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職場見学?です!

 その誘いは、リリーが身構えるより早く、思っていたよりもずっと軽い調子で降ってきた。


「リリー殿」


「はい?」


 机の端で書類を揃えていたエリオットが、ふと顔を上げる。


「今日の業務が終わったあと、少しお時間もらってもいいですか」


「……え?」


 予想していなかった言葉に、リリーは思わず手を止めた。


 窓の外はもう夕刻の色で、積まれた紙束の縁だけが、橙色に縁どられている。


「領地から一緒に来ている者たちと、ささやかな集まりをしようと思いまして。打ち上げというほど大袈裟なものでもないんですが……軽く一杯」


「い、いっぱい……ですか?」


「ええ。顔合わせもかねて」


 エリオットは、いつもの落ち着いた口調で続ける。


「せっかく今回の視察に力を貸していただきましたし、リリー殿にも来ていただけたらと思ったんですが……いかがでしょう」


「わ、わたしが行ってしまっても……?」


「“しまっても”というほどのものでもありませんよ」


 エリオットは少しだけ笑みを深めた。


「領地の連中も、今回の資料を作ってくれた方に一度挨拶したいと言っていまして。もちろん、無理なら遠慮なく断ってください」


 言い方は穏やかなのに、「いてくれたら嬉しい」という気持ちがにじんでいる。


 それがかえって、リリーの胸をそわそわさせた。


「……ご迷惑でなければ、参加させていただきたいです」


「ありがとうございます。それなら、こちらとしても心強い」


 エリオットは軽く会釈し、抱えた書類を持ち直す。


「場所の準備が出来たら、また声をかけますね」


「はい」


 扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。


 リリーは椅子に腰を下ろし直し、胸の辺りをそっと押さえた。


(……ただ飲みに行くだけ、だよね)


 仕事の一環。

 社交の一つ。


 そう頭では分かっているのに、心臓だけが落ち着いてくれない。


 理由も、分かっていた。


(“領地で働く”って話が……だんだん現実っぽくなってきてるから……)


 エリオットのもとで。

 あの領地で。


 そうなったら――静かな執務室にいる、もう一人の人の顔が浮かぶ。


(レイさん……もし、これを知ったら)


 何も言わないだろう。

 ただ、あの穏やかな目で「よかったですね」と微笑んでくれる気がする。


 だからこそ、胸がきゅっと締め付けられた。


(……簡単には、決められないよ)


◆ ◆ ◆


 仕事終わりに連れてこられたのは、王都でも古くからある酒場だった。


 奥の長卓には、すでに何人もの人影がある。

 領地から来た役人、穀倉を預かる管理人、運送を取り仕切る男たち。

 年齢も服装もばらばらなのに、不思議と空気がばらけていない。


 焼いた肉の匂い、香草の浮いたスープの湯気。

 木の天井にこもった熱気が、じんわりと体を温める。


「エリオット様、こっち空いてますよ!」


「お疲れさまです、エリオット様!」


「お疲れ。今日は皆、本当にありがとう」


 腰を下ろすエリオットに、遠慮のない声が飛ぶ。


「今日の視察、どうでした?」


「実際に見ると、だいぶ印象が変わるね。運搬路の改善もそうだし、倉庫の並べ方も。皆が工夫してくれているのがよく分かった」


「へへ、現場で頭ひねった甲斐がありましたね」


「報告書だけじゃ分からなかった部分が多かったよ。来て良かった」


「……でも、また宿題増やされそうで怖いですけど」


「それは否定できませんね」


 軽口に、周囲の笑いがはじける。


 本来なら、もっと距離を取られていてもおかしくない立場のはずなのに――。


 ここでは、「上司」と「部下」というより、「同じ仕事をしている人たち」の距離感に近かった。


 リリーは少し離れた場所で、そのやりとりを見ていた。


(……いい雰囲気)


 誰か一人が場を支配しているわけじゃない。

 誰か一人が、必要以上に縮こまっているわけでもない。


 それぞれが、自分の役割を誇りに思っているのが、会話の端々から伝わってくる。


「リリー嬢、こちらへ」


「は、はいっ」


 エリオットに呼ばれ、リリーは緊張しながら長卓の端の席へ向かった。


「今回の視察で帳簿をまとめてくれた、文官局のリリー嬢です」


「おお、この子が……」


「あの分厚いやつを……?」


「そりゃすごい。俺なら三日で逃げるわ」


 口々に驚きが漏れる。


「い、いえ……皆さんの記録が丁寧だったので。私は並べ替えただけです」


 慌ててそう言うと、何人かが顔を見合わせて笑った。


「そう言ってもらえると嬉しいですね」


「現場のメモ、“汚すぎる”って怒られることもあるからさ」


「字が読めただけでも感謝してほしいよな」


 穏やかな笑い声に、肩の力が少し抜ける。


「ようこそ。うちの飲み場へ」


 年配の男が、手元のジョッキを軽く掲げた。


 料理が次々と運ばれ、ジョッキが何度も行き交ううちに、酒場の空気はさらに柔らかくなっていく。


 木のジョッキがぶつかる低い音、笑い声、皿の触れ合う音。

 それらが混ざり合い、耳に心地よいざわめきになって届いた。


「リリーさんは、普段どんな感じで仕事してるんです?」


 向かいの若い文官に聞かれ、リリーは少し考えてから口を開く。


「えっと……“締切に追われてる”感じ、でしょうか」


「おー、想像つく」


「The 文官局って感じですね」


「とにかく終わらせるのが第一で、途中のやり方は……あまり聞かれません」


 そう付け足すと、隣の女性職員が「なるほど」と頷いた。


「こっちは、少し違うかもしれませんね」


「違う?」


「“どう回してるか”を、よく見られてます」


 リリーが首を傾げると、別の男がジョッキを持ち上げながら話に入ってきた。


「誰か一人だけ残業続きになってないか、とか」


「新人が“分かったふり”で走ってないか、とかね」


「顔色悪いやつには、“お前、その仕事いったん外れろ。こっち回す”って普通に言われるし」


「それ……全部、エリオット様が?」


 思わず出た問いに、周りの視線が一斉にエリオットへ向かう。


「ほら、聞かれてますよ」


「やめてくれ。注目されると飲みづらい」


 エリオットは肩をすくめて苦笑した。


「僕ひとりの方針、というわけではありません。前任の領主が残した仕組みを、手を入れながら続けているだけです」


「“手を入れながら”ね」


「前より細かい書類、増えましたよね」


「そうそう。“理由を書いて”ってやつ」


「……すみませんね」


 さらっと謝るエリオットに、誰かが「でも」と続ける。


「正直、面倒くさいときもありますけど」


「けど?」


「あとで自分でも読み返せるんで、まあ……結果的には助かってます」


「ミスしたときに、“何を考えてそうしたか”分かるのってでかいんですよ」


「怒鳴られるより、よっぽどマシだしね」


 わいわいと飛び交う言葉に、エリオットは少し照れたようにジョッキを傾けた。


「一人が無茶したところで、長続きはしませんから。だったら最初から、皆で回せるやり方にしておいたほうがいいでしょう」


 さらりと言った一言に、リリーの胸が静かに揺れた。


(……“出来上がった結果”だけが評価されるんじゃないんだ)


 文官局では、聞いたことのない考え方だった。


 誰か一人が徹夜して整えた数字でも、褒められるのは「使いやすい資料かどうか」だけ。

 そこにどれだけ負担があったかなんて、話題にすら上がらない。


「……いい職場ですね」


 思わず漏れた言葉に、周囲が一瞬だけ黙り、それから照れたように笑った。


「まあ、他所よりマシくらいですよ」


「飲み会は多いですけどね」


「そこは減らすつもりないんだ」


「大事でしょう?酔ってないと出てこない本音もありますから」


 さらっと笑うエリオットに、「ほら出た」と何人かが肩をすくめる。


 その何でもないやりとりを見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。


(……こういう職場、いいな)


 誰かの機嫌を取るための言葉じゃなくて。

 仕事を良くするための会話。


 そんな当たり前のものが、ここでは自然に息をしている。


「リリー殿、飲みすぎない程度に」


「あ、はい。ありがとうございます」


 差し出された杯を受け取りながらも、心は落ち着かない。


(ここで働く自分を、想像できちゃう)


 領地の人たちの顔。

 数字の向こう側にある生活と仕事。


 それらに囲まれて働く自分の姿が、はっきりイメージできてしまう。


 ――その一方で。


(……レイさん)


 あの静かな執務室。

 紙の音だけが響く空間。

 視線が合っただけで、一日幸せでいられた人。


 ジョッキを持つ指先に、自然と力が入る。


 この領地を選べば、伯爵家の執務室からは遠ざかる。

 どちらかを選ぶことは、どちらかを手放すことだ。


(そんなの、簡単に決められるわけないよ……)


 楽しげな笑い声が飛び交う酒場の片隅で。

 リリーの胸の中だけが、静かに深く揺れ続けていた。




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