貴方のそばにいたい
「レイ、こんなところで仕事してていいの?」
「なにがですか?」
机に向かったまま、レイは手を止めない。羽ペンの音だけが規則正しく続く。
その横で、レオナルドが盛大にため息をついた。
「今日、リリー嬢が返事をする日だろ。こんなところにいていいのかって言ってる」
「……レオナルド様」
レイは“様”をつけるところだけは律儀だった。動く気配はない。
レオナルドは肩をすくめる。
「まぁ、いいよ。どうせ今日中には動きがある」
「……今日中、ですか」
「君が動くか。彼女が決めるか。どっちにしても答えは出る」
いたずらな笑みが浮かぶ。
「観客席から見てる分には最高に面白い」
「……性格が大変悪いです」
「褒め言葉として受け取っておく」
ひらひら手を振り、レオナルドは執務室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静まり返った部屋で、レイはしばらくペン先を紙に落としたまま、動けなかった。
(……リリー嬢)
誰かと笑い合う彼女。
「いい職場でした」と、嬉しそうに言った彼女。
(本当に、行ってしまわれるのだろうか)
胸の奥に、重く鈍いものが居座り続ける。
(……あの方が自分で選ばれる道だとしても)
尊重すべきだ。
そう言い聞かせるたびに、どうしようもなく「嫌だ」と叫びたい衝動が、静かに膨らんでいく。
◇◇◇
昼休みの鐘が鳴る頃、文官局の空気は少しだけ緩む。
リリーは自席の引き出しから、小さな布包みをそっと取り出した。淡い生成りの布に、小さな花の刺繍。中には、真っ白な塩むすびが三つ。
(……塩むすびって、こんなに頼りになる食べ物だったっけ)
心が疲れている時でも、とりあえずこれなら食べられる気がする。
お米と塩。余計なものがないのが、今の自分には救いだった。
「リリー、お昼行く?」
アンネが顔を出す。今日は、いつもよりリリーの表情を慎重に見ていた。
「……ごめん。今日は中庭で、ひとりで食べてもいい?」
「うん。そう言うと思った」
即答された。
「午後からお休み取ってるんでしょ。返事まで、ゆっくりしなさい」
「……顔に書いてた?」
「書いてある。“ひとりで考えごとしながら塩むすびかじりたい”って」
「そんな具体的な顔あるの!?」
「あるの。悩んでる顔、してたし」
図星すぎて、リリーは何も言えない。
アンネは小さくため息をつき、それでも優しく笑った。
「じゃあ一言だけ」
「……うん」
「逃げてもいい。でも逃げないなら、今日くらい決めなさい」
ど真ん中の言葉が、胸に落ちる。
「……アンネ」
「どっちを選んでも、あたしは味方。友達だから」
肩を軽く叩かれた。
胸の奥がじんと熱くなる。
「……ありがとう」
アンネはいつもの軽い笑顔に戻り、ひらひら手を振って自分の昼食へ向かった。
◇◇◇
中庭には、初夏の匂いが満ちていた。
若い緑が陽射しを和らげ、噴水の水音が絶え間なく続く。遠くから兵士たちの掛け声がかすかに届く。
リリーはいつものベンチへ向かった。噴水がよく見えて、ほどよく死角になる、居心地のいい場所。
腰を下ろし、膝の上で布包みの紐をほどく。
真っ白な三角が三つ、顔を出した。
(……見た目からして癒し……)
ひとつ手に取り、口元へ運ぶ。
ひとくちかじると、米の甘みと塩気だけが広がった。
(……ちゃんと、おいしい)
さっきまで何を食べても味がしない気がしていたのに、今日は分かる。
それだけで、少し泣きそうになる。
(エリオット様の領地……たしかに、すごくいい職場だった)
酒場の賑わいが脳裏に浮かぶ。
数字の向こうの「人」の話を、当たり前にしていた人たち。ミスを責めるより先に「どうしてそうなったか」を一緒に考えてくれる空気。
(……きっと、幸せだと思う)
そこで働く自分の姿が、簡単に想像できてしまう。
それはもう、“心が傾いている”証拠なのかもしれない。
でも――。
別の光景が割り込む。
静かな執務室。整えられた書類。淡い銀灰の髪と琥珀色の瞳。
名前を呼ぶだけで胸がきゅっとなる人。
(……レイ様)
領地を選ぶということは、あの人のそばを離れることだ。
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと縮む。
「……レイ様は」
風にさらわれるほど小さな声が漏れた。
「私がどこにいても……困らないんだろうな」
言ってしまってから、胸がひりついた。
そう思えたら楽だ。
そう決めつけたら、諦める理由になる。
でも、本当は――。
そこまで考えたところで、不意に影が差した。
「ここにいらしたのですね、リリー嬢」
心臓が跳ねる。
顔を上げると、逆光の中に見慣れた輪郭が立っていた。淡い銀灰の髪、整った横顔――そして、光を受けて深く艶めく琥珀色の瞳。
「レ、レイ様……!」
立ち上がろうとして、膝の上の塩むすびを転がしそうになり、慌てて両手で支える。
「どうぞ、そのまま」
レイはベンチの端を指し示した。いつも通り穏やかな声――のはずなのに、どこかぎこちない。
「お昼休みを邪魔してしまいましたか」
「い、いえ! 全然……!」
勢いよく否定してから、自分の声が裏返りかけたことに気づいて頬が熱くなる。
レイの視線が塩むすびに落ちた。
「……塩むすび、ですか」
「は、はい。ただの……塩むすびです」
(なんで推しに塩むすびの説明をしてるの私)
「概ね見たままですね」
「……ですよね……」
会話が行き止まりになる。噴水の水音だけが、やけに大きい。
レイはリリーの隣ではなく、反対側の端に腰を下ろした。
手のひら二枚分くらいの距離。近すぎず遠すぎない――いつもの安心できる距離。
なのに今日は、その“いつも”が、胸に刺さる。
「あの、レイ様」
声を出すだけで怖かった。
「領地の件で……そろそろ、返事をしなきゃいけなくて」
「――はい」
短い返事に、わずかな緊張が混じる。
そこから先が、喉につかえて出てこない。
「行きます」と言えば、自分で自分の心を引き裂く。
「行きません」と言えば、今度は“残る”ことへの罪悪感が押し寄せる。
ぐるぐる回る思考を、レイの静かな声が断ち切った。
「……領地は、良かったのでしょう」
リリーは、はっとして顔を上げる。
「……前に、私が言ったこと……覚えてたんですか」
「覚えています」
レイは噴水へ視線を向けたまま、けれど言葉はまっすぐだった。
「酒場から戻られた日のことです。あなたは、『いい職場でした』と……珍しく、少しだけ声が弾んでいた」
「……っ」
自分の“嬉しさ”を、覚えられている。
それだけで胸が、勝手に熱くなる。
「皆さん優しくて……仕事の話もちゃんと聞いてくれて……」
口にしながら、胸の奥が痛む。
「だから余計に、迷ってしまって……」
「迷うことは、悪いことではありません」
レイの声は静かだった。
「ただ――」
少し間が空く。
「あなたが、ご自身の価値を低く見積もったまま決めてしまうのは……私は、見ていたくない」
胸の奥がどくん、と鳴った。
「わ、私の……価値……?」
「“私なんかが”」
レイは淡々と続ける。
「あなたは、よくそうおっしゃいます」
リリーの喉が詰まる。
「リリー嬢」
名前を呼ばれるだけで、心臓が忙しく跳ねる。
「少なくとも私にとって、あなたは“どこにいても構わない存在”ではありません」
「……!」
視線を逸らしたいのに逸らせない。
琥珀色の瞳が、逃げ道を残さないほど真っ直ぐに見つめてくる。
――怖い。なのに、嬉しい。
「仕事の上で言えば、あなたは非常に貴重です。領地へ行かれても、すぐに欠かせない存在になるでしょう」
「そ、そんな……」
「しかし」
その一語に、温度が変わる。
「それとは別に。本当に個人的な感情として――」
レイはゆっくりと息を吸った。喉仏が、わずかに上下する。
「あなたがここからいなくなることを想像すると……胸が、潰れそうになります」
世界が一瞬止まった。
「……レイ、様……?」
レイは一度だけ目を伏せる。まるで自分の中の何かに、許可を求めるみたいに。
「私はあなたの選択を尊重すべきだと、何度も自分に言い聞かせてきました。あなたの人生を縛る権利などない、と」
けれど、と。
顔を上げた琥珀色の瞳が、今度は真正面からリリーを射抜く。
「――今日だけは、本音を伝えてもよろしいでしょうか」
喉がきゅっと鳴った。
「……はい」
自分でも驚くほど小さな声が出る。
レイは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「行ってほしくないのです」
胸の真ん中を、真っ直ぐ貫かれたような感覚。
「あなたが遠くへ行ってしまう未来を、受け入れる覚悟が……私にはまだできていません」
理路整然とした言い回しなのに、どうしようもなく不器用で。
その不器用さが、逆に本気だと伝えてくる。
「……そんなこと、言われたら……」
リリーは握っていた塩むすびを落としそうになり、慌てて支えた。
その瞬間、レイの手がそっと伸びて、リリーの手と塩むすびごと包み込む。
指先の熱が、手の甲から、心臓へ伝わってくるみたいだった。
「す、すみません……お、おむすびが……」
「今だけは」
レイの声が、いつもより近い。
「塩むすびではなく、私を見てください」
言われるまま、顔を上げる。
琥珀色の瞳が、濡れた灯りみたいに揺れている。
その視線の中に、自分が映っているのが分かってしまう。
(……ずるい……)
視界が滲む。
「リリー嬢」
レイは握ったままの手に、ほんの少し力を込めた。逃げないで、と言われた気がした。
「私は、あなたの選択を縛りたくはありません。ですが――私の側にいていただけるなら、それをどれほどの幸運だと思うか」
そこで、リリーの中で何かが弾けた。
「……ずるいです」
「え……?」
「そんなふうに言われたら……ずるいです……っ」
涙が止まらない。ぽろり、ぽろりと頬を伝う。
「泣かせるつもりは――」
「ありますよね……! 絶対……!」
言葉にならない。けれど、今言わなければ一生後悔する。
「わ、わたし……!」
塩むすびを抱えたまま、レイの小指を掴む。小さく震える指に、レイが驚いたように瞬きをした。
「ずっと、レイ様のこと……“推し”だと思ってました」
琥珀色の瞳が、わずかに見開かれる。
「遠くから眺めて、尊んで……それで十分だって思ってたのに」
胸が苦しい。
「一緒に仕事して、褒めてもらって……気づいたら、“推し”って言葉じゃ足りなくなってました」
喉がひりつく。
それでも、踏み出す。
「レイ様のことが――好きです」
噴水の音だけが鮮明に耳に残る。
「推しとしてじゃなくて……ひとりの男の人として、好きです」
言ってしまった。戻れない。
怖い。恥ずかしい。
でも、胸の奥が少しだけ軽い。
「でも……!」
最後の抵抗が口からこぼれる。
「わたしが隣に立てるはずなんて――」
「リリー嬢」
レイの声が、少し強い。
「“わたしなんか”を、ここで終わらせてください」
その言葉に、リリーは息をのむ。
レイは一度だけ目を伏せ、そして――まるで祈るみたいに言った。
「あなたがそう言うたびに、私は……あなたを否定された気持ちになる」
握る手に、ほんの少し力がこもる。
「あなたを大切だと思う私の気持ちまで、取るに足らないものにされてしまう」
「……っ」
泣きながら、リリーは必死に頷く。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。代わりに」
レイは、言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「私の言うことを、信じてください」
琥珀色の瞳が、まっすぐに射抜く。
「あなたが笑うと、私まで嬉しくなる。あなたが慌てると、助けたいと思う。あなたが他の男性と楽しそうにしていると、胸が痛くなる」
そこでレイは、ほんのわずか唇を噛んだ。自分の弱さを認めるみたいに。
「その感情を、長い間、扱えませんでした。……ですが」
息を吸う。
「それが恋以外の何なのか、私には説明できません」
リリーの喉から、震えた息が漏れた。
「私はあなたに、恋をしています」
世界がひっくり返る。
言葉にならない声だけが、喉の奥で転がった。
(いま、推しが……恋……って……)
頭の中が白くなる。なのに、手の熱だけはやけに鮮明だ。
レイは続ける。誠実さは、そのままに。けれど――もう逃げない声で。
「領地へ行かれるかどうかは、あなたが決めるべきことです。私はそれを尊重します。あなたの幸せを願う気持ちに偽りはありません」
そして、ほんの少しだけ声が揺れた。
「ですが――できれば、その幸せの中に、私がいてもいいと……そう思ってしまうのです」
リリーの胸が、きゅっと痛んで、同時にあたたかくなる。
「……ずるい……」
「ずるいでしょうか」
「ずるいです……っ」
リリーは握られた手を見つめる。
離したくない。失いたくない。
「レイ様」
「はい」
「わたし、領地に行く未来も考えました。あっちで働く自分も想像できました」
酒場で笑う自分。帳簿を挟んで、現場の人たちとやり取りをする自分。
「すごくいい場所で……きっと幸せだったと思います」
でも、と。
「そこに、レイ様はいませんでした」
琥珀色の瞳が揺れる。
「わたし、欲張りです」
自嘲気味に笑う。
「尊敬して、好きで……傍にいたいなんて。贅沢だって思うのに」
それでも。
「この気持ちを、もう誤魔化したくない」
深く息を吸う。
「だから……ここに、残りたいです」
言い終えると、レイの指先がかすかに震えた。
そして、レイは――ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
今まで見たことがないくらい、安堵が混じった表情で。
「……ありがとうございます」
その声が、ひどく優しい。
「ならば、私もひとつだけ、わがままを」
「わがまま……?」
「はい」
レイは握った手をそっと持ち上げた。
その手を、ほどくどころか――もう少し自分の方へ引き寄せる。
「これからも、私の傍で。一緒に歩いていただけますか」
リリーは涙と笑顔をごちゃ混ぜにしながら、頷いた。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
次の瞬間。
「きゃっ」
緊張と涙で力が抜け、塩むすびがつるりと指から滑りかけた。
「危ない」
レイが慌てて掴む。
リリーも慌てて掴む。
二人で塩むすびをがっつりホールドした状態になった。
リリーが真っ赤になって固まっていると、レイがごく小さく笑う。
「……半分、いただいてもよろしいですか」
「えっ」
「あなたの作るものを、食べてみたいと思いました」
その言葉が、さっきの告白の余韻のまま胸に落ちてきて、リリーはもう一度泣きそうになる。
「……じゃ、じゃあ……どうぞ」
塩むすびを不器用に割り、片方を差し出す。
「いただきます」
レイがひとくちかじり、わずかに目を見開いた。
「……美味しいです」
「ほ、本当ですか……?」
「はい」
琥珀色の瞳が、ほんの少し細まる。
「塩加減も、米の炊き具合も……ちょうど良い」
そして、ほんの一拍置いて。
「あなたと一緒に食べるから、なおさら」
リリーは、完全に固まった。
「…………ずるい……っ」
レイは、わずかに目を丸くしてから――今度は、ちゃんと照れたみたいに視線を逸らす。
「……慣れていただく必要がありそうですね」
「無理です……一生慣れないです……」
「一生、ですか」
琥珀色の瞳が、ふっと遠くを見る。
「……それは、悪くない響きですね」




