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16/25

アンネの想い

アンネが仕事に復帰できるほど体調を取り戻したのは、あの見舞いの日から数日後のことだった。


 昼下がりの街路には、陽射しを受けた石畳のぬくもりが残り、人々の声もどこか軽やかだ。

 久しぶりの休日に遊びの約束をした二人は、城下町の市場通りを並んで歩いていた。


 アンネの足取りは以前より慎重で、歩幅の合間に、体力を測るような小さな間が挟まる。

 リリーはその変化に気づき、自然と半歩うしろに下がって歩調を合わせた。


「……やっぱり、外の空気はいいわね」


 アンネが深く息を吸い込み、空を仰ぐ。青空の端では、雲がゆっくりと形を変えていた。


「ずっと部屋にいたんでしょう?」


「ええ。天井の染みまで覚える勢いで」


 冗談めかした返答に、リリーは小さく笑う。


 露店が並ぶ通りにさしかかると、焼き菓子や果実酒、香辛料の匂いが一気に濃くなった。

 二人は同時に足を止め、顔を見合わせる。


「……寄る?」


「……寄ろうか」


 目が合って、同時にふっと笑う。


 そうして買った焼き菓子を手に、噴水のある広場へ向かう。

 水音が絶え間なく響き、ベンチには日向と日陰がまだらに落ちていた。


 腰を下ろしたアンネは、少しだけ肩を落とすように息を吐く。

 疲れが完全に抜けたわけではないのだろう。それでも、表情は穏やかだった。


「ねえ、リリー」


 しばらくして、アンネが声を落とす。


「私が寝込んでた時……レオナルド様、来たでしょ」


「うん。少し止めたほうがいいのかなーとも迷ったんだけど」


「いいわよ。あの人のこと止めるの大変でしょ? 上司だし、そもそも伯爵だし」


「そうだね、私には難しかったかも⋯⋯。そういえば、幼馴染なんだよね?」


「あぁ、話しちゃったのよね⋯⋯。聞いたわ。特別言いふらすことでもないかと思って今まで言ってなかったんだけど」


 アンネがリリーの機嫌をうかがうように、こっそり覗き込む。

 リリーはアンネを安心させるように、朗らかな笑みを浮かべた。


「大丈夫。気にしてないよ。私がアンネに気を遣うかもって思って言わなかったんでしょ?」


「そ、それもあるかもしれないわね!!」


 耳をほんのり染めながら言うアンネがかわいい。

 撫でまわしたくなる衝動を抑えながらアンネを見つめていると、アンネは話題をそらすように噴水の水面を見つめて、話し始めた。


「⋯⋯レオナルド様が来た時のことなんだけど、最初ね、ノックの音がしてさ。てっきり管理人さんだと思ったの」


「うん」


「だから、寝巻きのまま、髪も結ばずに出たのよ。顔だって……まあ、想像つくでしょ」


「……うん」


 リリーは苦笑しながら頷く。


「扉を開けた瞬間、そこにいたのが――レオナルド様」


 アンネは両手で顔を覆った。


「叫ばなかっただけ褒めてほしいわ」


「それは……」


「しかも、“具合はどうだ?”なんて、いつも通り落ち着いた声で言うのよ。

 こっちは心臓止まりかけてるのに」


「すぐ帰ってくれたんじゃないの?」


「帰らないの!」


 アンネは勢いよく言い切った。


「果物籠持ってるし、椅子引いて座るし、“少し話せるか”とか言い出すし!」


「……優しいけど、タイミングが最悪だね」


「そう! 嬉しいのよ!? 本当に!

 でも同時に、“今じゃない!!”って心の中で叫んでたわ」


 アンネは思い出すように笑い、すぐに眉を寄せる。


「しかもね……“顔色が悪いな”って、じっと見られたの」


「……ああ」


「でもそんな、メイクもできてない、スキンケアだってまともに出来てない、疲れ切って荒れた顔なんて見られたくないじゃない?」


 リリーは激しく頷いた。


「それで、私、変なこと言っちゃったのよ」


「変なこと?」


「“今は見ないでください”って」


 アンネは苦笑する。


「そしたら、“なぜだ?”って。本気で分かってない顔で」


「……なんかレオナルド様らしいね」


「でしょ!? 説明するのも恥ずかしいし、腹立つし、情けないし……」


 アンネは小さく息を吐いた。


「帰ったあと、布団の中で一人で怒ってたわ。なんでよりにもよってこんなときに!!って。来てくれたこと自体は嬉しかったんだけど」


 噴水の音だけが、二人の間を満たす。


「ねぇ、アンネ。これってこんな単刀直入に聞いていいことかわかんないんだけど」


「なに?」


「アンネってレオナルド様のこと好きなの?」


「……なんでわかったの」


「すごいレオナルド様のこと楽しそうに話すから」


「なにそれ、私すごい恥ずかしい人じゃない」


「え? かわいかったよ?」


「やめて、今のそれはもはや攻撃だから」


 アンネは赤くなった頬を冷ますように、自分の顔をぱたぱたと仰ぎ、落ち着かせるように溜息をついた。


「前にね、ちゃんと気持ちを伝えたの。そしたら、“妹みたいなものだ”って言われた」


「……」


「年の差が理由。五歳差よ? 大したことないじゃない」


 声に、抑えきれない悔しさが滲む。


「子どもの頃ならともかく、今はもう大人同士なのに」


「……それでも、簡単には割り切れないよね」


「ええ。だから余計に、あの日の見舞いが……」


 アンネは唇を噛み、照れたように言った。


「優しくされて、期待して、勝手に落ち込んで。

 本当に、面倒な女だと思うわ」


「面倒なんかじゃないよ」


 即座に返したリリーの言葉に、アンネは驚いたように目を瞬かせる。


「ありがとう。リリーは、本当に優しいわね」


 少し間を置いて、アンネは空を見上げたまま続けた。


「実はね……最近好きになったわけじゃないの」


「……?」


 アンネは苦笑した。


「たぶん、最初から」


 その言葉に、リリーは思わず息を呑んだ。


「……小さい頃から、ってこと?」


「そう」


 アンネはゆっくりと頷く。


「物心ついた頃から、あの人がそばにいるのが当たり前だったの。

 家同士の付き合いもあったし、年上で、何でも知ってて、何でもできて」


 そこでふっと目を細める。


「剣の稽古で木剣を落としたら、拾って持ち方を直してくれて。

 文字を書くときに手が震えてたら、“ここはこうだ”って、後ろから手を添えられて」


 自分で思い出しているのか、声が少しやわらぐ。


「試験の点数が悪くて泣きそうになってたら、“次は一緒にやろう”って言って、問題集を全部解き直してくれてね。怒ってるのかと思ったら、最後には必ず頭を撫でてくれるの」


 アンネは小さく笑った。


「だから最初は、“好き”って自覚すらなかったのよ。ただ……」


「ただ?」


「“あの人に褒められたい”“あの人に認めてほしい”って、そればっかり考えてた」


 リリーの胸が、きゅっと締めつけられる。


「気づいたら、他の誰に言われるよりも、レオナルド様の一言で一喜一憂してて」


 アンネは肩をすくめた。


「でもね、相手はずっと年上だし、自分より身分の高い伯爵だし、私は“子ども”で。

 だから勝手に、“これは憧れなんだ”って思い込むことにしたの」


「……」


「そうしたほうが、楽だったから」


 アンネの声は穏やかだったが、その奥に長い年月の重さが滲んでいた。


「大人になってから、ようやく分かったのよ。

 ああ、これ、ちゃんと恋だったんだって」


 リリーは言葉を失う。


「でもその頃には、もう遅かった」


 アンネは苦笑する。


「向こうから見た私は、“ずっと知ってる妹分”でしかなかったから」


 風が吹き、アンネの髪を揺らす。


「それでもね、一度くらいはちゃんと伝えたかった。

 誤魔化さずに、“昔から好きでした”って」


「……それで、振られたんだね」


「ええ。丁寧に、優しく」


 アンネは目を伏せる。


「“大切だけど、ごめん”って」


 リリーは胸の奥がひりつくのを感じた。

 その言葉の残酷さも、誠実さも、痛いほど分かる。


「……それでも、嫌いになれないの?」


 問いかける声は小さかった。


 アンネは少し驚いた顔をしてから、静かに笑った。


「なれたら、どんなに楽だったか」


 そして、リリーを見る。


「でもね、リリー」


「……うん」


「今でも好きなのは事実だけど、その気持ちを頑張って消そうとか、そんなことはしようと思ってないの」


「え?」


「これは私の気持ち。相手に何を言われたからって、きれいさっぱり消えるものでもないでしょう?」


 その言葉は、強がりで、でも確かな覚悟を含んでいた。


「だからね、あきらめないって決めたの。それでね」


 アンネがふっと表情を緩める。


「レオナルド様、リリーのサンドイッチの話、すごくしてたのよ」


「……え?」


 唐突すぎる名前に、リリーは間の抜けた声を出してしまった。


「“あれは何の味付けだ”とか、“もう一度食べてみたい”とか。

 それもね、一回や二回じゃないの」


 アンネは肩をすくめる。


「会話の合間にぽつりと、“あの香ばしい匂いは……”なんて呟いたりしてさ」


「……それ、独り言ですか?」


「ええ。しかも真剣な顔で」


 二人は顔を見合わせ、同時に沈黙した。


「……照り焼きのこと、かな」


「十中八九ね」


「そんなに……?」


 何が彼をそこまで駆り立てているのだろう。

 あの沈着冷静で理知的なレオナルドが、一介のサンドイッチをここまで引きずる理由が分からない。


「ねえ、リリー。あの人ね」


 アンネは声を潜め、少しだけ身を乗り出す。


「“あれは貴族の食卓には存在しない味だ”って言ってたわ」


「……大げさじゃない?」


 貴族の食卓に上がらないものなんてないのでは??


「本気だったわよ。“あれを知らない人生なんて、損してた”とか言ってたし」


「表現が重い……!」


 リリーは思わず額を押さえた。


「だから今度、レシピ教えて」


「……え?」


「私が作るの」


「……あの人に?」


「もちろん」


 アンネは涼しい顔で頷く。


「胃袋からつかめって言うでしょう?

 散々、気持ちから逃げてきた分、今は全力でアピールして、正面からぶつかるって決めたの」


「……アンネ……」


「照り焼きは、あくまで“入口”よ」


「入口が強すぎる……!」


「でもほら、男の人って、こういうの弱いじゃない」


「たしかに……レオナルド様、弱そう……」


「でしょ?」


 アンネはにやりと笑った。


「まずは“あの味をもう一度”って思わせて、そこから――」


「ストップ! 作戦が具体的すぎる!!」


 リリーは思わず吹き出し、次の瞬間にはアンネにぎゅっと抱きついていた。


「アンネ、かっこいい……! イケメン!!」


「ちょ、ちょっと……!」


 突然の抱擁に、アンネは目を見開く。


「急にびっくりするじゃない」


 けれど突き放すことはせず、軽くため息をついただけだった。


「それにしても……」


 リリーは顔を上げ、目を輝かせる。


「今から行こう! 材料!」


「……今から?」


「今から!」


「まだ日も高いけど……」


「大丈夫! 照り焼きは逃げないけど、やる気は今がピーク!!」


「理屈が雑すぎるわ……」


 アンネは苦笑しながらも立ち上がる。


「ほんと、勢いだけは一人前ね」


「えへへ」


 リリーはアンネの手を取って、ぐいっと引いた。


「ほら、行こう!

 レオナルド様の運命(胃袋)がかかってるんだから!」


「……言い方」


 そう言いながらも、アンネの足取りはどこか軽かった。


 二人は顔を見合わせ、同時に笑う。


 噴水の水音が、少しだけ弾んで聞こえた。


(……アンネ、かっこいいなぁ)


 隣を歩き出した友人の横顔を見ながら、

 リリーは、自分の胸の奥にも、そっと問いかける。


(私も……ちゃんと、自分の気持ちから逃げないほうがいいのかもしれない)


 誰にも聞こえない、小さな決意だけが、静かに胸に落ちていった。

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