いざ実食!
翌日の昼休み。
文官局の廊下には、各部署へ向かう職員たちの足音と、紙の擦れる音が混じり合っていた。
「アンネ! おはよう」
「あぁ、リリー。おはよう」
リリーが駆け寄ると、アンネは手に持った布袋を、ことりと軽く揺らして見せた。
「持ってきたの? 例のあれ」
「持ってきたわ。ただ、問題はレオナルド様をどうやって呼び出すか、なのよね」
「呼び出すって……。
幼馴染なんだったら、連絡手段とかは?」
「“今からあなたの胃袋を落としに行きます”って手紙を出せると思う?」
「それはちょっとホラーかも」
二人でくすりと笑う。
アンネが袋を揺らすと、布の隙間から、さっきから気になっていた匂いがふわりと漏れた。
甘くて、香ばしくて、
明らかにこの階の“書類とインクの匂い”にはそぐわない。
「……アンネ」
リリーが歩きながら小声で言う。
「なに?」
「それ、絶対に匂い出てる」
「ええ、知ってるわ」
アンネは全く悪びれずに答えた。
「包みを二重にしても無駄だったの。むしろ、朝より香りが丸くなってる気がするわ」
「熟成させてどうするの!? ここ職場だよ!?」
リリーが思わず足を止めた、その瞬間。
「アンネ」
落ち着いた低い声が、背後からかかった。
二人が振り向くと、そこにはレオナルドが立っていた。
いつも通り整った微笑み――ただし、その視線は。
完全に、アンネの手元の袋に吸い寄せられている。
(……隠す気ゼロだ、この匂い)
「こんにちは、レオナルド様」
「こんにちは、リリー嬢。……そしてアンネ」
一拍置いてから、視線を袋からようやく外す。
「今日は、随分と……賑やかな香りの昼食だな」
「分かります?」
「分かるとも」
即答だった。
「通路の角を曲がる前から、こちらに手招きしていた」
「匂いが手招きって新しいですね……」
リリーが小声でつぶやくと、レオナルドは軽く肩をすくめた。
「君たちの仕業だろうと思ってね。……それは、もしや」
「試作です。味見係が必要で」
アンネが袋を持ち直す。
レオナルドはわずかに目を見開き、すぐに柔らかく笑った。
「味見係に立候補してもいいかな?」
「ええ。ちょうど、お誘いしようとしていたところです」
アンネがそう言うと、レオナルドの口元が、音もなく少し緩んだ。
「では、ご一緒しよう。……場所は、さっき空いているのを見た小会議室でどうだい?」
「了解です」
リリーは心の中でガッツポーズを決めた。
(……おびき寄せるとか考えてたけど、正直、匂いだけで勝てた気がする)
◇
小会議室の窓からは、柔らかな光が差し込んでいる。
昼休みを告げる鐘の余韻が、まだ微かに空気に残っていた。
机の上に布を敷き、アンネが包みをそっと開く。
その瞬間――甘辛い香りが、ふわりと広がった。
「……ああ、これだ」
レオナルドが、分かりやすく表情を緩める。
彼の表情がここまでわかりやすく崩れるのを見るのは、リリーにとっても珍しかった。
(……本当に好きなんだ、あの味)
アンネは、背筋を正したままそんな彼の横顔をそっと窺う。
「お口に合うかは……食べてみていただかないと分かりませんけれど」
「香りだけで、もう八割は合格だね」
「それ、褒め言葉として受け取ってよろしいですか?」
「もちろん」
レオナルドは迷いなくフォークを取り、一口運ぶ。
噛んだ瞬間、わずかに目を閉じた。
眉尻がす、と緩む。
「……うん」
「…………」
アンネは、返事を待つ間だけ呼吸を忘れている。
「素直に言うと――心底、嬉しい」
「味の……感想をお願いします」
リリーのツッコミに、レオナルドが小さく咳払いした。
「もう一口、食べてもいいかい」
「それ感想じゃないですよね!?」
止める暇もなく、二口目が彼の口に消えていく。
まあ、アンネが明らかに嬉しそうだからいいか、とリリーはそっと心の中で手を引っ込めた。
「甘さが前に出すぎない。……でも、あの“醤油に似た調味料”の香りがちゃんと残っている」
「……はい」
アンネはこれ以上ないくらい真剣な顔で頷く。
「焼き目もいい。焦がしていないのに、香ばしさだけがきちんと立ってる」
「そこは……火を入れすぎないように気をつけました」
「だろうね。皮の部分、ぱりっとしているのに中はちゃんと柔らかい」
アンネは、ほんの一瞬だけ口元を緩め、すぐに表情を整えた。
「ありがとうございます。……作った甲斐があります」
「“作った”?」
レオナルドの手が、ふと止まる。
「はい。今回は私が」
「本当に?」
「本当に」
「それで、この完成度か」
「……ご不満でしたでしょうか」
「逆だよ」
レオナルドは小さく笑った。
「正直、驚いてる。だって昔は、何でもかんでも黒い塊にしてたじゃないか」
「……それは、褒めていただいていると解釈しても?」
「もちろん」
少しだけ視線を伏せるアンネの睫毛が、夕陽にきらりと光る。
「でしたら……よかったです」
レオナルドはフォークを持つ手を一度膝の上で組み、まっすぐアンネを見た。
「見ないうちに、ここまで腕を上げていたなんて。……すごいな」
その声音は、からかいではない。
真面目で、少しだけ誇らしげだった。
「努力しましたから」
アンネは淡々と答える。けれどその耳は、ほんのり赤い。
「……今の一言だけで、十分伝わったよ」
レオナルドは、残っていた一切れを見つめ、ゆっくりと続けた。
「ちゃんと“好きな味”だ」
その言葉に、アンネの肩がわずかに揺れる。
「……そう言われると、少し困ります」
「どうして?」
「期待してしまいますので」
「期待すればいい」
間髪入れず返ってくる。
「それでまた作ってくれるなら、僕としては大歓迎だ。……本気で、毎日でもいい」
さらりと告げられた言葉に、アンネは一瞬、完全に固まった。
「……相変わらず、無自覚に言いますね」
「そうかな?」
「そうです!」
そのやり取りを横で聞いていたリリーは、耐えきれず小さく咳払いした。
「……あの、お二人とも」
「何だい?」
「会話に夢中になってますけど、もう一切れしか残ってません」
レオナルドがはっと皿を見る。
確かに、照りの乗った肉は最後の一切れになっていた。
「……本当だ」
「あら」
アンネは少しだけ苦笑した。
「独り占めはよくありませんよ、レオナルド様」
「だって、これは……」
レオナルドが、ほんの少しだけ、子どものような目でアンネを見る。
伯爵とは思えない、分かりやすい惜しがり方だ。
アンネはうっと小さく唸り、視線でリリーに助けを求める。
全部食べていいですよ、という意味を込めて、リリーがこくんと頷くと――
アンネの表情がぱっと明るくなった。
「……しょうがないですね」
わざとらしくため息をついてから、レオナルドに向き直る。
「リリーと私に感謝して、味わって食べてください」
「もちろんだ」
レオナルドは、最後の一切れを本当に“味わうように”口に運んだ。
よく噛み、飲み込んでから、ゆっくり息を吐く。
「……ありがとう。お礼と言ってはなんだが」
そう言って、懐から小さな袋を取り出す。
中から金貨が一枚、机の上に転がった。
「これで、また美味しいものでも買ってくるといい」
「えっ!? そんな大金は――」
金貨一枚。
庶民の感覚のリリーからすると、いつもの昼食が五日分は余裕で賄えそうな額だ。
「そ、そんなにもらえません!」
両手をぶんぶん振るリリーの手を、アンネがそっと押さえた。
「もらえるものは、もらっとかないと損よ?」
「えぇ……?」
貴族らしくない台詞に、リリーは思わず目を丸くする。
その様子を見て、レオナルドも声をあげて笑った。
「そうだ。貰えるものは受け取っておきなさい。
君たちがこの味をまた作ってくれるなら、安いものだよ」
「……レオナルド様、それは“また作れ”って遠回しに言ってます?」
「遠回しだったかな?」
「あきらかに直球です」
アンネはそう言いながらも、金貨をそっと受け取った。
その仕草はどこか誇らしげで、嬉しそうだった。
リリーは、笑い合う二人を眺めながら、心の中でそっと思う。
(……やっぱり、この二人、お似合いだと思う)




