子に気づいたのか、レイがふと覗き込んだ。
「……手が震えていますよ」
「ひゃいっ……!」
情けない声が勝手に出る。止められない。
レイは動揺の理由が分からないらしく、わずかに首を傾げた。
「……本当に、大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ……ぶで……す……」
言葉が溶けていく。
本当はまったく大丈夫ではない。
距離が、近い。
紙一枚どころか、髪の毛数本で触れ合いそうな近さ。
彼の影が重なるたび、心臓が跳ね、胸の奥がじんわり熱くなる。
レイは気にする様子もなく、淡々と作業を続けた。
◇◇◇
どれくらい時間が経った頃か。
「——目に、髪が入っていますよ」
唐突な指摘とともに、視界の端でレイの手がふわりと動いた。
前髪がそっと整えられ、邪魔だった一房が耳に掛けられる。
他意はない。
ただ視界を確保するために髪を払った、その程度の仕草。
——なのに。
リリーにとっては、完全に致死量だった。
「っ……!」
息が止まる。
本当に、肺が一瞬動きを忘れた。
視界がぐらりと揺れ、椅子の脚がキイと嫌な音を立てる。
バランスを崩しかけた瞬間、レイの腕が素早く支えた。
「危ない。……やはり、少し休まれたほうがいいですね」
「あ、あの……ありがとうございます……」
甘い声でも、特別な笑みでもない。
それなのに、分かりやすく滲む優しさが、かえって効く。
鼓動が、耳の奥でいつまでも鳴り続ける。
遠くの席から、いつの間にか様子を見に来ていたレオナルドが、扇子で口元を隠しながら小さく呟いた。
「今日はだいぶ進展したねぇ。面白い」
アンネは眉間を押さえながら、心底疲れたようにため息をつく。
「……供給量、限界突破しましたね。絶対あとで倒れるわ、これ」
リリー自身も、自覚はあった。
今の一連の出来事は、彼女にとって“致死量の優しさ”だ。
指先が震え、顔はきっと真っ赤。
それでもレイは、リリーから視線を逸らさない。
むしろ——彼女の反応を、静かに観察しているように見えた。
——この距離は、心臓に悪すぎる。
けれど、その距離を拒むという選択肢自体が、リリーには存在しなかった。
◇◇◇
時刻は夜半に差しかかっていた。
文官局の明かりは幾分か落とされ、紙とペンの擦れる音だけが、規則正しく響いている。
リリーの精神は、限界ギリギリだった。
頭の回転は鈍くなり、先ほどの「肩支え事件」の余韻で、手元も震えがちだ。
なのに、妙な気力だけは残っていた。
——レイが、すぐ隣にいるから。
(ちょ、ちょっと待って……ほんとに、距離……)
肩が触れそうな近さ。
少しでも体を動かせば、彼の腕や胸に触れてしまいそうで怖い。
レイ本人は、まったく気付いていないのだろう。
「効率のための最適な距離」に座っている、ただそれだけの認識に違いない。
だが、リリーには刺激が強すぎる。
「リリー嬢、こちらの確認をお願いします」
「ひゃっ……! あ、はい……!」
書類を受け取る指先が震える。
レイは、そのわずかな揺れを見逃さなかった。
「……本当に、無理をしていませんか?」
表情は変わらない。
けれど、その声色だけはほんの少し柔らかくて、優しい。
「だい、じょうぶです……っ」
「顔が赤いです」
「っ……そ、それは……っ!」
(あなたのせいです……! なんて口が裂けても言えない!!)
レイは、小さく息を吐くと、そっと椅子から立ち上がった。
そして、そのままリリーの背後へ回り込む。
「す、すみまっ——」
言い終わる前に、肩にふわりと温度が触れた。
「姿勢が崩れています。少し、肩の力を抜いてください」
「っっっ……!!??」
肩越しに伝わる体温。
耳の後ろに落ちる影。
ほんのわずかな距離の変化が、世界をひっくり返すほどの衝撃に変わる。
(む、無理無理無理……死ぬ……!)
レイは気付かないまま、静かに彼女の両肩へそっと触れて、ごく軽く押した。
ただ姿勢を整えただけ。
本当に、それだけのつもりだった。
「これで、だいぶ楽になるはずです」
「は、はひ……っ……」
情けない返事が裏返る。
遠くの席で、アンネが頭を抱え込んでいた。
(完全に過剰供給……明日、確実に寝込むやつ……)
レイの中にも、さすがに違和感が芽生え始めていた。
前髪を直した時も、肩に触れた時も——
リリーの反応は、どう見ても「過剰」だ。
自分のささいな動作に対して、あまりにも敏感に揺れる。
(どうして……こんなに、反応する?)
疑問は、そのまま興味へと姿を変える。
琥珀色の瞳の奥に、淡い好奇心が灯った。
気付けば、その視線はリリーの横顔を追い続けている。
リリーは必死に書類へ目を落としているが、耳まで真っ赤で、ペンの動きもどこかぎこちない。
その不器用な反応が、どうにも目を離させてくれなかった。
「……リリー嬢」
低く落ちた声に、距離がさらに一段近づく。
「えっ……な、なんでしょう……?」
レイは、ほんの一瞬だけ迷うように視線を泳がせ——そして、言葉を選んだ。
「あなたは……見ていて、面白い人ですね」
「っ……!!?」
意味を噛みしめる前に、心臓が大きく跳ねた。
胸の奥がぎゅっと縮み、息が止まる。
口調はいつも通り淡々としている。
特別な微笑みも、甘い響きもない。
それでも、その言葉は真っ直ぐに心臓へ刺さってきた。
——致死量。
「っ、あ、あの……ありがとうございます……っ」
限界だった。
リリーは椅子から立ち上がると、ほとんど反射的に書類を抱え、逃げるようにその場を離れた。
レイはその背中を、静かに見送る。
深く息を吸い、ゆっくり吐き出すと、思考をまとめるように視線を伏せた。
(……どうして、あれほど彼女を見ると感情が揺れるのか。
その理由を、知りたい)
もっと、近くで。
もっと、長く。
彼女の表情を、反応を、声を——見ていたい。
自覚のないまま、彼はすでに一歩、踏み込んでしまっていた。
◇◇◇
リリーはふらふらと廊下を歩きながら、心の中で絶叫していた。
(慣れてきたと思ってたのに!! 近い、近すぎた……!!
なんであんな自然体で触れるの!?
こっちはもう、寿命の残りカスで動いてるっていうのにーー!!)
その夜。
自室へ戻った彼女は、布団の上で転がり続ける羽目になる。
「むりむりむり……っ!
なんであんな……自然に……肩とか……前髪とか……っ!
ひぃ……しぬ……!!」
床がミシ、と小さく鳴るほど悶えながら、脳内はレイの仕草と声で埋め尽くされていた。
◇ レイ side ◇
同じ頃。
レイは伯爵家の自室で、暖炉の前に置かれた椅子に腰掛け、静かに紅茶を口にしていた。
しかし、その琥珀色の瞳は、遠くを見るように宙を漂っている。
(前髪に触れただけであれほど動揺し、
肩に軽く触れただけで震える……)
理由が、分からない。
けれど——
(もう少し、見てみたいと思ってしまっている)
最初は、執事としての「観察癖」だった。
客人や主の反応を読み取り、先回りして動くための職業的な習慣。
だが、リリーに対して向けられているそれは、少しだけ違う。
もっと近くで見ていたい。
もっと、知りたい。
その欲求は、もはや単なる“観察対象への興味”ではなかった。
本人だけが、その変化に気付いていない。
◇◇◇
そして翌日。
文官局では、噂がさらに勢いを増していた。
「昨日、レイ様と遅くまで一緒だったらしいぞ……?」
「いや、距離近すぎないか? あれもう、そういう……」
「リリー嬢、絶対何かあるよな……」
リリーは机で小さく丸まりながら、心の中で泣き叫ぶ。
(お願いだからっ……せめて私に聞こえないところで話して……! 本当にお願い……!!)
隣のアンネは、淡々と現実を告げた。
「……社内恋愛って、大変ねぇ」
「してない……してないから……!」
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
一方その頃、少し離れた席で紅茶を啜っていたレオナルドは、満足そうに目を細めていた。
「いいねぇ、青春してる」
王宮のストレス社会において——
“リリーとレイ”という存在は確実に、職員たちの新しい「癒し」として定着しつつあった。




