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18/25

いざ実食!

翌日の昼休み。

 文官局の廊下には、各部署へ向かう職員たちの足音と、紙の擦れる音が混じり合っていた。


「アンネ! おはよう」


「あぁ、リリー。おはよう」


 リリーが駆け寄ると、アンネは手に持った布袋を、ことりと軽く揺らして見せた。


「持ってきたの? 例のあれ」


「持ってきたわ。ただ、問題はレオナルド様をどうやって呼び出すか、なのよね」


「呼び出すって……。

 幼馴染なんだったら、連絡手段とかは?」


「“今からあなたの胃袋を落としに行きます”って手紙を出せると思う?」


「それはちょっとホラーかも」


 二人でくすりと笑う。


 アンネが袋を揺らすと、布の隙間から、さっきから気になっていた匂いがふわりと漏れた。


 甘くて、香ばしくて、

 明らかにこの階の“書類とインクの匂い”にはそぐわない。


「……アンネ」


 リリーが歩きながら小声で言う。


「なに?」


「それ、絶対に匂い出てる」


「ええ、知ってるわ」


 アンネは全く悪びれずに答えた。


「包みを二重にしても無駄だったの。むしろ、朝より香りが丸くなってる気がするわ」


「熟成させてどうするの!? ここ職場だよ!?」


 リリーが思わず足を止めた、その瞬間。


「アンネ」


 落ち着いた低い声が、背後からかかった。


 二人が振り向くと、そこにはレオナルドが立っていた。

 いつも通り整った微笑み――ただし、その視線は。


 完全に、アンネの手元の袋に吸い寄せられている。


(……隠す気ゼロだ、この匂い)


「こんにちは、レオナルド様」


「こんにちは、リリー嬢。……そしてアンネ」


 一拍置いてから、視線を袋からようやく外す。


「今日は、随分と……賑やかな香りの昼食だな」


「分かります?」


「分かるとも」


 即答だった。


「通路の角を曲がる前から、こちらに手招きしていた」


「匂いが手招きって新しいですね……」


 リリーが小声でつぶやくと、レオナルドは軽く肩をすくめた。


「君たちの仕業だろうと思ってね。……それは、もしや」


「試作です。味見係が必要で」


 アンネが袋を持ち直す。


 レオナルドはわずかに目を見開き、すぐに柔らかく笑った。


「味見係に立候補してもいいかな?」


「ええ。ちょうど、お誘いしようとしていたところです」


 アンネがそう言うと、レオナルドの口元が、音もなく少し緩んだ。


「では、ご一緒しよう。……場所は、さっき空いているのを見た小会議室でどうだい?」


「了解です」


 リリーは心の中でガッツポーズを決めた。


(……おびき寄せるとか考えてたけど、正直、匂いだけで勝てた気がする)


 ◇


 小会議室の窓からは、柔らかな光が差し込んでいる。

 昼休みを告げる鐘の余韻が、まだ微かに空気に残っていた。


 机の上に布を敷き、アンネが包みをそっと開く。


 その瞬間――甘辛い香りが、ふわりと広がった。


「……ああ、これだ」


 レオナルドが、分かりやすく表情を緩める。


 彼の表情がここまでわかりやすく崩れるのを見るのは、リリーにとっても珍しかった。


(……本当に好きなんだ、あの味)


 アンネは、背筋を正したままそんな彼の横顔をそっと窺う。


「お口に合うかは……食べてみていただかないと分かりませんけれど」


「香りだけで、もう八割は合格だね」


「それ、褒め言葉として受け取ってよろしいですか?」


「もちろん」


 レオナルドは迷いなくフォークを取り、一口運ぶ。


 噛んだ瞬間、わずかに目を閉じた。

 眉尻がす、と緩む。


「……うん」


「…………」


 アンネは、返事を待つ間だけ呼吸を忘れている。


「素直に言うと――心底、嬉しい」


「味の……感想をお願いします」


 リリーのツッコミに、レオナルドが小さく咳払いした。


「もう一口、食べてもいいかい」


「それ感想じゃないですよね!?」


 止める暇もなく、二口目が彼の口に消えていく。


 まあ、アンネが明らかに嬉しそうだからいいか、とリリーはそっと心の中で手を引っ込めた。


「甘さが前に出すぎない。……でも、あの“醤油に似た調味料”の香りがちゃんと残っている」


「……はい」


 アンネはこれ以上ないくらい真剣な顔で頷く。


「焼き目もいい。焦がしていないのに、香ばしさだけがきちんと立ってる」


「そこは……火を入れすぎないように気をつけました」


「だろうね。皮の部分、ぱりっとしているのに中はちゃんと柔らかい」


 アンネは、ほんの一瞬だけ口元を緩め、すぐに表情を整えた。


「ありがとうございます。……作った甲斐があります」


「“作った”?」


 レオナルドの手が、ふと止まる。


「はい。今回は私が」


「本当に?」


「本当に」


「それで、この完成度か」


「……ご不満でしたでしょうか」


「逆だよ」


 レオナルドは小さく笑った。


「正直、驚いてる。だって昔は、何でもかんでも黒い塊にしてたじゃないか」


「……それは、褒めていただいていると解釈しても?」


「もちろん」


 少しだけ視線を伏せるアンネの睫毛が、夕陽にきらりと光る。


「でしたら……よかったです」


 レオナルドはフォークを持つ手を一度膝の上で組み、まっすぐアンネを見た。


「見ないうちに、ここまで腕を上げていたなんて。……すごいな」


 その声音は、からかいではない。

 真面目で、少しだけ誇らしげだった。


「努力しましたから」


 アンネは淡々と答える。けれどその耳は、ほんのり赤い。


「……今の一言だけで、十分伝わったよ」


 レオナルドは、残っていた一切れを見つめ、ゆっくりと続けた。


「ちゃんと“好きな味”だ」


 その言葉に、アンネの肩がわずかに揺れる。


「……そう言われると、少し困ります」


「どうして?」


「期待してしまいますので」


「期待すればいい」


 間髪入れず返ってくる。


「それでまた作ってくれるなら、僕としては大歓迎だ。……本気で、毎日でもいい」


 さらりと告げられた言葉に、アンネは一瞬、完全に固まった。


「……相変わらず、無自覚に言いますね」


「そうかな?」


「そうです!」


 そのやり取りを横で聞いていたリリーは、耐えきれず小さく咳払いした。


「……あの、お二人とも」


「何だい?」


「会話に夢中になってますけど、もう一切れしか残ってません」


 レオナルドがはっと皿を見る。

 確かに、照りの乗った肉は最後の一切れになっていた。


「……本当だ」


「あら」


 アンネは少しだけ苦笑した。


「独り占めはよくありませんよ、レオナルド様」


「だって、これは……」


 レオナルドが、ほんの少しだけ、子どものような目でアンネを見る。

 伯爵とは思えない、分かりやすい惜しがり方だ。


 アンネはうっと小さく唸り、視線でリリーに助けを求める。


 全部食べていいですよ、という意味を込めて、リリーがこくんと頷くと――

 アンネの表情がぱっと明るくなった。


「……しょうがないですね」


 わざとらしくため息をついてから、レオナルドに向き直る。


「リリーと私に感謝して、味わって食べてください」


「もちろんだ」


 レオナルドは、最後の一切れを本当に“味わうように”口に運んだ。

 よく噛み、飲み込んでから、ゆっくり息を吐く。


「……ありがとう。お礼と言ってはなんだが」


 そう言って、懐から小さな袋を取り出す。

 中から金貨が一枚、机の上に転がった。


「これで、また美味しいものでも買ってくるといい」


「えっ!? そんな大金は――」


 金貨一枚。

 庶民の感覚のリリーからすると、いつもの昼食が五日分は余裕で賄えそうな額だ。


「そ、そんなにもらえません!」


 両手をぶんぶん振るリリーの手を、アンネがそっと押さえた。


「もらえるものは、もらっとかないと損よ?」


「えぇ……?」


 貴族らしくない台詞に、リリーは思わず目を丸くする。


 その様子を見て、レオナルドも声をあげて笑った。


「そうだ。貰えるものは受け取っておきなさい。

 君たちがこの味をまた作ってくれるなら、安いものだよ」


「……レオナルド様、それは“また作れ”って遠回しに言ってます?」


「遠回しだったかな?」


「あきらかに直球です」


 アンネはそう言いながらも、金貨をそっと受け取った。

 その仕草はどこか誇らしげで、嬉しそうだった。


 リリーは、笑い合う二人を眺めながら、心の中でそっと思う。


(……やっぱり、この二人、お似合いだと思う)

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