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すれ違い

 朝一番の文官局は、紙とインクの湿った匂いが混じり合っていた。

 人影はまだまばらで、窓辺から差し込む光だけが、規則正しく床を区切っている。


 リリーは抱えた資料の重みよりも、胸の奥でずっと燻り続ける“もうひとつの重み”に意識を引きずられていた。


(……今日、ちゃんとレイ様の顔、見られるかな)


 昨日から続く、微妙な気まずさ。

 避けてしまったのは――いや、避けようとしたのは、自分の弱さゆえだ。


 恋心を自覚してしまった以上、真正面から向き合ったら、何かが壊れてしまう気がする。


(昨日だって、寝る前に色々考えすぎて熱出したのに……!

 私はただ、遠くから推しを眺めて床に這いつくばってるくらいがちょうどいい存在だったのに!

 あんなに“認識”されちゃったら、もう尊さ通り越して猛毒だよ……。ただでさえ、身分不相応に想っちゃってるのに……)


「……はぁ」


 溜息が、ひとつこぼれ落ちたとき。


「朝からずいぶん重たい溜息ですね、リリーさん」


「エ、エリオット様……」


 振り返ると、男爵家嫡男エリオットが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

 今日も穏やかで、適度な距離感で声をかけてくれる。


 けれど――昨日スカウトを受けてしまった以上、その姿を見るだけで「返事をしなきゃ」という重みがのしかかる。


(ただでさえレイ様のことで頭がいっぱいなのに……)


 リリーは目を伏せ、控えめな笑みだけ返した。


「書類の運搬中ですか?」


「はい。これを執務室に運ぶところで……」


「お手伝いしましょう。領主の私が言うのも妙ですが、荷物くらいは持てますから」


 差し出される手。

 その申し出は、とてもありがたい。まさに「理想の上司」というやつだ。


「あ、ありがとうございます。では、これだけ……」


 リリーは一番軽そうな束だけを渡し、残りは自分で抱え直した。


 エリオットは気づいたように苦笑する。


「相変わらず遠慮深いですね」


「遠慮というか……癖でして」


「……誰かの影響でしょうか?」


「えっ……?」


 心臓がびくりと跳ねる。

 けれど、エリオットはそれ以上踏み込まなかった。


「冗談ですよ」


 軽く笑ってくれるその態度が、逆に優しい。


 リリーは曖昧に笑ってごまかした。


「リリーさんは、もともと地元はこちらなんですか?」


「いえ、とても王都で暮らせるような家じゃありません。片田舎で育ちました」


「そうだったんですか。では、なぜ王都に?」


「王都の学校に通わせてもらってたんです。両親が勉強だけはさせようと思ってくれたみたいで……無理して学費を出してくれました」


 本当は、寮暮らしの学費を抑えるために特待生枠で潜り込んだのだけれど――そのあたりは、心の中にしまっておく。


「良いご両親ですね。でも、卒業後に実家へ戻ろうとは?」


「王都の方が仕事が多いので。暮らしは便利ですけど、人も多いですし……ちょっと落ち着かないことも多いです。たまに田舎が恋しくなります」


「気持ち、わかります。私もたまにこうして領地から出てくると、きらびやかさと人の多さに圧倒されますから。なんというか……視界に入ってくる情報量が多すぎて」


「すごくわかります! 少し疲れちゃいますよね」


「もしよければ、滞在中くらいは田舎トークに付き合っていただけると嬉しいです」


 エリオットが、冗談めかしてイタズラっぽく笑う。


「ぜひ」


「ありがとうございます。また、午後に依頼していた仕事の件で伺いますね」


「承知いたしました。ここまで運んでいただいて、ありがとうございました」


 リリーが軽く礼をして、エリオットと別れる。

 そのまま通路を進もうとして――視界の端に、廊下の柱の影に立つ人影が入った。


「……レイ様?」


 驚いて声を上げると、レイがようやくこちらへ視線を向けた。

 けれど、その表情はどこかぎこちない。


「おはようございます、リリー嬢」


「あ、お、おはようございます……」


 挨拶だけで、妙に緊張しているのがわかる。

 呼吸も、いつもより少し浅い。


 沈黙が落ちる。


「……その、先ほどはエリオット殿と話されていたのですね」


「え? あ、はい。少し世間話を」


「そう……ですか」


 それきり会話が続かない。


 リリーは不安になった。


(……怒ってる? いや、怒る理由なんてないはず……)


「レイ様、その……」


 思い切って尋ねようとした瞬間、レイはどこか無理をしたような微笑みを浮かべた。


「すみません。少し考えごとをしていて。……また、後ほど」


 そう言って、わずかに早足で歩き去っていく。


「……レイ様?」


 残されたリリーの胸は、ざわざわと波立っていた。


(今のって……やっぱり“避けられた”よね? 私、なにかした……?)


 それとも――


(エリオット様と“話してたから”?)


 ありえない、と即座に否定しようとして、心臓が跳ねた。

 昨日、喫茶室で向けられたあの視線と、言葉を思い出す。


(……でも、私なんかをそんなふうに気にかけるわけ……いや、きっとこれは“推しが尊すぎて私にまで気を配ってくださってる”ってことだ! さすがレイ様!!尊い!!)


 突然、窓の方へ向き直ると、リリーは胸の前で手を組み、こっそり拝んだ。


「……なにしてるの?」


 呆れた声とともに、アンネが近づいてくる。


「いや、その……レイ様がこの世に存在してくださることへの感謝を、ちょっと」


「いつものやつね。……職場で急に拝むのやめてくれる? めちゃくちゃ目立つから」


「ごめん、心の中の衝動が抑えきれなかった」


「もういっそ、拝むための教会でも作ったら?」


「いやいやいや、さすがの私でもそこまでのことは……」


 言いかけて、ぴたりと固まる。


(……待てよ? 教会じゃなくて“神棚”くらいなら……?

 前世でも推し神棚作ってる人いたし、この世界にも流行らせればみんな快適な推し活ライフを――)


「さっきのは冗談だからね!? ちょっと黙り込んで真剣な顔するのやめて! 怖い!」


 アンネが慌てて肩を揺さぶる。


 リリーは我に返り、「冗談冗談」と小さく手を振った。


 ***


 昼休みの文官局は、規律正しい静けさの中に、食堂へ向かう足音や小さな笑い声が混じっていた。


 日常の音。

 なのに、リリーの胸はまったく落ち着かなかった。


(うーん……やっぱり、様子おかしかったよね)


 午前中にすれ違ったときのレイは、必要以上に距離を取っているように見えた。


 そもそもレイは、普段は伯爵家の執務室にいることが多い。

 あちらは簡単に出入りできる場所ではなく、むやみに押しかけるのもはばかられる。


(……用事、無理やり作って伯爵家に行くべき? でも、仕事以外で行くのは違うよね……)


 そんなことをぐるぐる考えながら、リリーは書類棚に手を伸ばした。


「リリーさん」


「あ、エリオット様。依頼いただいていた資料、こちらに」


 隣の部署の文官たちに軽く会釈しながら、エリオットが自然に近くに立つ。


「ありがとうございます。本当に仕事が早くて助かります。

 そういえば、この前お話しした件――考えていただけましたか?」


「はい、とてもありがたいお話だとは思っていて……。ただ、まだ決めかねていて……」


「急かすつもりはありません。ただ、私は今月中には領地へ戻らなければならなくて。

 ですので、それまでにお返事をいただければ十分です」


 エリオットは困ったように笑った。


 そのとき、通路の奥から靴音がした。


 リリーがそちらを見ると――レイがいた。


 書類を抱えたまま、こちらに向かって歩いてくる。

 そして、エリオットとリリーを視界に収めた瞬間、動きがほんの僅かに止まった。


 気づいたのは、彼の表情を追い慣れたリリーだけだった。


(……話しかけるチャンス……? でも今はエリオット様と話の途中だし……)


「リリーさん、その資料、重そうですね。お預かりします」


「あ、ありがとうございます――」


 自然に束を渡そうとした、そのとき。


 レイの手が、リリーの手を包むように重なった。


 優しいのに、どこか焦りの滲む温度で。


「……失礼しました。リリー嬢」


「ど、ど、どうかなさいましたか、レイ様……?」


(いつの間にそんな近くに!? 足音聞いてたはずなのに!?

 足が速いところも素敵だけど、それより――推しに手を握られた!! もう二度と洗えない……!)


 握られたのは一瞬。

 けれど心臓には、永遠みたいな時間だった。


 レイはすぐに手を離し、動揺を隠すように口元へ指先を当てる。


「……失礼。少し、手が滑りました。エリオット殿も、お邪魔してしまい申し訳ありません」


「僕は全然気にしていませんよ。用事があるなら、どうぞ先に」


 エリオットが穏やかに返す。

 だがレイはそれ以上言葉を重ねず、短く頭を下げると足早に去っていった。


 その横顔は、見慣れないほど固かった。


 残されたリリーは、抱えた資料を見下ろしながら、胸の鼓動を必死に落ち着けようとする。


 推しを遠くから拝むだけだった日々には、もう戻れないところまで。

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