幸せの日々
その日の夕刻、文官局はいつもどおりのざわめきに包まれていた。
机の上には紙束が積み上がり、羽根ペンの擦れる音が、一つの大きなざあっという音に溶けていく。
どの部署もそれぞれ、「自分たちこそが今日いちばん忙しい」と言い張っているかのようだった。
リリーはそっと自分の机へ戻り、椅子に腰を下ろすと、胸の前でぎゅっと手を握りしめる。
(……本当に、今日は危なかった……)
思い出そうとしなくても、さっきの光景が勝手に脳内でリピート再生される。
レイの横顔。低い声。指先の温度。
『良かった。リリー嬢は、飲み込みが早いですね』
あの一言。
(うわぁぁぁぁ……思い出しただけで呼吸しづらい……)
机の影に隠すように、そっと頬を押さえる。
自分でも分かるくらい熱いのに、表情筋は相変わらず“平常運転”だ。
その様子をちらりと見たアンネは、無言で額に手を当てた。
「……はい、また一人、推しに溶かされてる人がここに」
「と、とけてない……!」
いや、精神はほぼ液状化していた。
アンネは周囲をぐるっと見回し、小声で囁く。
「リリー、同僚たちがちょっとあんたのこと見てるって、分かってる?」
「……へ?」
リリーは慌てて視線を巡らせた。
目が合った文官が、ばっ、と勢いよく書類に視線を戻す。
別の文官は、隣の席と顔を寄せてひそひそと何かを話している。
「な、なんで……?」
「今日だけじゃないの。最近“リリーが廊下を歩きながらうっすら笑ってる”って噂になってる」
「えっ!? え、えええ!? うそっ……!」
声が裏返る。
アンネは真顔でこくりと頷いた。
「私には分かる。あれは、“推しを見た直後の顔”」
「ぐっ……!」
あまりにも正確な診断だった。
「……ち、違う……と、思う……たぶん……!」
そんな“常時にやけ歩き回る怪しい文官”になっているはずが──
と信じたいのに、最近の自分を振り返ると、完全には否定しきれないのがつらい。
アンネは自分の頬をつん、と指で押さえながら言った。
「じゃ、その“たぶん”を証明するためにも、もう少し顔の筋肉を引き締めて?」
「顔の……筋肉……」
それができたら苦労はしない。
(でも……バレたくないのは、本当にそう……)
この職場で恋バナ系の噂が立つのはきつい。
実際には“恋”というより“推し供給過多による尊死”寄りなのだが、説明すればするほどこじれそうだ。
(……気を付けなきゃ……! 少なくとも、推しとの接触時だけでも!)
心に固く誓った──まさに、その直後だった。
廊下の先から、規則正しい足音が近づいてくる。
続いて、扉をノックする音。
「失礼いたします。文官局へ追加の依頼文を——」
——レイだった。
(ちょっ……えっ……今日、何回目の心臓攻撃!?)
リリーは条件反射で俯き、胃がぎゅっと縮む感覚に襲われる。
レイが入室すると、空気が一段階、静かなものへと変わる。
背筋の伸びた立ち姿。一定のリズムで刻まれる足音。
無駄のない所作と、それでいて柔らかさのある視線。
「レオナルド様からの追加文書をお持ちしました」
「助かる。そこに置いてくれ」
上席文官が応じると、レイは柔らかく一礼し、机の上に書類を丁寧に並べていく。
その動きだけで、周囲の女性文官たちが一斉にそわそわし始めた。
(うん……分かる。分かるよ……。あれは見てるだけで眼福だよね……)
だが、一番ダメージを受けているのは他でもない自分だ。
「……あ」
レイの視線が、静かにこちらへ向けられる。
リリーの背中が、一瞬で固まった。
(ちょ、やめ……見ないで……! 今だけ背景のモブでいさせて……!)
心の中で必死に懇願するが、現実は容赦がない。
レイは迷いなくリリーの机へ歩み寄り、二歩手前で足を止めた。
「先ほどの件ですが……本当に、大丈夫でしたか?」
数本のペンが、カチリと同時に止まる。
室内は各々書類に目を落としているのに、耳だけがこちらへ向いていた。
アンネは机の下で、こっそりリリーの膝を小突く。(気合い入れて! 深呼吸!)
リリーは、こわばる口元をなんとか動かし、ぎこちない笑みを貼りつける。
「は、はいっ……問題……ありません……!」
「そうですか。安心しました」
レイは一拍おき、ふ、と視線をわずかに伏せてから続ける。
「……先ほど、少し顔色が悪かったように見えましたので。
午前中から、少し血色が薄いのは気になっていました」
(午前中から見てたんだ……!?)
余計な情報がさらっと差し込まれ、リリーの動揺に油が注がれる。
「体調の悪化を見過ごすのは、少し……嫌でしたから」
そう言ったあとで、レイは自分でも意外だったのか、ほんの一瞬だけまばたきをした。
いつもの淡々とした口調の中に、わずかな「言い過ぎたか?」という戸惑いが混じる。
(え、今ちょっと“しまった”みたいな顔しなかった……?)
リリーの脳が、別方向でもパニックを起こす。
業務上の気遣いにしては、踏み込みが深い。
けれど、優しすぎるとはいえ、まだ“執事としての観察と配慮”の範囲にも見える。
仕事と個人的な感情、その境界線の上をぎりぎりで歩いているような言葉。
(なにそれ……。優しさの質が……プロの執事なのに、ちょっとだけ“レイ様個人”が混ざってない……?)
アンネが隣の席で、書類の陰から目を丸くしているのが視界の端に入る。
「……お気遣い、ありがとうございます……」
なんとか、その一文だけを絞り出す。
視線は机の上に固定。これ以上目を合わせていたら、本気で昇天する自信がある。
レイはそれ以上踏み込まず、小さく頷いた。
「では、失礼します」
静かな足音が遠ざかり、扉が閉じる。
残された室内には、しばらく妙にふわふわした空気が漂っていた。
リリーの心臓は、まだ胸の定位置に戻ってこない。
* * *
夜。
仕事を終えて自室に戻ると、リリーは扉を閉めるなり、その場でへなへなと座り込んだ。
背中を扉に預け、天井を仰ぐ。
「…………っ」
声を出したら、本当に泣いてしまいそうで、喉のあたりだけがひくひく震える。
そのままよろよろと立ち上がり、ベッドへダイブ。
枕に顔をうずめ、足をばたばたさせる。
一度転がって仰向けになり、またうつ伏せに戻る。
(推しに……心配されて……。午前中から見られてて……。“見過ごすのは嫌でした”って……)
思い出すたび、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
同時に、ふわふわと浮き上がりそうな感覚もあった。
(あれ、普通に考えたらただの優しい人なんだよね……?
上司や同僚が言ってもおかしくないくらい、当たり前の一言で……)
そこまで考えて、ふっと動きが止まる。
(でも……レイ様に言われると、“当たり前”じゃない)
枕をぎゅっと抱きしめ直す。
早くなった鼓動が、布越しにも自分に伝わってくる。
(前の世界では、ずっと“推し”だった。
画面の向こうで、物語の中にだけいる人で。
距離があるからこそ、安心して好きでいられた)
“届かない”ことが、安全装置だった。
けれど──
(今は、“届かない”って言い切れない距離にいる)
名前を呼ばれた。
顔色を見られた。
午前中から気にされていて。
体調の悪化を“嫌だ”とまで言われた。
それは、客観的に見ればただの執事の職務の一環かもしれない。
けれど、当の本人にとっては。
(……ずるいなぁ……)
胸の奥で、少し拗ねたような言葉が浮かぶ。
(推しはそこにいてくれるだけで尊いのに、そんな優しさまで混ぜてくるなんて……。
それってもう、“推し”って言葉だけじゃ足りないかもしれないって──)
ここまで考えて、リリーは慌てて枕に顔を埋めた。
(違う違う違う……! “恋”とかそういうのじゃ……ない、はず……!
これはただの推し活。尊いのが嬉しいだけ。……たぶん。きっと。おそらく……)
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で否定する。
それでも、耳の奥では、あの一言が何度もリピートされる。
『体調の悪化を見過ごすのは、少し……嫌でしたから』
あのとき、ほんの一瞬だけ困ったようにまばたきをしたレイの顔まで、鮮明に浮かんでしまう。
(……レイ様自身も、ちょっとだけ“らしくないこと言ったな”って思ってた、よね……多分……)
そう思った瞬間、胸の奥に、ちいさな火がぽっと灯る。
それが何なのか、まだ名前はつけられない。
つけてしまうのが、怖い。
でもひとつだけ、はっきりしていることがあった。
(少なくとも私はもう、“遠くから見てるだけでいい”って思えなくなってる)
それが恋かどうかは、まだ分からない。
分からないふりをしていたい自分もいる。
それでも──
今日生まれた、“自分だけが大事に知っている気持ち”くらいは、そっと抱きしめておきたいと思った。
(……明日も、ちゃんと仕事しよう。
推しの前で倒れないように、ちゃんと生きて、ちゃんと見ていたい)
そう決めるだけで、心の中の小さな火は、少しだけあたたかくなった。




