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崩れ落ちるオタク

廊下を進むうちに、リリーの歩幅は目に見えて小さくなっていった。

 一歩踏み出すたびに“推しの残像”が前方にちらつき、魂だけ先に執務室へ到着してしまいそうになる。


(無理……あれは近距離攻撃すぎる……)


 胸の前でそっと両手を握りしめる。

 意識していないのに指先が熱い。頬も、ほんのり火照っている気がした。


 ――推しから、「助かりました」と言われた。


「そんなの……そんなの……尊すぎるでしょ……!」


 昨日、推しからの近距離接触を受けた結果、自分はどうやら気絶したらしい。

 そのあたりの記憶は、見事にまるっと抜け落ちている。後でアンネから詳細を聞かされ、布団の中で再度のたうち回った。


 ともあれ、ロスした時間を取り戻そうと必死で書類を仕上げた結果――レイ様に「助かりました」と褒めていただく事態に至ったわけで。


(……ダメだ。ここでまた倒れたら、今度こそアンネに合わせる顔がない……)


 声にならない叫びが、内側で何度も爆発している。

 しかし外の表情は、いつもどおりの“無表情”。

 むしろ平静すぎて、周囲の文官たちが「今日、元気ないのかな……?」と心配するほどだ。


 だが、リリーにとって外見と内面の乖離はいつものことだった。


 母からは「あなたの顔は喜怒哀楽が外に出にくいのね」とよく言われ、先生からも「声が静かで、いつも落ち着いている」と評されてきた。

 もちろん当人は、落ち着いてなどいない。

 特に推しの前では、心情は常に肉体を追い越して、彼方へ飛び立ってしまう。


「……はぁぁぁぁ……」


 気がつけば、壁に軽く額を預けていた。

 ひんやりした大理石が、火照った額に心地よい。


「どうかしましたか?」


 背後からかけられた声に、リリーは全身で跳ね上がった。


「ひゃっ……!」


 振り返らなくても分かる。

 これはアンネの声じゃない。

 もっと低く、落ち着いた――聞き覚えありすぎる声。


 レイだ。


(……え、うそ……追って……きた……!?)


 背筋が一瞬で固まる。

 ぎこちない動きで振り返ると、廊下の角の陰からレイがひょいと姿を現した。


「声をかけたら驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」


「い、いえっ、そんな……!」


 リリーは高速で首を振る。

 しかしその動作があまりにもカクカクしていて、自分でも「壊れたオモチャかな?」と思うレベルだった。


(え、え、なんで? なんで追ってきたの……!?)


 レイはゆっくりと近づき、リリーの数歩前で静かに足を止める。

 その仕草は極めて自然で、相手を威圧しない距離感をきちんと保っている。


「先ほどの説明で、不明な点はありませんでしたか?」


「……っ」


 その一言で、リリーの思考は真っ白になった。


(心配して追いかけてきてくれたの!? 推しが!? 私のために……!?)


 もちろん、レイ本人にとっては単なる確認だ。

 “業務連絡として当然のフォロー”。

 だが、推し耐性ゼロの一般文官からすれば、それは致死量の優しさだった。


 リリーは、瞬きの回数を妙に意識しながら、小さく頷く。


「だ、大丈夫……です……。すべて理解……して……ます……」


「良かった。リリー嬢は、飲み込みが早いですね」


 やめてほしい。

 その褒め言葉は、レベルが高すぎる。


(“リリー嬢は”って……! ピンポイント指名で! 推しから! 褒められた……!?)


 理性がギリギリで踏ん張っているのが、自分でも分かる。

 外見こそ静かだが、心の扉はギシギシと悲鳴を上げていた。


 レイはもう一歩だけ近づき、ふと小さく眉を寄せる。


「しかし、少し顔色が悪いように見えます。……本当に、ご無理はしていませんか?」


「ひっ……!」


 リリーの肩がビクッと跳ねた。

 声にならない悲鳴が喉の奥でつかえる。


(近い……近い……! 距離感のバグがすごい……!)


 レイにとっては、ただ「相手の顔がきちんと見える礼儀正しい距離」に過ぎない。

 だがリリーには近すぎた。


 まつげの長さまで数えられそうな距離。

 吐息の温度すら、かすかに頬へ触れる気がする。


「……し、心配してくださって、ありがとうございます……!」


 ようやく絞り出した声は、いつもよりほんの少し高かった。


 レイは一瞬だけ目を瞬かせる。


「いえ。気づいたことをお伝えしただけです」


 そう言いつつも、レイの視線はリリーの表情をじっと観察していた。

 琥珀色の瞳は静かだが、その奥では確かな興味の光が揺れている。


(やっぱり……彼は、人の表情を見るのが好きなんだ……)


 原作の物語でも、レイは“人の反応”に強い関心を寄せる人物だった。

 喜ぶ顔、笑う顔、驚く顔。

 そういったものを「美しい」と感じる、少し変わった感性の持ち主。


 だからこそ――さっき執務室で盛大に取り乱したリリーの反応は、彼の記憶に強く残ってしまったのだろう。


「では、失礼します。……お気をつけて」


 そう一礼して、レイは静かな足取りで歩き去っていく。


 ……数秒後。


「っ……っっ……!」


 リリーは音の出ない悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んだ。


(む、無理……! たすけて……!)


 頭を抱え、床に額をつける。

 姿勢だけ見れば完全に“人生に絶望した人”だが、実際には供給が多すぎるだけである。


 そこへ、ようやくアンネが駆けつけた。


「リリー! 戻ってこないと思ったら、何してんのよもう……また床と仲良くなってるじゃない!」


「た、倒れてない……っ。床が……落ち着く……だけ……」


「いや倒れてるからね、それは!」


 アンネはリリーの腕を掴んで引き起こし、半分抱えるようにして廊下の端へ移動した。


「推しの前で空気が薄くなるの、やめてくれない!? 見てるこっちの心肺に悪いから!」


「む、無理……っ……脳が……処理できない……」


「ですよね……!」


 アンネは心底疲れた声で、これでもかというくらい深いため息をついた。


「次からは、推しの前に出る前に深呼吸三回ね。じゃないと本当に倒れるよ?

 何度もそんなことしてたら、ただの“レイ様を見るたび床に倒れる変な人”だからね??」


「……善処……します……」


 そう答えつつも、リリーは心の中でひそかに思う。


(……善処、できる気がしない……)


 推しの前では、努力はあまりにも無力だった。


 ――そしてこの日を境に、レイはますますリリーに興味を抱くようになり、

 リリーの“推し供給との戦い”の日々は、本格的に幕を開けることになるのだった。


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