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気づき始める想い

 積み上がる帳簿、配布されたばかりの会議資料、

 早朝から届く領地便──それらが生む紙の音を包み込むように、

 廊下にはインクと羊皮紙の匂いが満ちていた。


 リリーは、いつも通り机に向かい、羽ペンをそっと走らせている。


(昨日は……ちょっと、いろいろあって……)


 ふとした瞬間、腰に回った腕の感触がよみがえる。


 崩れかけた体を支えた、あの確かな温度。


(忘れなきゃ。仕事。集中、集中……)


 深呼吸をして、目の前の文字に意識を戻そうとした、そのとき。


「リリーさん。おはようございます」


 少し離れた机から、落ち着いた声がかかった。


「エリオット……様」


 顔を上げると、男爵家嫡男エリオットが丁寧に会釈をし、柔らかく微笑んでいた。


「昨日の書類、本当に助かりました。あなたがいてくださると心強いです」


「い、いえ……わたしはただ、写しただけで……」


「それが難しいんですよ。整っていて、とても読みやすかった。

 もし今日、少し時間が空くようでしたら……お礼にお茶でも」


 お礼。

 その言葉に、リリーは返事に迷う。


 その瞬間──


 背後を、ひやりとした空気がかすめた。


 振り返ると、出勤したばかりのレイが書類の束を手に立っていた。


「……おはようございます、リリー嬢」


「お、おはようございます……!」


「エリオット殿も」


「レイさん。昨日はどうも」


 エリオットはいつも通り爽やかに笑う。

 だが、レイは一切笑わなかった。


 机に置かれた彼の指先に、ほんのわずか力がこもる。


「リリー嬢。朝一で、至急確認しておきたい案件があります。

 可能でしたら、先にこちらから取り掛かっていただけると助かります」


「え……? あ、はい!」


(至急……? この書類、たしか一ヵ月後の会議用の下書きじゃ……?)


 声色は落ち着いている。言葉も丁寧だ。


 それなのに、横顔は少しだけ硬い。


「あの、エリオット様。お茶のお話は──」


「急ぎなのは、こちらです」


 かぶせるような、低い声。


 文官局には似つかわしくない、鋭さが混じっていた。


 エリオットは目を瞬き、それでも穏やかな笑みを崩さない。


「レイさんは、相変わらずお忙しそうですね」


「……ええ。特に今日は」


 レイは、ちらりとエリオットを見たあと、すぐにリリーの手元へ視線を戻す。


 まるで──エリオットとの会話そのものが気に入らないと言っているかのように。


(ど、どうしよう……レイ様、絶対いつもよりちょっと怖い……!

 いや、怖いってほどじゃないんだけど……刺さる……!)


 リリーはおそるおそる書類を抱き上げ、席を立った。


「では、こちらを先に」


「お願いします」


 そのとき、エリオットが自然な調子で声をかける。


「リリーさん、この後少し時間はありそうですか?

 例のお茶の件、今日が難しければ明日でも──」


「リリー嬢は忙しい」


「…………」


 先に返事をしたのはレイだった。


 言葉自体は間違っていない。

 だが、普段の彼からは滅多に聞かない、鋭いトーンが混じる。


 文官局の空気が、わずかに固まった。


 エリオットは一瞬だけ目を見開き、すぐに苦笑を浮かべる。


「そうですか。では、また改めて伺います」


 礼儀を崩さない声。

 けれど、その奥にわずかな驚きが混ざっていた。


「失礼します」


 エリオットが去っていく。


 リリーは、レイの横顔をちらりと盗み見た。


(……レイ様、やっぱり……機嫌、良くない?)


 けれど、その問いを口にする勇気はなかった。


 ◆ ◆ ◆


 午後。


 与えられた書類を整理しながら、リリーは頭を抱えそうになっていた。


(どうしよう……エリオット様のお茶のことも、レイ様の態度も……

 どっちも気になって全然集中できない……!)


 そんな時。


「リリーさん、先ほどの件ですが」


 控えめな声がして、顔を上げるとエリオットが立っていた。


「あっ……!」


「さっきは、タイミングが悪かったですね。

 もしご迷惑でなければ、本当に短い時間でも構いませんので……お礼をさせてください」


 押しつけがましさはない。

 ただ、礼儀としての「お礼」を尽くしたい、といった真っ直ぐさがある。


(断る理由……ない、よね? 仕事の話もできそうだし……)


 ほんの一瞬だけ迷った後。


「……では、今日。お仕事が終わってから、少しだけなら」


「ありがとうございます」


 穏やかな笑み。


 リリーも、少しだけ緊張が和らいだ。


(うん……これは別に、変な意味じゃなくて……仕事の一環、だよね。たぶん)


 ──そのやり取りを。


 レイは、離れた資料棚の影から、静かに見てしまっていた。


 手にしていた書類が、わずかに震える。


(また……あの男爵か)


 胸の奥で、小さな波紋が広がる。


 怒り、というには足りない。

 けれど、明らかに心拍数だけが上がっていく。


 焦りに近い何か。

 苛立ちに似たざわめき。

 そして──


(……嫉妬、なのか)


 その言葉を頭の中で思い浮かべた瞬間、レイは自分で自分に驚く。


 ペンを握る指先に、自然と力がこもった。


(仕事相手にお礼の席を設ける……それだけのことだろう。

 それなのに、どうしてこんなにも落ち着かない)


 文官局の午後は、冬が抜けきらないというのに相変わらず忙しい。

 伯爵家の執事としての業務も重なり、レイの机には常に書類が積まれていた。


 だからこそ、彼はペンを走らせながら、無理やり考えるのをやめようとする。


(……今は仕事だ。考えるのは後にしろ)


 そう自分に言い聞かせるように。


 ◆ ◆ ◆


 王宮内の小さな喫茶室は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。


 窓際の席に座ると、手入れの行き届いた庭園が一望できる。

 夕暮れの光が池の水面をきらきらと照らし、その揺らぎが天井近くまで映っている。


「ここ、静かでいいでしょう?」


「はい。こんな場所があるなんて知りませんでした」


「文官局の方は意外と知らないみたいですね。軍務館や技術院の人がよく使っていますよ」


 エリオットは穏やかに笑い、紅茶のメニューを開いた。


 話題は終始、仕事のことだった。


 領主としての視点から見た書類の運用。

 領内の人材不足の話。

 王都と地方の感覚の差。


 リリーにとっては、単純に興味深い話ばかりだ。


(この人とは……うん、気楽に仕事の話ができる。

 同年代なのに、もう領地を任されてるなんて、やっぱりすごいな……)


 仕事終わりにまで仕事の話をするなんて、と言う人もいるだろう。

 けれど、こうして「現場側」の声を聞けるのは純粋にありがたい。


 ふと、エリオットが表情を引き締めた。


「これは、軽い打診程度に受け取っていただきたいのですが……」


「はい?」


「もしよければ、将来的に……我が男爵領に来ていただけないかと考えていまして」


「わたしが、ですか?」


 思わず聞き返してしまう。


「ええ。以前リリーさんが作成した資料を拝見して、本当に感心しました。

 レオナルド様からも、仕事が早く正確だと伺っていて……ぜひうちの領地の発展に力を貸していただきたい、と」


「そ、そんな……大したものでは……」


「王宮の文官は公務扱いですから、どうしてもお給金の面では限界があるでしょう?

 こちらとしては、それなりの待遇を用意するつもりです」


 あまりにも現実的な話に、リリーは一瞬言葉を失った。


(たしかに……王宮勤めは安定してるけど、お給料が特別高いわけじゃないし……

 実力を見て、評価してくれてるのは、正直すごく嬉しい……)


 が。


(……でも、男爵領に行ったら、レイ様にはもう会えなくなる……)


 脳裏に、推しの横顔が浮かぶ。


 執務室で真面目な顔をしている時。

 ふっと笑った時。

 名前を呼んでくれた時。


(今のわたしの生きがいであり、酸素であり、主食みたいな存在なんだけど……!?

 推し供給ゼロの生活なんて、想像しただけで倒れる……!)


 頭の中でだけ、机に突っ伏す。


 どう答えればいいか考え込んでいると──


「……楽しそうですね」


 不意に、背後から低い声がした。


「えっ?」


 振り返ると、そこにはレイが立っていた。


 文官局への追加書類の配達の帰り──というには、ここはあまりに文官棟から離れている。

 どう見ても「偶然」の距離ではない。


「レイ様……?」


 驚いて名前を呼ぶと、レイは一拍置き、柔らかな笑みを作った。


「失礼しました。お邪魔するつもりはなかったのですが……」


 その笑みは、どこか張りついている。


「文官局からの帰りに、たまたまこちらを通りかかりまして。

 リリー嬢の姿が見えたものですから」


 エリオットが席を立ち、礼をする。


「レイさん、こんにちは。仕事のあと、少しだけお時間を頂戴していました」


 レイは短く頷いた。


 だが、その視線はエリオットではなく、テーブルの上の二つのカップと、リリーの横顔と、その向かいに座る椅子の位置ばかりを追っている。


「そうですか。……有意義な時間だったようで何よりです」


 言葉自体は礼儀正しい。


 それでも、声の温度は低かった。


(レイ様……? どうしてそんなふうに……)


 胸の奥がざわつく。


 エリオットは空気を読んだのか、「そろそろ戻りますね」と席を離れた。


「リリーさん。またお話できたら嬉しいです」


「はい。本日はありがとうございました」


 エリオットが喫茶室を出て行き、扉が閉まる。


 静寂が落ちた。


 テーブルの上には、飲みかけの紅茶と、気まずい空気だけが残る。


 レイの指先が、ほんの僅かに揺れた。


「……仲が良いんですね」


「え?」


「さっきの、男爵殿と。

 そんなに話しているところを、今まで見たことがなかったので」


 抑えた声色の中に、棘のようなものが混じる。


「えっと……仕事の話ばかりでしたけど……」


「仕事の話は、あんなに楽しそうにするものなんですね」


「そ、それは……」


 否定しようとして、言葉に詰まる。


 確かに、楽しかった。

 勉強にもなった。


 レイはそんなリリーの様子を見て、ふっと目を伏せた。


「……すみません。おかしなことを言いました」


「い、いえ……」


「ただ、少し戸惑っているだけです。

 あなたが、ああして誰かと並んで座っているのを見たのは……初めてだったので」


 静かに落とされた一言が、リリーの胸に波紋を広げる。


(初めて……)


「あなたが誰と話して、誰と笑って、誰と時間を過ごすかは、本来僕には関係のないことです。

 頭では、よくわかっているつもりなのですが……」


 一度言葉を切り、レイは小さく息を吸った。


「それでも、さっきの光景は……あまり、好きなものではありませんでした」


 「嫌だ」と言い切ることはしない。

 けれど、その一歩手前まで踏み込んだ正直さ。


 喉の奥まで出かかった本音を、ぎりぎりのところで選び直したような言い方。


 リリーは目を瞬かせた。


「レイ様……?」


「自分でも、まだ上手く整理できていません。

 あなたが他の男性と笑っているのを見ると、胸のあたりが落ち着かなくなる。

 それが、どういう感情なのか」


 それは、彼が初めて言葉にした「嫉妬」だった。


 名前を知らないままの嫉妬。


 リリーは、息を呑む。


 喉の奥がきゅっと締まって、言葉が出てこない。


「こんな話を聞かされても、迷惑ですよね」


 レイは苦笑を浮かべ、視線を逸らそうとした。


「……すみません。忘れてください」


「っ、ま、待ってください!」


 気づけば、リリーはレイの袖を掴んでいた。


 自分でも驚くほど、強く。


 レイが目を見開く。


「迷惑なんて……。そんなふうに思ってもらえること……」


 胸が熱くなる。


 言い切るのが怖くて、最後の言葉が小さくなった。


「……少し、嬉しいと……思ってしまいました」


 自分で言いながら、完全に自爆している。


(なに言ってるの私ーーー!!)


 顔から火が出そうだ。


 レイは、しばらく何も言わなかった。


 そして、小さくこぼす。


「……そうですか」


 その声音には、ほんの僅かな安堵が混じっていた。


「実は、僕も慣れていません。

 誰かに、こんなふうに心を乱されるのは」


 それは、彼にとっても“初めて”で。


 その告白が、空気をやわらかく揺らす。


 さっきまで重かった喫茶室の空気が、少しだけ軽くなる。


 まるで、二人の距離が一歩近づいたみたいに。


「……レイ様」


「はい」


「その……」


 このまま、全部言ってしまいたい。


 でも。


(わたしだって、まだ怖い。

 推しだからって言い訳して逃げてきたのに……)


 胸の奥に渦巻くものを言葉にしようとした、その瞬間──


「リリーさん、失礼します!」


 喫茶室の扉が勢いよく開いた。


 顔を出したのは、文官局の同僚だ。


「さっき書庫から呼び出しがありました! 急ぎの確認だそうです!」


「あっ……はい! すぐ行きます!」


 助かったような、惜しいような感覚で立ち上がる。


 レイが小さく笑みを浮かべた。


「行ってください。……仕事ですから」


「……はい」


 駆け出す前、もう一度だけ振り返る。


 レイは静かにこちらを見ていた。


 少し寂しそうで、それでいて、どこかほっとしたような眼差しで。


(どうしよう……)


 胸の痛みは、もう“推しが尊い”だけでは説明できなかった。


 それが何なのか、リリーはとっくに知っている。


 けれど、まだその名前を、口に出す勇気だけがなかった。

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