逆相談大作戦!
午後の王宮は、昼の喧騒が一段落し、廊下のざわめきも少しだけ落ち着いていた。
文官局の一角、滅多に使われない小さな打ち合わせ室の前で、アンネはドアノブに手をかけたまま、ひとつ深呼吸をする。
(よし。やるって決めたんだから、やる)
ノックを二度。
「失礼いたします。アンネ・バーネットです」
「どうぞ」
聞き慣れた低い声が返り、アンネはそっと扉を開いた。
部屋の中には、レイが一人で立っていた。小さな机に数枚の書類を並べ、その横に紅茶が一杯。窓から差し込む光が、銀灰の髪を柔らかく照らしている。
「お忙しいところ申し訳ありません。少々、ご相談したいことがありまして」
「構いません。おかけください」
レイが椅子を引く。いつも通り、無駄のない、完璧な所作。
アンネは礼を言い、正面に腰を下ろした。
近くで見ると、彼の表情はいつも以上に整っていて、“何も感じていない”ように見える。
(なにも感じてないわけないんだから)
「本日のご相談は、文官局の業務に関わるものでしょうか」
レイの問いに、アンネは一拍だけ迷い、軽く首を振った。
「いえ。……業務“だけ”では、ございません」
「だけ、では」
レイの眉がわずかに動く。
「個人的な内容も含まれますので、不快でしたらここでお断りいただいて構いません」
「そういう前置きをされると、逆に気になりますね」
冗談とも本気ともつかない言い方だが、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
「……では、お言葉に甘えまして」
アンネは膝の上で指を組み、ぐっと力を入れる。
──ここからは、少しだけ自分のこともえぐる時間だ。
「レイ様はご存じかと思いますが、わたくし、レオナルド様とは幼い頃からの付き合いでして」
「ええ。以前、レオナルド様ご自身から少し伺いました」
「やっぱり余計なことまで」
アンネは小さくため息をつき、それから、ふっと笑った。
「その……そういう事情もあって、わたくし、レオナルド様のことを長いことお慕いしておりまして」
その瞬間、レイの指が、カップの取っ手の上でぴたりと止まった。
「……そうですか」
極限まで抑えた声。
驚いているのは、さすがの彼でも隠しきれていない。
「ただ、そのお気持ちについては、すでにきちんとお伝えして、きちんとお断りされておりますので、ご心配なく」
「ご心配、でしょうか」
「レオナルド様の名誉のために申し上げますが、とても丁寧に、そして誠実に振られました。“妹のような存在だから”と」
自分で口にして、胸がちくりと痛む。
それでも、表情には出さないと決めていた。
「……そうでしたか」
「それ自体は、納得しているつもりです。わたくしの想いですから、相手にどうこうしていただくものでもありませんし」
レイは静かに頷いた。
アンネは、そこで少しだけ視線を落とす。
「ただ、そのうえで……ひとつ、お伺いしたいことがありまして」
「私に、ですか」
「はい。レイ様に」
視線を戻す。
銀青の瞳をまっすぐ見つめ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「振られていると分かっていても……それでも、傍で働きたいと思うのは、傍にいたいと思うのは、身勝手でしょうか」
部屋に、静寂が落ちる。
レイはすぐには答えなかった。
彼の中で、いくつもの言葉が生まれては消えているのが分かる。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……身勝手かどうかは、本人以外には決められません」
「では、レイ様なら、どうなさいますか」
「私、ですか」
「はい。レオナルド様ではなく、“誰か”に想いを寄せているとして。
その方が、自分のことを“そういう対象”としては見ていないとしても」
レイのまぶたが、微かに震える。
「それでも、傍にいたいと望むのは、許されると思われますか」
それは、アンネ自身の問いであり──
同時に、彼に向けた鏡でもあった。
レイはしばらく視線を彷徨わせ、それから、静かに言う。
「……本人が望むのであれば、“傍にいたい”という気持ちは、誰かに否定されるものではないと思います」
「たとえ、それが叶わないと分かっていても?」
「はい」
「苦しくても?」
「……はい」
その「はい」は、ほんの少し掠れていた。
(……やっぱり)
アンネは、胸の奥でこっそりガッツポーズを決める。
「ありがとうございます。……少し、気持ちが楽になりました」
そう言いつつも、ここからが本題だ。
「もうひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「もし──“想っている側”が、自分のことを“ふさわしくない”と決めつけて、
勝手に距離を取ろうとしていたら、レイ様はどうされますか」
「勝手に、距離を……」
レイの顔に、分かりやすい困惑の色が浮かぶ。
「はい。たとえば“自分なんかが傍にいたら迷惑だ”とか、“相手にはもっとふさわしい人がいる”とか。
そう思い込んで、何も言わずに、別の場所を選ぼうとしていたら」
(わたしのことでもあるし、リリーのことでもある)
「その時、レイ様なら、笑って送り出されますか?」
レイは、すぐには答えなかった。
紅茶の表面が、かすかに揺れる。
それが、彼の呼吸の乱れをそのまま映しているように見えた。
「……送り出すべきだと、頭では思うでしょう」
ようやく絞り出された言葉は、きちんとした執事のものだった。
「本人が望む道であれば、引き止めるべきではないと」
「では、心は?」
アンネは、間髪入れずに重ねる。
「頭ではなく、レイ様ご自身のお気持ちは、どう思われると思いますか」
レイは、そこで初めて視線を伏せた。
長い沈黙が落ちる。秒針の音が聞こえそうなほど、部屋は静かだ。
やがて、低く、短く。
「……嫌だと、思うでしょう」
その一言には、隠しきれない熱があった。
アンネは目を閉じ、心の中で「よし」と呟く。
(言ったわね)
「……ありがとうございます」
目を開き、柔らかく微笑む。
「レオナルド様のことと、重ねるつもりはありませんが……
“傍にいたい”と願う気持ちも、“行かないでほしい”と思う気持ちも、否定しなくてよいのだと分かって、少し救われました」
レイは、どこか落ち着かない表情で紅茶に視線を落とした。
「私の言葉が……お役に立つのなら、何よりです」
「ええ。とても」
アンネは立ち上がりかけて、ふと、もうひと言だけ添えることにした。
「最後に、身勝手を承知で申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「“誰か”がどこにいたいと思っているのか。
その“誰か”にとって、どこが居場所なのか」
アンネは、レイを真っ直ぐ見つめる。
「レイ様なら、きっと……もう、お気づきになられているはずですわ」
それは、限りなく名前に近い“誰か”への指し示しだった。
レイの瞳が、かすかに揺れる。
「……私は、そんなに分かりやすいでしょうか」
「はい。昔から、ずっと」
アンネは、軽く会釈をした。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました。
業務のお邪魔をしてしまい、申し訳ございません」
「いいえ。……私も、少し考えるよい機会をいただきました」
レイの声は、ほんの少しだけ低く、柔らかかった。
(うん。ちゃんと届いてる)
部屋を出て、扉が閉まる。
アンネはその場で小さく拳を握りしめた。
(さあ、レイ様。ここからは、あなたの番よ)
歩き出しながら、心の中でそっと付け加える。
(“送り出したくない”って気持ちに、ちゃんと向き合ってあげてね。
──こっちも、リリーを全力で支えるから)




