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迷う気持ち

アンネが文官局の扉を押して入ったとき、執務室にはいつもの「紙とインクの匂い」が満ちていた。


 羽ペンの走るかすかな音、紙をめくる乾いた気配、時折交わされる小さな声。

 その中に、ひときわ細く、でも落ち着きなく動くペン先の音が混じっている。


(いた)


 部屋の奥、いつもの席。

 リリーは机に向かい、書類の山と格闘していた。


 周囲からの視線を集めがちな今日この頃だが、当の本人は、相変わらず「気配を薄くするスキル」を全開にしている最中らしい。

 少なくとも、物理的には書類の山の陰から頭の半分しか見えない。


「リリー」


 そっと名前を呼ぶと、ぴくん、と肩が揺れた。


「ひゃ……っ!? あ、アンネ!」


「そんなに驚かないでよ。幽霊見たみたいな反応やめて」


「ご、ごめん……ちょっと集中してて……」


 顔を上げたリリーは、いつもより少しだけ目の下が暗い。クマというより、「脳内会議で徹夜しました」という顔だ。


(うんうん、考えすぎてる顔)


 アンネは机に手をつき、ふわりと笑った。


「ちょうどいいところに来たわね。休憩、行こ」


「え、でも、まだこの書類が……」


「その書類、締切いつ?」


「えっと……三日後……」


「はい終了。行く」


「えぇっ!? 三日後って言っても油断できないから今のうちに……」


「三日後締切の仕事を、今日の休憩時間削ってまでやろうとする人は、だいたい早死にするわよ?」


「こわい理論出てきた!?」


 周りの文官たちがくすりと笑うのを横目に、アンネは容赦なくリリーの椅子を後ろに引いた。


「ちょ、ちょっと滑る滑ってる!」


「大丈夫。被害者は出してないから」


「被害者前提なの!?」


「というわけで、リリー借りますねー」


 同僚たちは「いつものだ」という顔で、誰も止めなかった。


 ◇◇◇


 二人が向かったのは、文官局の奥にある小さな休憩室だった。


 窓から庭の一部が見えるその部屋は、外の喧騒から少しだけ切り離されていて、午後の陽射しがやわらかく差し込んでいる。

 壁際には古びた本棚と、簡素な木のテーブルがひとつ。テーブルの上には、誰かが置いていったクッキーの缶がぽつんと乗っていた。


「座ってて。お茶入れてくる」


「え、いいよ? 私やるよ?」


「いいの。今日はわたしがリリーを強制連行したんだから、せめてお茶くらいはね」


 軽い口調で言い残し、アンネは慣れた手つきでポットに湯を注ぐ。


 湯が注がれる音とともに、茶葉の香りがふわりと広がった。

 リリーはテーブルの端に腰かけ、膝の上で指をもぞもぞと動かしている。


(……やっぱり、何か抱えてる)


 アンネは湯気越しにその横顔を眺め、湯飲みに紅茶を注いだ。


「はい、どうぞ」


「ありがと……」


 両手でカップを受け取るリリー。湯気に頬を近づける仕草が、いつもより少し頼りなく見える。


 ひと口飲んだタイミングを見計らって、アンネはさらりと切り出した。


「で――昨日は、楽しかったとは聞いたけど」


「っ!」


「どうするつもりなの?」


「ど、どれの話かな……?」


「どれも何も、エリオット様に誘われて飲みに行った話よ。領地へのお誘い、かなり熱心なんでしょ?」


 真正面から言われ、リリーは「うぅ……」と小さくうめき、カップの縁に視線を落とした。


「誰から聞いたの……?」


「王宮情報網をなめないで。――というのは冗談で、レオナルド様から」


「やっぱりレオナルド様かぁ!」


「というか、あの人が知らないわけないでしょ。職員が城下町で飲んでたら、そのうちどこかから耳に入るわよ」


「そ、そういうものなのかな……」


 リリーは髪の先を指でくるくるしながら、どこか落ち着かない様子で笑う。


 アンネはクッキーの缶を開け、ぽいっと一枚リリーの前に滑らせた。


「はい、まずは糖分」


「ありがと」


「で、どうだったの?」


「……何が?」


「雰囲気とか、働いてる人の感じとか、“ここで働くのもいいな”って思ったかどうかとか」


 最後のひと言に、リリーはびくっとして、慌ててクッキーをかじった。


「…………ま、まぁ、その……」


「口に物が入ってるから喋らなくていい、みたいな逃げは却下ね」


「うぅ……アンネ、今日はいつもより追及が鋭い……」


「それだけ心配してるってことよ」


 さらっと言うと、リリーは目を丸くしてアンネを見た。

 その視線から、そっと目をそらしつつ、アンネは自分のカップにも紅茶を注ぐ。


「じゃ、とりあえず感じたことを順番に」


「じゅ、順番にって……」


「まずは、職場の雰囲気」


「う……」


 リリーは一度目を閉じ、観念したように口を開いた。


「……すごく、よかった」


「やっぱり」


「みんな、エリオット様のこと“領主様”っていうより、ちゃんと“上司”として見てる感じでさ。気軽に話しかけてたし、でも仕事の話になると空気が変わって」


 語りながら、リリーの表情が少しずつ柔らかくなる。


「誰か一人に仕事が偏らないようにしてたり、“どうやってやってるか”をちゃんと見てくれてて。

 数字だけじゃなくて、その先にいる人たちのことも気にしてて……」


「うんうん」


「“ああ、この人たちのこと、大事にしてるんだな”って分かる空気だった」


 そう言うときのリリーの目は、少しきらきらしていた。


(はい、完全に気に入ってますね)


 アンネは心の中でメモを取りつつ、さらに問いを重ねる。


「で、“ここで働いてる自分”は、想像できた?」


 ぐさり。


「……できちゃった、かも」


 リリーは観念したように、小さく笑った。


「倉庫の帳簿とか、物資の出入りを管理したり、現場の人たちが書いたメモを整理したり……

 そういうの、きっと楽しいんだろうなって思って」


「それ、いいことじゃない?」


「うん。すごく、いいことなんだけど……」


 そこで、言葉が途切れる。


 アンネはあえて急かさず、紅茶をひと口飲んで待った。


「……“すごく、いいこと”なはずなのにね」


 やがて、ぽつりと声が落ちる。


「考えれば考えるほど、胸が苦しくなるんだよ」


「胸が?」


「うん。“ここで働きたい”って思うたびに、どこかで“ぎゅっ”て」


 リリーは自分の胸に手を当てる。


「期待してるのに、怖くて。

 “ここにいたら、きっと楽だよ”って心のどこかが言ってるのに、“でも”って声もあって」


「“でも”?」


 アンネが問い返すと、リリーは少しだけ視線を落とした。


「……レイ様の顔が、浮かぶの」


 室内の空気が、ほんの少しだけ色を変える。

 アンネは、予想していたとはいえ、胸の奥がきゅっとした。


「領地の人たちと話してて、“ここいいな”って思うたびに、頭のどこかで“でも、レイ様は?”って」


「うん」


「“ここに行ったら、もう前みたいには会えなくなるよ”って。

 “推しを近くで拝めなくなるよ”って。……最後のはちょっと違うかもしれないけど」


 わざと軽く言うと、アンネは小さく笑った。


「違わないと思うけど」


「……違わないかも」


 リリーも苦笑する。


「でもね、最近、それだけじゃないんだよ」


 ぽつり、と落ちた一言に、アンネの背筋が自然と伸びる。


「“推しを近くで拝めないから嫌だ”じゃなくてさ」


 リリーは、自分の指先を見つめながら続ける。


「“レイ様がいない場所で毎日過ごすのは、すごく寂しい”って思ってる自分がいる」


 そこまで言って、リリーは両手で自分の頬を覆った。


「わぁぁぁ……口に出しちゃった……!」


「うん。よく言った」


 アンネはすかさず褒める。


「で、その“寂しい”って気持ちを、ちゃんと自分で分かってるんだよね?」


「……うん。前にアンネに言われてから、ずっと考えてた」


 あの日、中庭で言われた言葉。「推しと恋は両立することもある」という話。

 そして、“レイを推しじゃなくて好きな人として見てる自分”に気づいてしまった瞬間。


「だから、余計に怖いの」


「怖い?」


「うん。“ここで働きたい”って思うのは、たぶんすごく自然なことなんだよ。

 仕事としても、人としても、きっと幸せになれると思う」


「うん」


「でも、それを選んだ瞬間に……“好きな人から自分で離れてく”ってことになるじゃない?」


 アンネは、胸の奥がじくりと痛むのを感じた。


 それは、あの日、自分がレオナルドに気持ちを伝えようか迷ったときに、何度も頭の中で繰り返した考えとよく似ていたからだ。


「しかもね」


 リリーは、自嘲気味に笑う。


「わたし、自己肯定感が、こう……底を這ってるタイプだからさ」


「自分で言う?」


「アンネに言われて、ちょっと分かってきちゃったもん」


 肩をすくめてから、続ける。


「だから、“レイ様の傍にいたい”って思うと同時に、“でも、わたしがいなくなっても困らないよね”って、すぐ思っちゃうんだよね」


 それは、聞いていてむず痒くなるほどの言葉だった。


「“書類は誰かがやるし”、“レイ様の仕事は完璧だし”、“代わりはいくらでもいるし”って。

 だったら、せめて自分が楽に働ける場所を選んでもいいんじゃないかな、って」


「……」


「だからね、アンネ」


 リリーは顔を上げ、まっすぐアンネを見る。


「わたしが“領地に行きたい”って思うのは、逃げなのかな。

 それとも、“ちゃんと自分の幸せを考えようとしてる”って言っていいのかな」


 それは、まさに「逆相談」だった。


 アンネは、しばらく何も言わなかった。

 紅茶の表面に、窓からの光が揺れている。


(――ああ、ほんとに)


(似てるなぁ、わたしたち)


 自分を低く見積もって、相手の幸せを勝手に決めつけて、

 それを理由に、自分の気持ちから目をそらそうとするところとか。


 レイも、リリーも、そして自分も。

 みんな、しっかりめんどくさい。


 でも――だからこそ、放っておけなかった。


「……逃げかどうかはさ」


 アンネは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「“どこにいるときの自分が、一番ちゃんと息ができるか”で決めていいんじゃない?」


「ちゃんと、息……?」


「うん。領地の話してるときのリリー、さっきすごく楽しそうだったよ。

 “こういう書類があって”“こういう人がいて”って」


「う……」


「でも、“レイ様がいない場所”を想像した瞬間、顔が曇った」


「見てた……?」


「見てた。友達だからね」


 リリーは、少しだけ照れくさそうに笑う。


「領地に行きたいって気持ちも、本物だと思う。

 仕事として、ちゃんとやりたいことがあるって、すごくいいことだし」


「……ありがとう」


「でもね、それと同じくらい、“レイ様の傍にいたい”って気持ちも、本物なんだと思う」


 リリーは、はっとしたように目を瞬かせた。


「さっき、自分で言ってたじゃない。

 “推しだから”じゃなくて、“好きな人だから寂しい”って」


「……言っちゃったね……」


「うん。聞いた。しっかり」


 アンネは笑ってから、少し真剣な声に戻る。


「どっちの気持ちも、本物なんだよ。

 “ここで働きたい自分”も、“傍にいたい自分”も」


「でも、両方は選べないよ?」


「だから悩んでるんでしょ?」


「それは……そうなんだけど……」


「だったらさ」


 アンネは、軽くテーブルを指先で叩いた。


「せめて、“自己肯定感の低さ”を理由にするのはやめよう?」


 リリーは、息を飲んだ。


「“わたしなんかがいなくても困らないだろうから”って理由で離れるのは、

 それこそ、好きな人にも失礼だと思う」


 それは、自分自身にも向けている言葉だった。


「“自分なんか”ってフィルター、一回全部外して。

 領地で働きたいか、レイ様の隣で働きたいか、“どっちの自分が好きか”で考えていいと思う」


「……どっちの、自分が」


「そう。エリオット様の領地で働いて、“誇りを持って仕事してる自分”も、

 レイ様の隣で“好きな人の役に立とうとしてる自分”も、きっとどっちもリリーでしょ」


「うん……」


「だったら、“自分のことを一番嫌いにならずに済みそうな選択”をするのが、正解なんじゃないかな」


 リリーは、ぎゅっとカップを握りしめる。


「……そんな、かっこいい選択、できるかな」


「できるよ。だって、わたしと違って、リリーはちゃんと自分の気持ちに気づいてるもの」


「アンネだって気づいてるじゃない」


「気づいてるけど、一回盛大にこじらせてるからね。説得力が違うの」


 ふっと笑い合う。

 その笑いに、少しだけ涙の味が混じっているのは、たぶんお互い様だ。


「……ねえ、アンネ」


「なに?」


「もし、わたしがどっちを選んでも、アンネは……そばにいてくれる?」


 その問いは、思っていた以上に幼くて、切実だった。


 アンネは一瞬だけ目を丸くし、それから盛大に鼻で笑った。


「当たり前でしょ。どっち選んでも、文句は言うけど応援はするよ」


「文句言うんだ……」


「言う。 “なんでこっち選んだの”って一回は聞かないと気が済まないから」


 そう言ってから、ふっと優しく笑う。


「でも、そのあとちゃんと、“選んだ自分を好きでいられますように”って祈ってあげる」


「……ありがとう」


 リリーの目が、ほんの少し潤む。


 アンネはそれ以上何も言わず、クッキーをもう一枚リリーの前に滑らせた。


「まずは、ごはん食べて寝なさい。悩むのはそれから」


「急に雑なまとめ方になった!」


「悩むのは大事だけど、低血糖のときに出した結論はだいたいろくでもないのよ」


「それは、ちょっと分かる……」


 二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。


 休憩室の窓の外では、午後の光が少し傾き始めている。

 まだ、答えは出ない。


 けれど――リリーの胸の中で、「ここにいたい」と「傍にいたい」という二つの気持ちが、

 ようやく「どちらも、本物なんだ」と認められ始めていた。

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