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推しが近すぎて死ぬ! 文官リリー、本日も平常心を失う

王宮文官局の朝は、驚くほど静かだ。

 書類を繰る紙の音、羽ペンがインク壺をかすめる微かな水音、規則正しい靴音。

 そのどれもが、王宮という巨大な仕組みを支える歯車のように、淡々と噛み合っている。


 ──その静謐の中で一人だけ、内側だけフルボリュームで騒がしい者がいた。


 リリーである。


(あ、だめ……今日も胸が苦しい……。推し供給の後遺症が……!)


 昨日、一度だけ交わした会話。

 そのわずかな記憶の断片が、彼女の脳内で虹色にきらきらと輝いている。


(レイ様……ほんの一瞬だったのに……あの声……あの所作……)


 思い出すだけで、胸の奥がきゅうっと熱くなる。

 方向性としては完全に「推しへの崇拝」を通り越して、半歩くらい恋に足を突っ込んでいるが、リリー本人には自覚がない。


 外側だけ見れば、至って無表情。

 文官らしい整った姿勢で机に座り、淡々と羽ペンを滑らせている。


 だが、同僚からは最近よくこう言われる。


「リリーって最近、なんか明るくなったよね」


 明るくなった理由は、もちろん言えない。

 “推し補給による情緒の改善”など、墓場まで持っていくべき極秘事項だ。


 午前の書類整理を進めていると、控えめなノック音がした。


「リリー、入ってもいい?」


 顔を上げると、扉のところからアンネがひょこっと顔を出していた。


「どうしたの?」


「どうしたの、じゃないわよ。今日も伯爵家への書類運搬、あなたで確定みたいで……」


「……っ」


 リリーの心臓が、わかりやすく跳ねた。


 伯爵家=レイがいる場所。

 つまり、今日も推し供給が確定しているという事実。


 アンネはリリーの沈黙と、ぴくんと揺れた肩を見て、眉をひそめた。


「大丈夫? また倒れたりしないわよね? デスクで倒れるならまだしも、廊下で倒れても拾いに行けないんだからね?」


「だ……大丈夫。たぶん……きっと……おそらく……」


「全然自信なさそうじゃない!」


 アンネの嘆きは、鋭くリリーの胸を刺した。

 だが、推しの破壊力は侮れない。今日こそは、昨日より耐性がついているはず……だと信じたい。

 人間、日々進化している……はず、多分。


 リリーは震える手を必死になだめつつ、書類束を抱え上げた。


「……行ってきます」


 アンネは彼女を見送りながら、小さくつぶやく。


「どうか……どうか無事に帰ってくるのよ……」


 まるで戦場へ送り出す兵士に向ける祈りのようだった。


◇◇◇


 伯爵家の執務室は、王宮の中でもひときわ格式高い一角にある。

 白い大理石の床、磨き込まれた木製の装飾。壁にかけられた紋章入りのタペストリーが、静かに風を受けて揺れていた。


 一歩進むたびに、リリーの心臓はどくどくと速さを増していく。


 やがて、目的の扉が見えてきた。


(……今日こそは、冷静に……! 推しの前でも、ちゃんと仕事モードで……!)


 自分に言い聞かせ、ノックしようと手を上げた、その瞬間。


 扉が、すっと内側から開いた。


「お預かりします」


 低く穏やかな声。

 整った所作で差し出される、白く長い指をした手。


 そこにいたのは、もちろん──レイだった。


 朝の光を背負って立つ彼は、どこか神聖さすら帯びて見える。

 淡い金の光を帯びた髪、彫刻のように整った横顔。


 リリーの脳が、一瞬で停止した。


(うそ……推しが、最初から扉の向こうにスタンバイしてる……!?

 しかも“お預かりします”って……丁寧すぎませんか……!?)


 彼女の手がびくりと震え、書類を少し傾いた角度で差し出してしまう。

 レイはそれを当然のように受け取り、静かに言った。


「こちら……上下が逆ですね」


 数字の並びを指先で示しながら、事務的に告げる。

 ただの指摘のはずなのに、リリーには雷のような刺激だ。


(逆って言われた……! 推しに指摘された……! 指導された……!!)


 外見はどうにか無表情を保っているが、声だけがカチコチに固まる。


「……し、申し訳ありません」


 その滑稽なギャップを、執務机の前に座っていたレオナルドが見逃すはずもない。


「リリー嬢、今日はいつもより楽しそうですね」


「えっ……」


 リリーは、本気で椅子から跳ね上がりそうになった。


 た、楽しそう? 今? 誰が? わたしが?

 “喜怒哀楽が顔に出にくい”と評され続けてきたこの自分が?


 動揺するリリーを、レイが覗き込むようにして小さく首を傾げる。


「……そうだったのですか?」


(待って……。“楽しそう”って認識されてる……? そんなに顔に出てるってこと……?

 なにそれ……もう無理……今日で人生のピーク来たかもしれない……)


 声にならない悲鳴が、胸の中でぐるぐると渦巻いた。


 だが、追撃はまだ終わらない。


「そういえば、書類運搬は大変ですよね。無理はなさらないでください。必要であれば、僕が取りに伺うこともできます」


 その一言は、リリーの精神にクリティカルヒットした。


(迎え……!? 推しが……迎えに来てくれる可能性……!?

 なにそれ、優しさの暴力では……?)


 限界に近づく視界を必死に保ちながら、リリーはこわばった声で絞り出す。


「……い、いえ……平気です。ただでさえ、お忙しいのに、お手を煩わせるわけには……」


「そうですか。では、いつでも呼んでください」


 レイは穏やかに微笑む。

 ほんの少しだけ、口元が和らいだその表情を間近で見た瞬間、リリーの心拍数は規定値を軽くオーバーした。


 その後も、レイの“自然体の気遣い”が次々と襲いかかる。


 重い書類束を軽々と持ち上げ、机の端が揃うように整える。

 内容を、専門用語をかみ砕きながら丁寧に説明してくれる。

 リリーのページをめくる手が少し止まれば、「少し休みますか?」と声をかける。

 落としたペンは、言われる前にさっと拾い上げて差し出す。


 全部、供給。

 全部、不意打ち。

 全部、致命傷。


 リリーが正気を保てたのは、奇跡と言っていい。


 説明が一通り終わったあと、レイは少しだけ言葉を選ぶようにして付け加えた。


「分かりにくい箇所があれば、何でもおっしゃってください。……リリー嬢が困っているのを見るのは、あまり好きではありませんので」


 淡々とした口調なのに、不思議と心に触れてくる響き。


(…………待って)


 リリーの全身から、さっと血の気が引いていく。


(推しが……今……“困っているのを見るのは好きじゃない”って言った……?

 そんな、個人宛みたいな優しさ、致死量を軽く超えてるんだけど……!?)


 その言葉を口にした直後、レイ自身も一瞬、わずかに目を瞬かせた。

 自分の口から出た言葉が、いつもより踏み込みすぎている気がして、ほんの少しだけ戸惑ったような表情を浮かべる。


 レオナルドが椅子から半分立ち上がりかけた。


「リリー嬢、大丈夫ですか? 顔色が……」


「だ、大丈夫、です……!」


 口が震えて、まともに声が出ない。

 だが、このままこの場にいたら、本当に倒れかねないと本能が警鐘を鳴らしていた。


 リリーは深々と頭を下げ、逃げるように執務室を後にする。


◇◇◇


 廊下に出ると、そこには腕を組んで仁王立ちしているアンネがいた。


「やっぱり……顔真っ白。ほら、こっち座って」


「…………尊いの……過剰摂取……」


「原因が最低なんだけど!?」


 アンネの鋭いツッコミも虚しく、リリーはしばらく壁にもたれかかりながら、深呼吸を繰り返した。

 息を吸うたびに、さっきのレイの言葉が脳内で再生され、かえって呼吸が乱れる。


「ほんと、あなたの寿命……推しに削られてない?」


「……たぶん……削られてる……」


「即答しないで。笑えないから」


 それでも、胸に手を当てると、そこには確かに“生きている実感”があった。

 息苦しいほどの尊さと一緒に。


◇◇◇


 午後、文官局へ戻ると、同僚たちの視線が妙にあたたかい。


「あ、リリーさん、おかえりなさい」


「なんか今日、いつもより輝いてない?」


「伯爵家、行ってたんですよね? レイ様とお話ししてた?」


「え、……あ……い、いえ……」


(うわぁぁぁぁ! 完全に見られてたぁぁぁ!!)


 リリーは心の中で頭を抱える。

 よりによって、推しの前で挙動不審になっているところを第三者に目撃されるなど、一番避けたかった展開だ。


 アンネが冷たい目で告げる。


「リリー、あなた……完全にバレてるわよ」


「なんのことかな……?」


「その逃げ方、もはや肯定にしか聞こえないんだけど」


 机に座っていても、周囲からの視線の数がいつもより多い。

 皆なんとなく、「今日も伯爵家で何かあった」と察している空気で満ちていた。


(やめて……! 見ないで……! これ以上、推し関連で恥を晒したくない……!)


◇◇◇


 一方その頃、伯爵家の執務室。


 静かな部屋の中で、レイは羽ペンを置き、ふ、と小さく息を吐いた。


「……今日の彼女は、少し様子が違っていましたね」


 書類に目を通していたレオナルドが、興味深そうに顔を上げる。


「ん? 何か気になることでも?」


「いえ……。ほんのわずかな手助けに、あれほど動揺するのが、不思議で」


「君、本当に気づいてないんだねぇ」


「……何に、でしょうか」


 レオナルドは薄く笑い、紅茶を一口含んだ。


「リリー嬢はね、他の人にはあんな反応見せないよ。少なくとも、私は見たことがない」


「……そうなのですか?」


「そうだと思うよ。まあ、私も一応は貴族だからね。そう簡単に文官たちと世間話はしないし、話した回数もそんなに多くはないけど」


 レオナルドは、ふふっと肩を揺らす。


「ここに来る彼女は、ほとんど“レイのせいで”表情がくるくる変わってるから、見ていて飽きないんだ」


 その言葉に、レイはわずかに眉を寄せた。


 リリーの震える手、真っ白になった顔、必死に絞り出した声。

 それらの断片が、ひとつひとつ頭の中によみがえる。


(……僕が、原因……?)


 その可能性を思い浮かべたとき、胸の奥にほんのわずかな違和感が生まれた。


(なぜ、そこまで気にする? 彼女の反応など、本来なら仕事の効率に影響がなければ、さほど重要ではないはずなのに)


 自分で自分に問いかけるほどに、答えは曖昧なままだ。

 ただひとつだけ、はっきりしている感覚がある。


 ──リリーの反応は、確かに“目を奪われる種類のもの”だった。


「……」


 気づけば、レイの指先が羽ペンを軽く弾いていた。

 いつもより、動作にほんの少しだけリズムが乱れている。


「あら、レイ。珍しくぼんやりしてるね」


「……そう、見えましたか?」


「うん。まあ、いいことじゃない?」


 レオナルドの軽口に、レイは否定も肯定もしない。

 ただ静かに視線を落とし、ふ、と小さな笑みを浮かべた。


 その笑みが何を意味するのか、彼自身まだ言葉にはできない。


 ただ──

 小柄な文官のことを「少し、気になる」と感じ始めている。

 それだけは、認めざるを得なかった。


◇◇◇


 夕刻。


 リリーは仕事を終えて自室に戻ると、扉を閉めるなり、勢いよく床に倒れ込んだ。

 布団に顔をうずめ、くぐもった声で叫ぶ。


「うああああああ……!!」


 全身が、熱を持っている。

 頭の中は、レイとの一挙手一投足でいっぱいだ。


「む……無理……無理……!

 今日の供給、レベル高すぎ……!

 “迎えに行きますよ”とか“困っているのを見るのは好きじゃない”とか……なにそれ……なにそれ……!!」


 枕を抱きしめたまま転がり回る彼女を、アンネは呆れ顔で見下ろしていた。


「……はぁ……。今日の傍から見た感想、聞く?」


「聞かないでぇぇぇ……!」


「じゃあ言いますね」


「やめて!?!?」


「あなた、勝手に一人で恥ずかしがって、勝手に死にかけてただけよ」


「うぅぅ……正論が一番刺さる……!」


 アンネはそんなリリーの頭をぽん、と軽く叩いてから、肩をすくめる。


「でもね、レイ様……あなたのこと、気にしてたわよ?」


「……え?」


 リリーの動きが、ぴたりと止まる。


「帰り際、廊下で会ったの。私、たまたま書類運んでて。その時に、“今日は様子が違ったようですが、あれから大丈夫でしたか”って」


「……………………」


 リリーの身体が、ぴしっと固まった。


(気……気に……してた……?

 推しが……私のことを……?)


 その瞬間、胸の奥でくすぶっていた小さな灯が、ぱあっと明るさを増した。


「わ、わたし……生きる……!」


「単純すぎる」


 アンネは呆れながらも、口元だけは少し緩んでいた。


 その夜、リリーは再び床を転げ回りながら、今日の出来事を何度も何度も反芻した。

 レイの優しさも、レオナルドの言葉も、同僚たちの視線も──全部まとめて。


(わたし……どうしたら……

 こんな尊い毎日で、寿命もつのかな……)


 答えはまだ出ない。

 けれど、それでも。


 胸の中には、確かな幸福感が、あたたかく満ちていた。

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