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2人の距離が近づくとき

「やっぱりここ、風が気持ちいいね〜」


 中庭のベンチにアンネがどさっと腰を下ろし、膝の上で弁当箱の蓋をぱかっと開けた。湯気と一緒に、甘い卵焼きの匂いがふわりと広がる。


「アンネ、今日もお弁当きれい……」


「でしょ。最近頑張ってるの」


 隣でリリーも包みを開く。中から出てきたのは、昨夜遅くまで試行錯誤して作った――少しだけ焦げた卵焼き。


(うん。ちょっと焦げてる。でも……香ばしいって言えば勝ち)


 そう自分に言い聞かせ、ひと口かじろうとした、その時だった。


「アンネ、いるか!」


 中庭の入口から、よく通る男の声が響いた。振り向くと、同僚文官が書類を抱え、息を切らして立っている。


「悪い! さっきの領地報告書、至急で追加の確認が入って……!」


「え、今!?」


 アンネの表情が、昼休みのゆるさから一瞬で仕事の刃に切り替わる。


「……ごめんリリー。ちょっと殺しに――じゃなかった、仕事しに行ってくる」


「物騒な変換しないで。大丈夫だよ、行って」


「帰ってこれたら戻るから。これ、レオナルド様が絡んでる案件でさ。戻ってこれなかったら……私の遺品は燃やしてね」


「やめて、縁起でもない!」


 アンネは弁当箱を閉じ、書類の束をひったくるようにして駆け出していった。揺れるスカートの裾が噴水の影に消え、中庭はすぐ静けさを取り戻す。


「……本当に忙しい人だなぁ」


 ぽつんと残されたリリーは、ベンチに座り直した。膝の上のサンドイッチを見つめ、小さく息を吐く。


(アンネがいないと、ちょっとだけ心細いな……)


 さっきまで隣にあった温度が、ふっと消える。

 その隙間に入り込んでくるのは――考えないようにしていた、ひとりの人のこと。


(……レイ様)


 エリオットに誘われて行った酒場を思い出す。領地の人たちと笑い合い、仕事の話をして、「ここで働くのも素敵だな」と思ってしまった自分。


 そして、その自分を思い出すたび、胸に刺さるのはレイの静かな横顔だった。


(もし、わたしが……本当に領地で働くことになったら)


 王宮の文官局を離れて。

 書庫からも、中庭からも。

 そして、伯爵家の執務室からも――レイからも、遠ざかる。


(わたしなんかが、レイ様の近くにいていいのかって、ずっと思ってたのに)


 それでも、「離れるかもしれない」と想像しただけで、息が詰まりそうになる。


「……好きなんだよね、完全に」


 小さく呟いた声が、自分の耳に刺さった。

 卵焼きが、やけに遠い。


 風が吹き、噴水の水面がきらきらと揺れる。

 その光が、現実感のないものに見えた。


(領地は、良い場所だった。人も優しかったし、仕事のやり方も好きだった)


 あそこで働けば、自分の仕事が「誰かの役に立っている」と、もっと実感できる。

 エリオットも、はっきり言ってくれた。「あなたの力が必要です」と。


(でも……)


 レイの言葉が、ふいに蘇る。


――あなたが他の男性と笑っているのを見ると、胸が苦しくなる。


「…………」


 あの言葉を聞いた時、心臓が本気で止まるかと思った。

 けれど彼はすぐに、「どう扱えばいいのか分からない」と、言葉を濁した。


(あれはきっと、恋とかじゃなくて)


 理性的で、真面目で、仕事一筋。

 自分の感情に関しては、歩き方を忘れた子どもみたいな人。


(わたしが“好きです”なんて言ったら、絶対困らせる)


 推しは推しのまま。

 人生を照らす光であって、手を伸ばして掴んでいい存在じゃない。


 そう言い聞かせてきたのに――


「……アンネ、早く戻って来てよ……」


 誰もいないベンチでひとりごちながら、立ち上がる。


 ベンチの足元には、噴水の縁から転がってきたらしい小さな石がいくつか散らばっていた。

 気をつけないと、と思った――その直後だった。


「わっ――」


 靴底が石を踏み、視界がふわりと傾ぐ。


(あ、これ、転ぶ――)


 スカートの裾が風にふくらみ、噴水の水音が一瞬だけ遠ざかった。


「危ない」


 低い声と同時に、腕をぐいと引かれる。


 胸元に硬い感触。

 ほのかな紅茶の香り。

 すぐ耳元で響く、落ち着いた鼓動。


 すべてが一瞬で重なって――


(……レイ様!?)


 頭の中が、真っ白になった。


◇◇◇


「……大丈夫ですか」


 耳元に落ちてきた声で、ようやく世界が色を取り戻す。


 レイの腕の中で、リリーはしっかりと支えられていた。片腕が背に回り、もう片方が手首を掴んでいる。


 ほとんど、抱き寄せられている。


(ちょ、近い……!!)


 推しの体温が、ダイレクトに伝わってくる。

 心臓が暴れ、呼吸の仕方を忘れそうになる。


「りょ、りょりょりょう、だいじょうぶ、です……!」


 口から出た声は、もはや人間の言語とは言いがたかった。


 レイは少しだけ眉をひそめ、リリーを見下ろす。


「……どこか打ちましたか?」


「い、いえっ! その……たぶん、心だけです……」


「心、ですか?」


「今のは忘れてください」


 慌てて姿勢を正そうとするが、レイの手はまだ腰を支えたままだ。


「あの、レイ様……?」


「……もう少し、このままで」


「えっ」


「足元が、まだ安定していないように見えます」


 そう言われると反論できない。

 実際、膝は小刻みに震えている。


(原因の九割、“推しによる密着”ですけど……)


 銀灰の前髪と、整いすぎた横顔。

 自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。


 数秒後、ようやくレイはそっと手を離した。

 その動きすら丁寧で、名残を惜しむようで、リリーのHPはさらに削られる。


「……本当に、怪我がなくてよかった」


「す、すみません……。レイ様のほうこそ、大丈夫ですか?」


「私は問題ありません」


 リリーがベンチに座り直すと、レイは隣に座らず、立ったまま残った。


「少し、休まれたほうがいいでしょう」


「は、はい……」


 風が木々の葉を揺らす。

 さっきより空気がひんやり感じられた。


(心臓が暴れて、温度感覚がバグってるだけかも……)


 胸を押さえていると、レイがふいに口を開いた。


「……噂は、耳に入っています」


「え?」


「領地の話です」


 その一言で、背筋が強張る。


「エリオット様のお誘い……あなたに領地で働いてほしいと」


「あ……はい。その……まだ、返事はしていません」


「そうですか」


 レイはほんのわずか目を伏せる。

 表情は変わらないのに、空気だけが少し重くなった。


「あなたは、どう思っているのですか」


「え……?」


「領地で働くことについてです。私に対する体面や、周囲の目は一度置いて」


(置いておけない……一番置けないの、あなたなんですけど……)


 叫びを飲み込み、リリーは言葉を選んだ。


「……領地は、とても良いところだと思いました。人も優しくて、仕事のやり方も、現場のことをちゃんと考えていて」


 酒場の光景が鮮明に蘇る。

 数字の向こうの「人」の話を、当たり前にしていた人たち。


「ここで働けたら……わたしの仕事も、誰かの役に立ってるって実感できるんだろうなって」


「……」


「だから、その……魅力的だなって、思ってます」


 言ってしまってから、胸の奥がずきりと痛んだ。


(レイ様の前で言うことじゃなかったかも……)


 レイの横顔から、一瞬だけ色が引いたように見えた。


「……もし、あなたがここを離れることを選んだら」


 声が、わずかに低くなる。


「その時、私は――」


 リリーは思わず顔を上げた。

 レイの瞳は、いつもより濃い色をしている。


「私は……困るでしょうね」


「……困る?」


「あなたのように、膨大な書類を正確に整理できる人は多くありませんから」


(仕事の話だった……)


 期待した自分を、心の中で殴りたくなる。


 それでもレイは続けた。


「あなたの働きには、いつも助けられています」


「……そ、そんな。大したことしてません」


「いいえ」


 ぴしゃり、と遮られる。


「あなたは、自分の価値を低く見積もりすぎています」


「っ」


 言葉が詰まる。


「あなたがここにいること。仕事をしてくれていること。それは、私にとっても――」


 声が、ほんの少しだけ揺れた。


「――重要です」


「……お仕事的に、ですよね」


 反射で逃げ道を作ってしまう。


 レイは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。


「……そう、ですね。仕事上、重要です」


 “仕事上”という言葉が、胸に刺さる。


「……もし」


 沈黙の中、リリーはぽつりと尋ねた。


「もし、わたしが領地に行くって決めたら……レイ様は、止めますか?」


 レイが固まる。

 噴水の水音と、遠くの鳥の声だけが響いた。


「……私は」


(行かないでほしい、って……言ってくれる?)


「あなたの選択を、尊重すべき立場です」


 正論。分かっていた答え。


「……ですが」


 レイは視線を伏せた。


「本音を言えば――」


 ほんの少し、間が空く。


「あなたが遠くへ行ってしまうのは……寂しいと、思うでしょう」


 その言葉を理解するより先に、喉の奥がひくりと鳴った。

 息を吸うのを、一拍だけ忘れる。


 寂しい。

 その言葉が、胸の奥で何度も反響する。


 だがレイは、すぐにいつもの調子に戻そうとした。


「もちろん、それは“職場の一員として”の話です」


「……ですよね」


 精一杯、平静を装う。


 レイは小さく息を吐いた。


「……あなたは本当に、自分を低く見積もるのが得意ですね」


「え……?」


「もっと、自分が誰かの“寂しさ”の理由になりうると、考えてもいいはずです」


 リリーは、何も言えなかった。


 胸の奥で、答えの出ない感情だけが、静かに揺れていた。

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