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20/25

恋心は否定形で語られる――レイ観察日誌

 朝の執務室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。

 磨き上げられた机の上には、今日処理すべき書類が整然と積まれ、窓から差し込むやわらかな光が紙の縁を淡く照らしている。


 書類の角を揃え、内容を確認し、必要事項に印をつける。

 レイにとって、それは呼吸と同じくらい当たり前の行為――のはずだった。


 ……今朝までは。


「おはよう、レイ」


 軽い声とともに、執務室の扉が開く。


「おはようございます、レオナルド様」


 レイは顔を上げないまま、いつもと変わらない調子で答えた。

 ペン先は滑らかに紙の上を走り続ける。動きに乱れはない。少なくとも外側から見れば。


 レオナルドは紅茶のカップを片手に、いつもの席へ腰を下ろした。

 しばらくは何も言わず、ゆっくりと室内を見渡す。整った書類の山。過不足のない備品。きっちり閉じられた書庫の扉。そして、表情をほとんど動かさず書類と向き合う、完璧な執事。


 ――だからこそ、その“わずかな違和感”が目についた。


 レイの指先に、いつもより、ほんの少しだけ力が入っている。


「……昨日さ」


 なにげなさを装って口火を切る。


 ペン先が、ほんの一瞬だけ止まった。


「リリー嬢、飲みに行ってたよ」


 レオナルドは、その一瞬を満足げに見逃さない。


「……業務の一環でしょう」


 レイはすぐに手を動かし直し、平板な声で答えた。

 言葉としては正しい。正しすぎるくらい、整っている。


「やっぱりそこに落ち着くか」


 レオナルドはくすっと笑い、紅茶を一口飲む。


「でもさ、君」


 わざと間を置き、からかうような声音で続ける。


「“昨日の出来事”を、わざわざ僕から聞くのを待ってる時点で、もうちょっと不自然じゃない?」


「……何がでしょうか」


 聞き返す声も淡々としている。けれど、その首筋には、薄く緊張の色が浮かんでいた。


「ほら、整理だけしようか」


 レオナルドは指を一本ずつ折っていく。


「一つ。彼女は、君が業務で密接に関わっている文官」


「……」


「二つ。最近、君が妙に目で追っている相手」


「そのような事実は――」


「三つ。その彼女が、別の男と酒を飲みに行った」


 指を折り終え、にやりと笑う。


「――それで“特にありません”は、ちょっと無理があると思わない? 君くらい観察の細かい人だと」


「……監視する理由はありません」


 間髪入れずに返ってきた言葉は、ほんの少しだけ語尾が硬い。


「監視なんて言ってないのに、その単語が出てくるあたりが怪しいんだよね」


 レオナルドは肩を揺らして笑った。


「別に責めてないよ? 人に興味を持つのは、むしろ健全だ」


「健全、ですか」


「うん。“気になる”って、だいたいまともなところから始まるからね」


 レイはそこでようやくペンを置き、レオナルドをまっすぐ見た。


「……レオナルド様」


「なに?」


「からかわないでいただけますか」


「からかってるというより、観察だよ。昔からの趣味の」


 即答である。


「長い付き合いだからね。君が何かを飲み込んでる時の顔くらいは、わりと分かる」


 レイの眉が、わずかに寄る。


「……そのようなものは」


「あるってば」


 レオナルドは楽しそうに遮る。


「今日だって、“ああ、割り切ろうとしてるんだな”って顔してるよ。“仕事”って言葉に全部押し込めようとしてる」


「……」


 否定の言葉を探しながら口を開き――結局、閉じた。


 レオナルドは、そこでさりげなく話題を重ねる。


「昨日の彼女さ。けっこう楽しそうだったらしいよ」


「……」


「エリオットが言ってた。“良い職場ですね、って言われて嬉しかった”って。あいつ、顔に出やすいからね。本当に嬉しそうだった」


 胸の奥に、重たい何かが沈む。

 彼女が“楽しそうだった”という事実と、“別の場所での居心地の良さ”が結びついてしまう。


「ほら」


 レオナルドは軽く指を鳴らした。


「今の沈黙。そのあたりが、引っかかってるんでしょ」


 レイは視線を落とし、机上の書類を見つめる。文字は頭に入ってこない。


「安心しなよ」


 レオナルドは、そこでようやく声の調子を落とした。


「エリオットは、彼女に変な気はないよ。今のところはね」


「……今のところは」


「うん。今のところは。“ああ、いいな”くらいには思ってる」


 それは、それで厄介な事実だった。


「君が何も言わなければ、彼女はきっと“楽なほう”を選ぶよ」


 穏やかだが、容赦のない言い方だった。


「誰かが“ここがいい場所だよ”って何度も言ってくれたら、そっちに傾くのは自然なことだ」


「……私は」


「うん?」


「彼女の選択を、尊重すべき立場です」


 それは、執事として、そして上司としての正解だ。

 彼自身が何度も自分に言い聞かせてきた答え。


 レオナルドはしばらく沈黙し、それから小さく笑った。


「真面目だね、ほんと」


 しかし、すぐに表情を改める。


「でもさ、その“正解”」


 身を乗り出す。


「見てる側からすると、“何も言わないほうが傷つかない”って、自分に言い聞かせてる人の言い方なんだよね」


 レイの呼吸が、一瞬止まった。


 胸の内側を、鋭い何かがかすめていく。


「……違います」


「即答」


 レオナルドは、満足げに頷いた。


「うん、そう来ると思った」


 紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がる。


「まあ、いいや。どう転ぶか、楽しみにしてるよ」


 扉に手をかけ、振り返る。


「君が何か言うのか。何も言わないまま、彼女が先に決めてしまうのか」


 いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「どっちにしても、見応えはありそうだ」


 そう言い残して、執務室を出ていった。


 残されたレイは、静まり返った室内で、しばらく動けなかった。


(……私は)


 胸の奥に残る名前が、静かに疼く。


(彼女が、誰と笑っているかを)


 気にしてしまっている時点で――

 もう、どこかで答えを知っている気がしていた。


◇◇◇


 午後の回廊は、昼の喧騒がひと段落し、どこか気の抜けた穏やかさに包まれていた。

 高い窓から差し込む陽光が石床に長い影を落とし、遠くのほうでは鐘の音がかすかに響いている。


 書類の束を抱え、アンネは忙しなく歩いていた。足取りは軽いが、進む方向は迷いなく、いつもの仕事のリズムが身体に染みついているのが分かる。


「――アンネ」


 呼び止める声に、アンネはぴたりと足を止めた。


 振り返ると、回廊の柱にもたれるように立つレオナルドの姿がある。

 片手にはおなじみの紅茶。もう片方の手は、何も持っていない。


「お疲れさまです、レオナルド様」


 きっちりと礼をしながらも、その声にはどこか親しみが滲む。


「今、少し時間ある?」


「……いまの書類だけ棚に戻してしまっていいですか?」


「じゃあ、その間ここで待ってる」


 有無を言わせぬ調子は相変わらずだ。


 書類を棚に収め、戻ってきたアンネと並んで、

 二人は回廊の端にある小さな談話スペースに腰を下ろした。


 腰掛け用の長椅子と、申し訳程度に置かれた観葉植物。

 人通りは少なく、短い会話を交わすにはちょうどいい場所だ。


「で」


 一拍おいて、


「進捗、どう?」


「……何の、とは伺いませんけど」


 アンネは即答する。だが視線は、ほんの一瞬だけ泳いだ。


「分かってるでしょ」


 レオナルドは楽しそうに目を細める。


「レイと、リリー嬢」


「……」


 アンネは小さく息を吐いた。


「順調とは、とても言いがたいですね」


「うん、そんな顔してた」


 予想通り、といった様子で頷く。


「昨日、飲みに行ってたって聞いたよ。リリー嬢」


「はい。本人からも少し聞きました。“良い人たちだった”って」


「声のトーンは?」


「楽しそうでした」


 アンネは少しだけ苦笑する。


「“ああ、ここにいたら楽そうだな”って、ちょっとだけ思った顔です」


「うわぁ。具体的だ」


 レオナルドは天井を仰いだ。


「レイは?」


「仕事のほうは、いつも通り完璧です。……ただ」


 アンネは小さく息を飲み込んだ。


「リリーの名前を出した瞬間、ペンが一回止まりました」


「やっぱり見てたんだ」


「視界に入りますので」


 それだけ、と言わんばかりの口調だが、目はわずかに柔らかい。


「表情は?」


「“何も気にしていません”の顔です。でも、紙をめくる手の動きが少し雑でした」


「それは珍しい」


「ええ。だから、気づいてはいるんだと思いますよ。自分の中で何かが揺れてることくらいは」


 アンネは膝の上で指を組み、ふっと笑った。


「でも、名前まではつけてない。そこだけは、頑なです」


「めんどくさい男だなあ」


「昔からです」


 一切の躊躇いがない。


「リリー嬢のほうは?」


「……逆に分かりやすいです」


 アンネは少しだけ眉を寄せた。


「“私なんかが”って、一日に何回言うか数えてみたくなるくらいには」


「うわ、それは効く」


「こないだも、“エリオット様に誘われたけど、私じゃ役に立たないかも”とか言い出して」


「そんなわけないのにね」


「そうです。帳簿を仕上げたのも、仕事の段取りを組んだのも、リリーなのに」


 肩をすくめる。


「だから、“ここにいてほしい”って言われると、すごく揺れるタイプです。“自分を認めてくれる場所”に、弱い」


「……で、エリオットはそれを素でやってるわけだ」


「ええ。“君がいてくれると助かる”とか、“一緒にやれたら心強い”とか」


 アンネは苦笑した。


「告白してるわけじゃないのに、何度もそういうことを言ってくる人は……ちょっと危険ですね」


「自己肯定感低い子には致命傷だよ、それ」


 レオナルドの言葉に、アンネは小さく頷いた。


「では、どうなさるおつもりですか」


「もちろん、ちょっと火をくべる」


「……やっぱりそうおっしゃると思いました」


「大丈夫、大丈夫。直接“好きなんでしょ”とかは言わないよ」


「それが一番信用できません」


「ひどいなあ」


 口では言いながらも、どこか楽しそうだ。


「例えば、“昨日の飲み会どうだった?”って、わざとレイの前でリリー嬢に聞いてみるとか」


「……タイミングさえ間違えなければ、かなり効きますね」


「心臓に?」


「ええ。二人ともに」


 二人は顔を見合わせ、同時にため息をつき、

 そして同時に苦笑した。


「アンネ」


「はい」


「君は、どうしたい?」


 一瞬、空気がわずかに引き締まる。


 アンネは視線を落とし、それからまっすぐ前を見た。


「……大事な友達です。レイ様も、まあ、昔からの……手のかかる知り合いですし」


「うん」


「だから、このまま何も言えないまま、離れ離れになるのは、見たくありません」


 その声は穏やかだが、芯があった。


「友達想いだね」


「そう見えていたら、嬉しいです」


 レオナルドは少しだけ笑う。


「じゃあ、決まりだ。時々、進捗を教えて」


「時々、ですか」


「うん。人の恋路の経過報告って、なかなか趣があるからね」


「そんな職務、聞いたことがありません」


「今、この場で新設した」


 アンネは耐えきれず、ふっと笑った。


「……ほどほどに、お願いします」


「善処する」


 立ち上がりながら、レオナルドはふと思い出したように言った。


「そういえばさ」


「はい?」


「照り焼き、次はいつ?」


「……レシピはお渡ししますので、ご自身でお作りください」


「えー。作ってくれてもいいのに」


「領主様でしょう」


「胃袋は庶民なんだよ、私」


 その言い草に、アンネは思わずくすっと笑った。


 その笑顔を見て、レオナルドは満足そうに頷く。


「よし。今日も、まあ平和だ」


「どこがですか」


「嵐の前って、だいたい静かでしょ?」


 そう言って、軽い足取りで回廊を去っていく背中を見送りながら、アンネは静かに息を吐いた。


(……あとは、本人たち次第だけど)


 けれど心の中で、そっと付け足す。


(背中を押すくらいなら、してあげてもいい)


 そう決めて、再び書類を抱え直し、彼女もまた歩き出した。

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