恋心は否定形で語られる――レイ観察日誌
朝の執務室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
磨き上げられた机の上には、今日処理すべき書類が整然と積まれ、窓から差し込むやわらかな光が紙の縁を淡く照らしている。
書類の角を揃え、内容を確認し、必要事項に印をつける。
レイにとって、それは呼吸と同じくらい当たり前の行為――のはずだった。
……今朝までは。
「おはよう、レイ」
軽い声とともに、執務室の扉が開く。
「おはようございます、レオナルド様」
レイは顔を上げないまま、いつもと変わらない調子で答えた。
ペン先は滑らかに紙の上を走り続ける。動きに乱れはない。少なくとも外側から見れば。
レオナルドは紅茶のカップを片手に、いつもの席へ腰を下ろした。
しばらくは何も言わず、ゆっくりと室内を見渡す。整った書類の山。過不足のない備品。きっちり閉じられた書庫の扉。そして、表情をほとんど動かさず書類と向き合う、完璧な執事。
――だからこそ、その“わずかな違和感”が目についた。
レイの指先に、いつもより、ほんの少しだけ力が入っている。
「……昨日さ」
なにげなさを装って口火を切る。
ペン先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「リリー嬢、飲みに行ってたよ」
レオナルドは、その一瞬を満足げに見逃さない。
「……業務の一環でしょう」
レイはすぐに手を動かし直し、平板な声で答えた。
言葉としては正しい。正しすぎるくらい、整っている。
「やっぱりそこに落ち着くか」
レオナルドはくすっと笑い、紅茶を一口飲む。
「でもさ、君」
わざと間を置き、からかうような声音で続ける。
「“昨日の出来事”を、わざわざ僕から聞くのを待ってる時点で、もうちょっと不自然じゃない?」
「……何がでしょうか」
聞き返す声も淡々としている。けれど、その首筋には、薄く緊張の色が浮かんでいた。
「ほら、整理だけしようか」
レオナルドは指を一本ずつ折っていく。
「一つ。彼女は、君が業務で密接に関わっている文官」
「……」
「二つ。最近、君が妙に目で追っている相手」
「そのような事実は――」
「三つ。その彼女が、別の男と酒を飲みに行った」
指を折り終え、にやりと笑う。
「――それで“特にありません”は、ちょっと無理があると思わない? 君くらい観察の細かい人だと」
「……監視する理由はありません」
間髪入れずに返ってきた言葉は、ほんの少しだけ語尾が硬い。
「監視なんて言ってないのに、その単語が出てくるあたりが怪しいんだよね」
レオナルドは肩を揺らして笑った。
「別に責めてないよ? 人に興味を持つのは、むしろ健全だ」
「健全、ですか」
「うん。“気になる”って、だいたいまともなところから始まるからね」
レイはそこでようやくペンを置き、レオナルドをまっすぐ見た。
「……レオナルド様」
「なに?」
「からかわないでいただけますか」
「からかってるというより、観察だよ。昔からの趣味の」
即答である。
「長い付き合いだからね。君が何かを飲み込んでる時の顔くらいは、わりと分かる」
レイの眉が、わずかに寄る。
「……そのようなものは」
「あるってば」
レオナルドは楽しそうに遮る。
「今日だって、“ああ、割り切ろうとしてるんだな”って顔してるよ。“仕事”って言葉に全部押し込めようとしてる」
「……」
否定の言葉を探しながら口を開き――結局、閉じた。
レオナルドは、そこでさりげなく話題を重ねる。
「昨日の彼女さ。けっこう楽しそうだったらしいよ」
「……」
「エリオットが言ってた。“良い職場ですね、って言われて嬉しかった”って。あいつ、顔に出やすいからね。本当に嬉しそうだった」
胸の奥に、重たい何かが沈む。
彼女が“楽しそうだった”という事実と、“別の場所での居心地の良さ”が結びついてしまう。
「ほら」
レオナルドは軽く指を鳴らした。
「今の沈黙。そのあたりが、引っかかってるんでしょ」
レイは視線を落とし、机上の書類を見つめる。文字は頭に入ってこない。
「安心しなよ」
レオナルドは、そこでようやく声の調子を落とした。
「エリオットは、彼女に変な気はないよ。今のところはね」
「……今のところは」
「うん。今のところは。“ああ、いいな”くらいには思ってる」
それは、それで厄介な事実だった。
「君が何も言わなければ、彼女はきっと“楽なほう”を選ぶよ」
穏やかだが、容赦のない言い方だった。
「誰かが“ここがいい場所だよ”って何度も言ってくれたら、そっちに傾くのは自然なことだ」
「……私は」
「うん?」
「彼女の選択を、尊重すべき立場です」
それは、執事として、そして上司としての正解だ。
彼自身が何度も自分に言い聞かせてきた答え。
レオナルドはしばらく沈黙し、それから小さく笑った。
「真面目だね、ほんと」
しかし、すぐに表情を改める。
「でもさ、その“正解”」
身を乗り出す。
「見てる側からすると、“何も言わないほうが傷つかない”って、自分に言い聞かせてる人の言い方なんだよね」
レイの呼吸が、一瞬止まった。
胸の内側を、鋭い何かがかすめていく。
「……違います」
「即答」
レオナルドは、満足げに頷いた。
「うん、そう来ると思った」
紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がる。
「まあ、いいや。どう転ぶか、楽しみにしてるよ」
扉に手をかけ、振り返る。
「君が何か言うのか。何も言わないまま、彼女が先に決めてしまうのか」
いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「どっちにしても、見応えはありそうだ」
そう言い残して、執務室を出ていった。
残されたレイは、静まり返った室内で、しばらく動けなかった。
(……私は)
胸の奥に残る名前が、静かに疼く。
(彼女が、誰と笑っているかを)
気にしてしまっている時点で――
もう、どこかで答えを知っている気がしていた。
◇◇◇
午後の回廊は、昼の喧騒がひと段落し、どこか気の抜けた穏やかさに包まれていた。
高い窓から差し込む陽光が石床に長い影を落とし、遠くのほうでは鐘の音がかすかに響いている。
書類の束を抱え、アンネは忙しなく歩いていた。足取りは軽いが、進む方向は迷いなく、いつもの仕事のリズムが身体に染みついているのが分かる。
「――アンネ」
呼び止める声に、アンネはぴたりと足を止めた。
振り返ると、回廊の柱にもたれるように立つレオナルドの姿がある。
片手にはおなじみの紅茶。もう片方の手は、何も持っていない。
「お疲れさまです、レオナルド様」
きっちりと礼をしながらも、その声にはどこか親しみが滲む。
「今、少し時間ある?」
「……いまの書類だけ棚に戻してしまっていいですか?」
「じゃあ、その間ここで待ってる」
有無を言わせぬ調子は相変わらずだ。
書類を棚に収め、戻ってきたアンネと並んで、
二人は回廊の端にある小さな談話スペースに腰を下ろした。
腰掛け用の長椅子と、申し訳程度に置かれた観葉植物。
人通りは少なく、短い会話を交わすにはちょうどいい場所だ。
「で」
一拍おいて、
「進捗、どう?」
「……何の、とは伺いませんけど」
アンネは即答する。だが視線は、ほんの一瞬だけ泳いだ。
「分かってるでしょ」
レオナルドは楽しそうに目を細める。
「レイと、リリー嬢」
「……」
アンネは小さく息を吐いた。
「順調とは、とても言いがたいですね」
「うん、そんな顔してた」
予想通り、といった様子で頷く。
「昨日、飲みに行ってたって聞いたよ。リリー嬢」
「はい。本人からも少し聞きました。“良い人たちだった”って」
「声のトーンは?」
「楽しそうでした」
アンネは少しだけ苦笑する。
「“ああ、ここにいたら楽そうだな”って、ちょっとだけ思った顔です」
「うわぁ。具体的だ」
レオナルドは天井を仰いだ。
「レイは?」
「仕事のほうは、いつも通り完璧です。……ただ」
アンネは小さく息を飲み込んだ。
「リリーの名前を出した瞬間、ペンが一回止まりました」
「やっぱり見てたんだ」
「視界に入りますので」
それだけ、と言わんばかりの口調だが、目はわずかに柔らかい。
「表情は?」
「“何も気にしていません”の顔です。でも、紙をめくる手の動きが少し雑でした」
「それは珍しい」
「ええ。だから、気づいてはいるんだと思いますよ。自分の中で何かが揺れてることくらいは」
アンネは膝の上で指を組み、ふっと笑った。
「でも、名前まではつけてない。そこだけは、頑なです」
「めんどくさい男だなあ」
「昔からです」
一切の躊躇いがない。
「リリー嬢のほうは?」
「……逆に分かりやすいです」
アンネは少しだけ眉を寄せた。
「“私なんかが”って、一日に何回言うか数えてみたくなるくらいには」
「うわ、それは効く」
「こないだも、“エリオット様に誘われたけど、私じゃ役に立たないかも”とか言い出して」
「そんなわけないのにね」
「そうです。帳簿を仕上げたのも、仕事の段取りを組んだのも、リリーなのに」
肩をすくめる。
「だから、“ここにいてほしい”って言われると、すごく揺れるタイプです。“自分を認めてくれる場所”に、弱い」
「……で、エリオットはそれを素でやってるわけだ」
「ええ。“君がいてくれると助かる”とか、“一緒にやれたら心強い”とか」
アンネは苦笑した。
「告白してるわけじゃないのに、何度もそういうことを言ってくる人は……ちょっと危険ですね」
「自己肯定感低い子には致命傷だよ、それ」
レオナルドの言葉に、アンネは小さく頷いた。
「では、どうなさるおつもりですか」
「もちろん、ちょっと火をくべる」
「……やっぱりそうおっしゃると思いました」
「大丈夫、大丈夫。直接“好きなんでしょ”とかは言わないよ」
「それが一番信用できません」
「ひどいなあ」
口では言いながらも、どこか楽しそうだ。
「例えば、“昨日の飲み会どうだった?”って、わざとレイの前でリリー嬢に聞いてみるとか」
「……タイミングさえ間違えなければ、かなり効きますね」
「心臓に?」
「ええ。二人ともに」
二人は顔を見合わせ、同時にため息をつき、
そして同時に苦笑した。
「アンネ」
「はい」
「君は、どうしたい?」
一瞬、空気がわずかに引き締まる。
アンネは視線を落とし、それからまっすぐ前を見た。
「……大事な友達です。レイ様も、まあ、昔からの……手のかかる知り合いですし」
「うん」
「だから、このまま何も言えないまま、離れ離れになるのは、見たくありません」
その声は穏やかだが、芯があった。
「友達想いだね」
「そう見えていたら、嬉しいです」
レオナルドは少しだけ笑う。
「じゃあ、決まりだ。時々、進捗を教えて」
「時々、ですか」
「うん。人の恋路の経過報告って、なかなか趣があるからね」
「そんな職務、聞いたことがありません」
「今、この場で新設した」
アンネは耐えきれず、ふっと笑った。
「……ほどほどに、お願いします」
「善処する」
立ち上がりながら、レオナルドはふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「はい?」
「照り焼き、次はいつ?」
「……レシピはお渡ししますので、ご自身でお作りください」
「えー。作ってくれてもいいのに」
「領主様でしょう」
「胃袋は庶民なんだよ、私」
その言い草に、アンネは思わずくすっと笑った。
その笑顔を見て、レオナルドは満足そうに頷く。
「よし。今日も、まあ平和だ」
「どこがですか」
「嵐の前って、だいたい静かでしょ?」
そう言って、軽い足取りで回廊を去っていく背中を見送りながら、アンネは静かに息を吐いた。
(……あとは、本人たち次第だけど)
けれど心の中で、そっと付け足す。
(背中を押すくらいなら、してあげてもいい)
そう決めて、再び書類を抱え直し、彼女もまた歩き出した。




